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追放料理人の兵糧戦記

第1話 第1話

第1話

第1話

炊煙が、絶えていた。

 辺境ルヴァン平原、王国軍第七方面の陣所。晩秋の風が枯れた旗指物を鳴らし、天幕の隙間から覗く空は鉛色に沈んでいた。煮炊きの湯気も、薪を割る音も、鍋をかき回す木杓の軋みもない。ただ、飢えた兵の咳と、馬の鼻息ばかりが低く流れていた。風が運んでくるのは、湿った土と、古い血と、乾いた汗の匂い。本来ならこの刻限、陣の中央には薪の爆ぜる音が響き、塩をひとつまみ落とした麦粥の湯気が立ちのぼり、兵たちは木椀を手に列を作っているはずだった。だがいま、列を作っているのは負傷兵の担架ばかりで、椀の底には干からびた粥の痕だけが残っていた。

 ユーリ・ヴァレンは、泥に膝を突いて息を整えた。宮廷で支給された料理人の白衣は、王都から追われる道中で土と雨に汚れ、もはや何色とも言えぬ色をしている。腰に下げた庖丁一本。それだけが、宰相グラナドの前で「無能」と断じられた男に残された、かつての矜持だった。刃はこまめに研いでいた。どれほど泥にまみれた夜も、篝火の届かぬ野宿の闇でも、袖口で拭い、指の腹で刃先を確かめた。庖丁が鈍れば、料理人は死ぬ。師の言葉だった。

 ——毒味ばかりで皿を出さぬ無能め。宰相の冷えた声が、まだ耳の奥に残っている。金糸の縫い取りが施された宰相の袖が翻り、磨き抜かれた大理石の床に、ユーリの膝が打ちつけられた音まで、鮮明に思い出せた。

 十八年前、前世の記憶を持ったままこの世界に生を受けた。日本で料理研究家として味覚を磨いた男の舌は、転生してなお鋭敏すぎた。王宮の食材に混ぜ込まれた微量の毒、熟成を過ぎた肉のわずかな酸味、水源の鉄気——そのすべてを言い当てるたび、宮廷は彼を疎んじた。毒を見抜く者は、毒を盛る者と紙一重だと。舌が鋭いほど、背に刺さる視線は冷たくなった。王妃付きの侍女は、ユーリが厨に入るたび袖で鼻を覆った。同僚の料理人たちは、彼の手から皿を受け取ることさえ嫌がった。

「……ここが、俺の流された先か」

 ユーリは顔を上げ、陣所を見渡した。息を呑んだ。

 そこにいたのは、軍ではなかった。骨と皮ばかりの影法師たちが、ぼろを纏って座り込んでいる。落ち窪んだ眼窩、薄く開いた唇、力なく垂れた腕。頬骨は皮を突き破らんばかりに浮き出し、首筋の皮膚は羊皮紙のように乾いて皺を寄せていた。誰も彼もが、まるで己の影にすがるようにして、地面に座り込んでいる。

***

 天幕の間を縫って歩くうち、兵のひとりが黒パンをかじっていた。かじる、という動作ですらない。歯が立たぬのだ。石と見紛うばかりに乾き切ったそれを、若い兵は水筒の水でふやかし、喉に流し込もうとしていた。水筒の中身はしかし、濁った泥水だった。雨水を溜めたのだろう、表面に枯葉の屑が浮き、底には泥が沈んでいる。兵は一口含み、顔をしかめ、それでも飲み下した。喉仏が痛々しく上下した。負傷兵が横たわる一角では、布を巻いた脚の下に黒ずんだ染みが広がり、蠅が群れていた。甘ったるい、鉄錆の匂い。膿んだ傷口の饐えた臭いが、風に乗ってユーリの鼻腔を刺した。軍医らしき男は薬草の束を握りしめたまま、虚ろな目で空を見ていた。指先の薬草はすでに枯れ、茎が折れていた。それでも男は放さなかった。放せば、己の仕事が終わってしまうとでもいうように。

「……おい、そこの者。見ぬ顔だな」

 重い声が背に落ちた。ユーリが振り返ると、ひとりの女騎士が立っていた。

 背は高く、くすんだ銀の髪を後ろで束ね、胸甲には幾度も打ち直された痕がある。鉄の継ぎ目には乾いた血が黒く固まり、肩当ての縁は刃で削がれたように欠けていた。眉は太く、眼窩の奥の蒼い瞳は、怒りと疲労と、それでもなお消えぬ責務の火をたたえていた。隊長格——ユーリは直感した。立ち姿に、兵を束ねる者特有の重心があった。

「ユーリ・ヴァレンと申します。王都より参りました、元・宮廷料理人です」

「料理人」女騎士は短く笑った。笑いというより、喉の奥で何かを噛み砕く音に近かった。「ロザリンデ・フォン・イルゼだ。見ての通り、ここに料理する物はない。塩も、麦も、薪さえも足りぬ。王都は我らを忘れたか」

 その声には、怒鳴るだけの体力すら残されていないような、削ぎ落とされた諦めが滲んでいた。だが瞳の奥の火は、まだ消えていなかった。ユーリはそれを見て取った。消えていない、だからこそ苦しいのだと。

 ロザリンデは顎で、天幕の脇に並ぶ樽を示した。ユーリは近づき、ひとつを叩いた。空洞の音が返る。蓋を取れば、底にわずかな白い粒が張りついているだけだった。塩である。指先でつまみ、舌先に乗せた。海塩ではない。内陸の岩塩、それも粗く砕いたもの。雑味が強いが、いまはそれさえ宝に等しい。次の樽も、その次も、同じだった。叩けば空、覗けば底、どの樽にも同じ絶望が張りついていた。

「三日前までは、あった」

 樽の傍らで、老いた兵糧係が樽の縁を拳で叩いていた。白髪を短く刈り、頬には刀傷。老兵糧係バルト——後にユーリが名を知る男だ。指の節は太く、長年麻袋を担いできた肩は片方だけが盛り上がっていた。

「夜襲でな。敵がどこから嗅ぎつけたか、兵糧庫ばかりを選んで火矢を放ちおった。麦は焦げ、塩は溶け、干し肉は灰になった。明日の朝食の算段すら立たぬ。料理人殿、あんた、この陣で何を煮る気だ。石ころか」

 バルトの声は掠れていた。怒鳴りたいのに怒鳴れぬ者の声だ、とユーリは思った。

 ユーリは答えなかった。答えられなかった。膝を折り、地面に置かれたひとつの鍋を覗き込んだ。兵糧係が最後にこしらえた粥の跡だろう、鍋底には焦げついた黒い薄膜が張りついていた。麦の焦げ。指先で触れると、乾いた炭の感触。鼻を近づければ、かすかに香ばしい匂いがまだ残っていた。焦げてはいるが、死んではいない。麦の魂は、まだここにある。

 ——戦は、胃袋で決まる。

 前世の師が、まだ若かったユーリに幾度も繰り返した言葉だった。厨を知らぬ将が、どれほど立派な策を立てようと、空きっ腹の兵は半里も走れぬ。三日飢えた人間に刀は握れぬ。腹が温もっていれば、人は一里でも多く歩き、一太刀でも多く振るう。戦場における米一粒は、矢一本より重い。

 師は日本の片田舎で小料理屋を営んでいた老人だった。戦争など知らぬ人だったが、飢饉を知っていた。貧しさの中で人を立たせる味を、知っていた。焦げた飯の底を削り、水を差し、塩をひとつまみ。それだけで、人は翌朝もう一度立ち上がれる。味は記憶であり、記憶は力だ——そう師は言った。

 鍋底の焦げを、ユーリは指の腹でゆっくりと撫でた。炭の粒が指紋に食い込み、黒く染まる。その黒さの奥に、ユーリは何かを見ていた。

「——ロザリンデ殿」

 顔を上げると、女騎士は黙ってこちらを見下ろしていた。

「この陣に、麦は一粒もありませぬか。ほんのひと握りでも」

「焼け残りの籾なら、荷車一台分ほど。灰まみれで、食えたものではない」

「河原の石は」

「石?」

「石です。川の底に沈んでいた丸い石を、二十ばかり」

 ロザリンデは眉をひそめた。バルトは樽の縁に腰を落とし、口を半開きにしていた。ユーリは立ち上がり、腰の庖丁の柄に手を添えた。白衣の汚れも、もはや気にならなかった。庖丁の柄は、握り慣れた掌の形に馴染んでいた。

「料理人殿、あんた、正気か」

「正気です」ユーリは静かに言った。「飢えた兵の前で冗談を言える男なら、宮廷を追われてはおりません」

 風が、一段強く吹いた。どこかで馬が低くいなないた。負傷兵のうめき声が、天幕の奥から細く流れてくる。ユーリは拳を握った。指の関節が白く浮いた。掌には、鍋底の焦げの黒が、まだ残っていた。

 ——ここで鍋を掲げねば、この兵たちは明日を見ぬ。

 宰相に嗤われた舌が、いま初めて、意味を持とうとしていた。毒を見抜くための鋭さが、生かすための鋭さに変わる瞬間を、ユーリは背骨の芯で感じ取っていた。舌の奥、喉の手前、長らく眠っていた何かが、ゆっくりと目を開けていく感覚。ロザリンデが何事かを問おうと口を開きかけたそのとき、北東の空に、黒い煙が一筋、細く昇った。

 狼煙だった。味方のものではない。

 バルトが顔色を変え、立ち上がった。ロザリンデの手がすでに剣の柄にかかっている。指の甲に浮いた古傷が、きつく握られて白く浮いた。

「——また来るか」女騎士は低く呟いた。「今度は兵糧庫ではない。我らの首だ」

 ユーリは鍋を抱え上げた。焦げついた黒い鍋底が、冷えた陽の光を鈍く弾いた。腕の中で、鍋はずしりと重かった。空の鍋が、こんなにも重いものだとは知らなかった。

 その右目の奥で、見知らぬ文様が、ひとつ、小さく脈打ったような気がした。

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