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欠陥聖女は辺境で守られる

第1話 第1話

第1話

第1話

朝の鐘が鳴っても、セラフィナは祭壇から立ち上がれなかった。

 白い大理石の床に膝をついたまま、彼女は掌を見下ろす。指先はまだ微かに光を帯びていた。昨夜から数えて、もう何人の騎士を癒しただろう。十人。二十人。途中から数えるのをやめた。深い切創。折れた肋骨。毒に侵された腕。運び込まれるたびに掌をかざし、祈りの言葉を紡ぎ、自分の中から温かい何かを流し込む。そうして朝が来た。

 王都大聖堂、第三祈祷室。窓の高い位置から差し込む光が、埃を金色に照らしている。美しい朝だ。セラフィナには関係のない朝だった。磨き抜かれた大理石の柱に、ステンドグラスを透かした青や緋の色彩が斑に落ちている。香炉の煙がまだ薄く漂っていて、没薬の甘苦い匂いが鼻の奥に絡みついていた。祈祷室の隅では、昨夜運び込まれた血塗れの布や空になった水差しが、まだ片付けられないまま転がっている。昨夜ここがどれほどの戦場だったかを、その残骸だけが静かに語っていた。

「セラフィナ様、まだここにいらしたのですか」

 声が降ってきた。顔を上げると、同僚の聖女——第四席のミレイユが、腕を組んで立っていた。肩で切り揃えた栗色の髪。その眉はかすかに寄せられている。呆れ、と蔑みが、同じ分量で混ざった顔。靴先で床を小さく打ち鳴らしている。苛立ちが、その一音一音に乗っていた。

「騎士団長様が、『もう下がっていい』と仰ったはずですよ。いつまでも祭壇に居座られては、朝の礼拝の支度ができません」

「……すみません。すぐに」

 声が掠れた。一晩中祈り続けた喉は、熱を持った砂のようだった。唾を飲み込もうとしても、舌が上顎に貼りついて剥がれない。セラフィナは膝をつこうとして、よろめいた。床に手をつく。冷たい石の感触が、掌から腕へと這い上がってくる。視界の端が白く滲み、耳の奥で小さな鐘のような音が鳴っていた。貧血だ、とぼんやり思う。朝から何も口にしていない。いや、昨日の昼から、何も。ミレイユは手を貸そうとはしなかった。それどころか、半歩だけ後ろへ下がった。汚れたものに触れたくない、とでも言うように。

「本当に要領が悪いんですね、あなたは」

 ため息混じりの声が、磨かれた石床に滑っていく。

「治癒しか能のない聖女なんて、本来ならこの大聖堂にはいらないんです。結界も張れない。神託も降りない。ただ掌から光を出すだけ。それが何人分の食い扶持を削っていると思っているんですか」

 セラフィナは俯いた。反論の言葉は、一つも持たなかった。捨て子だった自分を拾ってくれたのは、他でもないこの大聖堂だ。十二年。食事を与えられ、読み書きを教えられ、祈りの技を授けられた。その恩は、返しきれないほど重い。冬の夜、凍えた指先を温めてくれた老いた司祭の手のひらを、今でも覚えている。薄い粥の湯気を。初めて文字を書けた日の、インクで汚れた指を。それら一つ一つが、鎖のように彼女の背を縛っていた。——ここを出ていく資格は、自分にはない。そう、ずっと言い聞かせてきた。

「あのね、セラフィナ様。はっきり申し上げておきますわ」

 ミレイユは一歩近づき、俯いた彼女の耳元で囁いた。吐息が耳たぶにかかる。香油の甘い匂いの奥に、隠しきれない棘があった。

「あなたがいなくても、聖堂は回るわ」

 冷たい鐘の音のような一言だった。胸の奥で、何かがひび割れる音がした。ぴしり、と。薄氷に小石を落としたような、細くて鋭い音。けれどセラフィナは、やはり顔を上げなかった。上げれば、涙がこぼれる。こぼせば、また「役立たず」と嗤われる。ただ唇を噛み、「はい」と短く答えた。噛んだ唇の内側で、血の味が滲んだ。

 ミレイユが踵を返す。絹の裾が床を擦る音。その背中が扉の向こうに消えるまで、セラフィナは石像のように動かなかった。扉が閉まる重い音が、祈祷室の空気を揺らした。その残響が消えてようやく、彼女は詰めていた息を細く吐き出した。

 ——どうして。

 胸の奥で、小さな声が震えた。どうして、こんなにも疲れているのだろう。どうして、こんなにも要らないと言われるのだろう。昨夜癒した騎士たちは、皆「ありがたい」と言ってくれた。泣いて礼を言う若い騎士もいた。血に濡れた手で、彼女の手を握りしめ、「あなたは女神様だ」と呟いた青年もいた。なのに、同じ聖堂の内側では、自分はいつも「欠陥」と呼ばれる。聖堂の外と内で、自分はまるで別人のようだった。どちらが本当の自分なのか、もう分からない。

 祭壇の奥の、女神像を見上げる。白い石の瞳は何も答えない。ただ、静かにこちらを見下ろしているだけだった。何度すがりついても、何度祈っても、あの瞳が自分のために瞬いたことは、一度もなかった。

 ——胸が、熱い。

 ふいに気づいた。衣の下、鎖骨の少し下。そこに生まれつき刻まれた、紫色の紋章。小さな花のような形をしたその痣が、今朝に限って、じわりと熱を持っている。火傷のような熱ではない。もっと深い場所から、何かを訴えかけてくるような——拍動に似た熱。とくん、とくん、と。自分の心臓とは違う律動で、それは脈打っていた。まるで、長い間眠っていた何かが、薄く瞼を開けようとしているかのように。

 セラフィナは胸に手を当て、息を呑んだ。布越しにも、確かに熱が掌に伝わってくる。こんなことは初めてだった。十二年間、ただの痣でしかなかったはずなのに。

「……なんなの、これ」

 呟いた声は、祈祷室の高い天井に吸い込まれて消えた。熱は数秒続き、やがて嘘のように引いていった。まるで、何かが目を覚まそうとして、また眠りに落ちたかのように。彼女はしばらく、自分の胸を見下ろしたまま動けなかった。指先がかすかに震えていた。恐怖なのか、予感なのか、自分でも分からない震えだった。

 同じ頃、聖堂の最奥——大司教執務室。

 重厚な樫の扉の向こうで、二つの影が身を寄せていた。高い背の男と、すらりと細い女。燭台の火が壁に影を揺らし、その輪郭を滲ませている。窓はすべて分厚い緞帳で閉ざされ、朝の光は一条も入り込まない。昼も夜もない、密やかな闇がそこにはあった。

「……例の件、豊穣祭の前夜でよろしいのですね、猊下」

 甘やかに囁いたのは、第二席聖女・ヴィオレッタだった。栗色の髪を結い上げ、金糸の刺繍が入った祭服を纏っている。大司教は椅子の肘掛けを指で叩きながら、低く頷いた。こつ、こつ、という乾いた音が、静かな部屋に規則正しく響く。

「準備はできている。祭の夜、民の前で告発せよ。『穢れた血筋』——その言葉は、誰の耳にも残る」

「承知しております。あの子は弁明の言葉を持ちませんわ。十二年、ずっとそうでしたもの」

 ヴィオレッタの唇が、紅を塗ったように弧を描いた。扇の陰で、その瞳は笑っていなかった。ただ、獲物を見定める猟師のような、冷えた光だけがあった。

「ただ一点、猊下」彼女は声をさらに低めた。「本当によろしいのですか。結界の八割は、あの子が——」

「構わぬ」

 大司教の声が、短く遮った。肘掛けを叩く指が止まる。

「結界など、第二聖女であるお前が祈ればよい。あの娘に依存していると民に知られるほうが、よほど都合が悪い。……いいか、ヴィオレッタ。祭の夜、あの娘は『穢れ』として王都から消える。それで、この聖堂はようやく綺麗になる」

 燭台の火が、ゆらりと揺れた。二つの影が、壁の上で重なるように溶ける。扉の外に立つ衛兵は何も聞いていない。何も聞こえないように、立たされている。耳を持つことを許されない者たちだけが、この扉の前に配される。それがこの聖堂の、口に出されない掟だった。

 ——そして祈祷室では。

 セラフィナがようやく立ち上がり、よろめく足で朝の光の中へ歩き出していた。胸の紋章の熱は、もう感じない。朝の光は相変わらず美しく、柱の影を長く床に落としている。自分はこれから朝の礼拝の支度を手伝い、昼には傷病者の列に並び、夜にはまた祭壇に膝をつくのだろう。そういう日々が、明日も、明後日も続くのだと、疑いもなく信じていた。

 豊穣祭まで、あと三日。

 彼女はまだ、知らない。自分の名が、すでに執務室の闇の中で、別の意味を与えられ始めていることを。

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