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欠陥聖女は辺境で守られる

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の礼拝が終わる頃には、セラフィナの膝はもう震えていた。

 聖歌隊の声が天井高く響き渡り、香炉の煙が円を描いて立ち昇る。白い祭服の袖口を握りしめ、彼女は最後列で頭を垂れていた。視界の端でヴィオレッタが堂々と中央に立ち、両手を広げて民の祈りを受けている。「我らが第二聖女よ」と囁き交わす信徒たちの声。誰も、最後列で膝を震わせている治癒聖女のことなど見ていなかった。

 礼拝が散会すると、セラフィナは廊下の陰に身を寄せた。冷たい石壁に額を押しつけ、浅く呼吸を繰り返す。ほんの少しだけ、ほんの少しだけ休ませて。そう自分に言い聞かせる。けれど、休むわけにはいかなかった。昼には傷病者の列が待っている。夕には騎士団の訓練場へ回らねばならない。そして——夜には、また。

「セラフィナ様、例の『お勤め』のお時間ですわ」

 背後から声がした。振り返る前から誰か分かっていた。古株の侍祭、オデット。この大聖堂で、ただ一人セラフィナの「夜の仕事」を知る人物だ。彼女は周囲を素早く見回すと、声を潜めた。

「今夜も、いつもの刻限に。猊下からの命です」

「……はい」

 返事は、もう条件反射だった。十二の歳からずっと、彼女はこの「お勤め」を続けている。月のない夜も、吹雪の夜も、一度たりとも休んだことはない。誰にも言うなと釘を刺された仕事を、ただ言われるがまま。それが当たり前だと思ってきた。

 廊下の奥、ステンドグラスを透かして赤い光が床に落ちている。その赤を踏まないように、セラフィナは静かに歩き出した。胸の奥で、あの紫の紋章が、また微かに疼いた気がした。

 その夜。

 大聖堂の地下、螺旋階段を下った先にある隠し祈祷室。ここを知る者は、大司教と上位聖女、そして少数の侍祭だけだ。石壁は湿り、黴の匂いが鼻を衝く。燭台の火は最低限。円形の床の中央には、古い魔法陣が刻まれていた。擦り減った溝が、無数の祈りの痕跡を物語っている。

 セラフィナは素足だった。規定なのだと教えられていた。冷えた石が足の裏から体温を奪っていく。薄い白衣一枚。両膝をつき、両手を胸の前で組む。いつもの姿勢。いつもの呼吸。

「——天にあまねく星の母よ。地に眠る者の盾よ。我が声を、光に」

 祈りの言葉が、自然と唇から零れ落ちる。教えられた通りに。繰り返してきた通りに。

 次の瞬間だった。

 胸の紋章が、熱を帯びた。

 今朝の、あの薄い熱ではない。もっと深く、もっと明確な、燃えるような熱。とくん、と大きく一度脈打って、それから彼女の全身から淡い光が立ち昇った。白でも金でもない、透き通った乳白の光。それは円形の床を滑り、魔法陣の溝を辿り、階段を這い上り——地下から地上へ、地上から塔へ、塔から空へと、見えない糸のように伸びていった。

 王都上空。

 夜空に薄く張られた半透明の膜——結界。その膜が、地下から届いた光を受けて、ゆらりと明るさを取り戻した。薄れかけていた箇所が、一つ、また一つと縫い直されていく。まるで母親が子の服の綻びを繕うように。丁寧に、惜しみなく。

 地下の祈祷室で、セラフィナは身を震わせていた。光が、自分の内側から溢れ出していく。胸骨の奥が、湯を満たされた器のように温かく、同時にひりひりと痺れていた。息を吸うたび、肺の底まで淡い燐光が満ちていくような錯覚がある。指先の爪の先まで、透きとおった熱が染み渡り、血の一滴ずつが静かに歌っているようだった。これまで一度も感じたことのない、熱。否、熱は毎晩あった。あったはずだ。けれど今夜は違う。今夜は——見える。

「——え」

 彼女は初めて、自分の祈りが紡ぎ出す光の糸を、はっきりと目で捉えていた。細い。無数の。髪の毛よりもなお細く、けれど鋼の弦のように張り詰めた糸が、指先から、胸から、額から、次々と解けて立ち昇っていく。天井の石を透かして、はるか上空へ向かって伸びていく、銀色の縫い糸。薄闇の中で、それは蜘蛛の巣に朝露が宿ったときのように、ちらちらと震えながら輝いていた。それが結界を支えている。それが王都の空を保っている。

 自分の祈りが。

 自分の、祈りが。

「……これ、は」

 声が掠れた。喉の奥に、鉄錆のような味が滲む。糸の一本一本から、微かな拍動が伝わってくる。自分の心音と同期している。自分が息を吐くたび、糸がわずかに強くなる。自分が息を継ぐ瞬間、糸が一斉に身じろぎする。指先を動かせば、遥か上空の結界の一点が、呼応するように小さく瞬いた——ああ、繋がっている。自分と、この王都の空が。自分の鼓動一つ、呼吸一つが、数万の民の眠る夜空を揺らしている。十二年間、毎晩毎晩、誰にも知られずに。

 耳の奥で、微かな響きがあった。鐘の音にも、弦の震えにも似た、遠い和音。それは糸の先——上空の結界から降りてくる返歌のようだった。自分が紡いだ光が、空に触れ、空に受け止められ、細く澄んだ音になって戻ってくる。生まれて初めて聴く音だった。生まれて初めて、誰かに——何かに——「受け取られた」と感じた音だった。膝の上に置いた掌の上に、熱い雫が一つ落ちた。自分が泣いていることに、彼女はずいぶん遅れて気がついた。

 どれほどの時間が経ったのか、分からなかった。

 紋章の熱が引き、光の糸が薄れて消えると、セラフィナは魔法陣の上に崩れ落ちた。額を冷たい石に押しつけ、肩で息をする。掌が痺れていた。膝が立たない。汗が首筋を伝い、冷えた石の上に小さな染みを作っていく。

 ——どうして。

 震える唇から、問いが零れた。どうして、誰も教えてくれなかったのだろう。これが、これほどのものだと。自分が毎晩やっているのが、ただの「お勤め」ではなかったと。結界を張れないはずの治癒聖女が、実は王都の空の八割を縫い留めていたのだと。

 ミレイユの言葉が蘇った。「治癒しか能のない聖女」。ヴィオレッタの囁き。「あなたがいなくても、聖堂は回るわ」。——回る? 本当に?

 初めて、疑問が胸に灯った。小さく、けれど確かな火として。

 セラフィナは震える手で胸元を押さえた。紫の紋章は、もう熱を失っている。けれど指先に残る微かな残響は、確かに告げていた。これはただの痣ではない。自分は、自分が思っていたような存在ではないのかもしれない。

 ——けれど、言えない。

 続く思考は、すぐに恐怖で塞がれた。言えるわけがない。もし「自分が結界を支えている」などと口にしたら、ヴィオレッタに嘲笑されるだろう。大司教に睨まれるだろう。思い上がった捨て子、と石を投げられるだろう。十二年間染み込んだ「要らない子」という声が、新しい気づきを片端から押し潰してくる。

 それでも、胸の奥で灯った小さな火は消えなかった。

 セラフィナはのろのろと立ち上がった。素足が石に貼りつきそうだった。螺旋階段を一段ずつ上る。一段ごとに、自分に言い聞かせる。——明日も、祈る。いつも通りに。何も知らなかった顔で。けれど、今夜自分が見たものは、忘れない。胸に仕舞っておく。いつか、いつか誰かに。

 階段の最上段で、彼女はふと振り返った。地下の闇を見下ろす。燭台の火はもう消えている。けれどその暗がりの奥で、まだ微かに乳白の残光が揺れている気がした。

 ——眠っていた、と思った。長いあいだ、自分の中の何かが眠っていた。そして今夜、それが薄く瞼を開けた。

 自室に戻ったのは、夜明け前だった。

 窓から差し込む青い光の中、セラフィナは寝台に腰かけ、衣の胸元を緩めた。鎖骨の下。紫の紋章。昨日までは、ただの花形の痣だった。今は——その輪郭が、ほんのわずかに、銀の粉を散らしたように滲んでいる。

 掌で、そっと押さえる。とくん、と紋章が応えた。

「……わたし、は」

 言葉は途中で止まった。自分が何者なのか、口に出して問うことさえ、今の自分には重すぎた。

 同じ頃、大聖堂の尖塔で夜番をしていた見習い修道士が、妙なことに気づいていた。昨夜から結界の光が、一時的にだが不自然に強まった時間帯があった。ヴィオレッタ様がすでに就寝されていた刻限に。誰が祈っていたのだろう。記録帳にそう書きつけようとして、彼はふと手を止めた。余計なことは書くな——先輩から受けた忠告を思い出したのだ。彼は羽根ペンを置き、何も書かずに窓を閉めた。

 その窓の下、修道院の回廊を、ヴィオレッタが足音もなく歩いていた。手には一通の封書。宛先は、豊穣祭の進行を取り仕切る司祭長。彼女の唇は、微かに笑みを形作っている。

 豊穣祭まで、あと二日。

 セラフィナは自室で、胸の紋章に手を当てたまま、浅い眠りに落ちていく。自分の祈りが王都を支えているという事実を、たった一人で抱え込んだまま。——その事実が、明日には「穢れ」という名前に塗り替えられて、自分に返ってくることを、彼女はまだ知らない。

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