第3話
第3話
豊穣祭前夜。
大聖堂の広間には、普段の厳粛さを押しのけるように色とりどりの花と果実が運び込まれていた。麦の束、葡萄の房、林檎の山。祭壇の両脇には新しい蝋燭が立ち並び、まだ火の灯されていない芯が白く揃っている。明日の朝、王と民の前で、第二聖女ヴィオレッタが豊穣の祈りを捧げる——そのための設えだった。
セラフィナは、いつものように祭壇の奥で、傷病者を癒し終えたところだった。掌はまだ淡く温かい。昨夜、地下で見たあの光の糸のことを、彼女はまだ誰にも話していなかった。話せるはずもなかった。胸に仕舞い込んだ小さな火を、ただ息を殺して守っている。
——それでいい。明日も、祈ろう。いつも通りに。
そう自分に言い聞かせたとき、広間の奥の扉が開いた。重い樫の扉が、普段は立てない甲高い音を立てて、壁にぶつかる。
「セラフィナ聖女様。お越しください」
現れたのは、聖堂の衛兵だった。二人。いつも廊下の角に無言で立っている彼らが、今夜に限って、彼女の名を呼びに来ている。セラフィナは戸惑いながら立ち上がった。手にしていた亜麻布を、そっと祭壇の端に置く。
「……どちら、へ」
「大広間へ。猊下がお呼びです」
衛兵の声は平板だった。目は合わせない。セラフィナは頷き、歩き出した。廊下を進むあいだ、胸の紋章が、ちくりと痺れた。予兆のような、警告のような、細い痛み。
◆
大広間の扉が開いた瞬間、セラフィナは息を呑んだ。
そこには、いるはずのない人々がいた。大司教。ヴィオレッタ。司祭長。上位聖女たち。王都の主だった貴族。そして——広間の隅で身を寄せ合う、信徒たちの群れ。数十人。いや、百人を超えるだろうか。豊穣祭前夜の「特別な祈祷」と称されて呼び集められたのだと、あとから知る。
広間の中央、赤い絨毯の上に、セラフィナは立たされた。視線が一斉に降り注ぐ。興味。好奇。そして、すでに何かを知っているかのような、冷えた眼差し。無数の視線が肌の上を這い、薄い祭服の下までも覗き込もうとしてくる。広間に焚かれた乳香の煙は、いつもより濃く、甘く、喉の奥に貼りついて息苦しい。どこかで香炉の鎖が、ちゃり、と小さく鳴った。
大司教が玉座のような椅子から立ち上がった。白い祭服の裾が床を擦る。
「セラフィナ。此度、由々しき報告を受けた」
低く重い声が、広間の高い天井に反響する。セラフィナは何も分からぬまま、頭を垂れた。——報告? 何の。昨夜の地下のことが、まさか知られたのか。いや、違う。あれを見たのは自分だけのはずだ。心臓が肋の内側を叩いていた。指先が冷たく、合わせた掌の中で、自分の脈だけが大きく聞こえる。
「ヴィオレッタ、告げよ」
促されて、ヴィオレッタが一歩前に出た。金糸の祭服が燭台の光を受けて、ちらちらと瞬く。彼女は両手を胸の前で組み、悲しげに目を伏せた。その所作は、舞台の上で何度も稽古されたかのように、滑らかだった。
「申し上げます。……王都結界に、このところ濁りが生じております。私の祈りでは塞ぎきれぬ綻びが、日に日に広がっております」
ざわめきが広間を走った。結界の濁り。民の命に関わる話だ。
「原因を、私は探りました。祈り、神託を請い、禁書を紐解きました。そして——」
ヴィオレッタは顔を上げた。その瞳が、まっすぐにセラフィナを射抜いた。涙すら浮かべた、完璧な悲しみの表情で。
「至った結論は、ただ一つ。この聖堂の内に、穢れた血筋を持つ者がおります。その者の祈りが、結界に毒を流し込んでいるのです」
「——え」
セラフィナの唇から、掠れた声が漏れた。意味が、追いつかない。穢れた血筋? 毒? 何の話をしているのか。彼女は顔を上げた。ヴィオレッタの指が、ゆっくりと持ち上がり、彼女の胸元を指した。その白い指先は、まるで舞の所作のように優雅で、微塵も震えていなかった。
「その者の胸には、紫の花の紋章がございます。——古の禁書に記された、『災いの印』でございます」
広間の空気が、凍りついた。
セラフィナは反射的に胸元を押さえた。十二年間、ただの痣だと信じてきたものを。昨夜、初めて熱を持ち、自分に何かを告げようとしたものを。それが今——「災いの印」と、名付けられた。掌の下で、紋章が小さく疼いた。まるで名前を呼ばれて身を縮めた生き物のように。
「お……お待ちください」
声が震えた。足が震えた。絨毯の毛羽立ちが、裸足の指先に絡むような気がする。
「わたしは、そのようなこと、何も——結界を濁らせるなど、そんな、わたしは——」
「弁明は無用」
大司教の声が、ぴしゃりと遮った。椅子の肘掛けに置かれた指が、一度、規則正しく叩かれる。こつ、と。その一音が、広間の隅々まで届き、信徒たちの囁きを一瞬で鎮めた。
「ヴィオレッタの神託は、すでに司祭長らによって検証されている。禁書の記述とも一致した。さらに——」
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。古びた端が反り返っている。
「お前の出自を調べ直した。拾われた日、お前の襁褓には、北方の異端の民が用いる文様が縫われていた。十二年、我らはそれを伏せてきた。憐れみゆえに。だが、この結界の綻びを前にしては、もはや隠してはおけぬ」
嘘だ、と思った。そんな襁褓の話など、一度も聞いたことがない。けれど、その羊皮紙は確かに古く、誰もが見える場所にかざされ、誰もが頷いている。司祭長が頷く。貴族が頷く。信徒たちが、ひそひそと囁き合う。——穢れた子。異端の子。災いの印。言葉は、一度放たれれば、真偽を問われずに走り出す。耳から入ったそれらは、胸の奥で小さな棘となり、息をするたびに引っかかった。
「違います……!」
セラフィナは一歩前に出ようとした。その途端、両脇から衛兵の手が伸び、彼女の腕を掴んだ。強い力だった。骨が軋むほどの。革の籠手の縁が、薄い袖ごしに皮膚に食い込む。
「わたしは、毎晩、祈って——! 昨夜も、地下で——」
地下、と口にしかけて、彼女は息を呑んだ。言ってはならない。あの場所のことは、大司教の命で秘匿されている。言えば、別の罪を着せられる。——いや、もう、どうせ。
けれど、言葉は続かなかった。喉の奥が、十二年分の「はい」という返事で塞がれていた。反論の言葉を、彼女は一度も練習したことがなかったのだ。
◆
大司教が、羊皮紙を高く掲げた。
「よって、大聖堂は決する。セラフィナ——お前を、本日この刻より、聖堂より追放する」
広間の空気が、たわんだ。誰かが息を呑んだ。誰かが、小さく「ああ」と声を漏らした。それは同情の声ではなかった。見世物の結末を見届けた者の、満足げな吐息に近かった。
「祭服を剥ぎ、修道衣一枚にて、北の街道へ引き立てよ。豊穣祭の朝を、この穢れと共に迎えることは許されぬ」
衛兵の手が、セラフィナの肩を掴んだ。祭服の留め具が、無造作に外されていく。金糸の襟が引き抜かれる。胸元の聖印が、床に落ちて、乾いた音を立てた。薄い修道衣一枚になった彼女の肩に、夜の冷気がすっと忍び込んだ。
視界が滲んだ。けれど、涙はこぼれなかった。こぼす権利すら、今の自分にはない気がした。
——あなたがいなくても、聖堂は回るわ。
ミレイユの声が耳の奥で蘇った。回る。本当に? 昨夜、自分が見たあの銀の糸は? あれは幻だったのか? それとも——。
視線を上げた。ヴィオレッタと目が合った。彼女の唇の端が、ほんのわずかに、上がっていた。悲しみの表情の奥で、確かに。——ああ、とセラフィナは思った。この人は、知っている。知っていて、封じている。
胸の紋章が、一瞬だけ、熱を持った。抗議するように。けれど、それは誰の目にも見えず、誰の耳にも届かなかった。
「連れて行け」
大司教の声が落ちた。衛兵がセラフィナの背を押した。赤い絨毯の上を、裸足に近い足が引きずられていく。広間の信徒たちは、道を開けた。誰も目を合わせなかった。十二年、彼女が癒してきた人々の顔も、その中に混じっていたはずだった。
扉が、重く閉じる音がした。
◆
大聖堂の裏門。
用意されていたのは、粗末な馬車が一台と、護送の騎士が三人。馬車の荷台には、薄い毛布が一枚放り込まれているだけだった。夜気は鋭く、吐く息が白い。空には月がなく、星だけが硬く瞬いている。
セラフィナは荷台に押し上げられた。修道衣の裾が木片に引っかかって、小さく裂ける音がした。護送の騎士が、嘲るように鼻を鳴らす。
「災いの印、ねえ。……せいぜい北で、雪に埋もれちまいな」
馬車が動き出した。石畳を車輪が叩く音が、頭の芯に響く。振り返れば、大聖堂の尖塔が夜空に黒く聳えていた。十二年、自分の家だった場所。自分のすべてだった場所。そこから今、自分は放り出されていく。「穢れ」という名前を着せられて。
胸の紋章に、そっと手を当てた。紋章は静かだった。けれど、その奥でとくん、と一度、確かに脈を打った。——生きている。まだ、何かが。眠りから覚めかけている何かが、ここにいる。
馬車は夜の街道を北へ進んでいく。雪の匂いが、少しずつ、風に混じり始めていた。