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追放令嬢は静かに視る

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝の教室は、昨日より少しだけ湿った匂いがした。夜のうちに雨が降ったらしい。窓を開けると、運動場の土の匂いと、桜の散り際の、発酵しかけの蜜のような甘さが、ひとつになって流れ込んでくる。黒板の端に貼られた時間割のプリントが、隙間風にぱたぱたと揺れていた。  私は窓際二列目、後ろから三番目の自分の席に着いて、鞄からノートを出した。机の天板に、昨日はなかった小さな落書きがあった。鉛筆で、薄く、何かの記号のようなもの。誰かのいたずらだろうか。指先で撫でると、黒鉛が少しだけ指紋に移った。それだけのことなのに、鼓動がひとつ、余分に鳴った気がした。前世の、最後の夜に見た封印陣の、ほんの一画に似ていた。気のせいだ。そう自分に言い聞かせながら、消しゴムでそっと消す。消した後の白さが、かえって不自然に目に焼きついた。  右隣の席に、透哉が腰を下ろす気配があった。ペン立てを机の角に置く、あの静かな音。昨日と同じ音。私は顔を上げなかった。けれど、朝の挨拶より先に、昨夜からずっとポケットに畳んでおいたハンカチの端を、指先で一度だけ確かめた。洗って返すつもりで持ってきたのに、結局、朝の電車の中で何度も握ってしまって、少し皺が寄っていた。

 一時間目の前、担任がホームルームの最後に「ちょっと連絡がある」と切り出した。 「文化祭実行委員から、旧校舎の片付けの人手が足りないと言われている。二名、出してほしいそうだ」  教室の空気が、ふっと一段浅くなった。誰も手を挙げない。当たり前だ。旧校舎の片付けなんて、誰が好きこのんで行くだろう。埃と、古い木の匂いと、何より、あの建物にまとわりつく「触れてはいけない」空気。昨日の夕暮れに見た、青に近い一瞬の光を、私は思い出した。 「白鷺でいいんじゃない?」  後ろの席から、囁くような声がした。笑いを含んだ、小さな、けれどよく通る声。 「転入生、暇でしょ。歓迎会の代わりってことで」 「それいいかも。ね、先生」  別の声がそれに乗っかる。三つ、四つ。ひとつ声が上がれば、あとは雪崩だ。前世でも、私を陥れた証言はいつも、最初の一声の後に加速した。担任は困ったように眉を寄せたが、否定の言葉を探す前に、別の声が上から被せるように言った。 「実行委員としては、ありがたいんですけど」  振り向くと、華やかな髪型の女子生徒が、にこやかに立っていた。昨日、昼休みに私の席を囲んだ三人のうちの一人だった。腕に実行委員の腕章が巻かれている。ああ、そういうことか、と私は思った。彼女は最初から、私を指名するつもりでこの場にいたのだ。悪意は、たいてい根回しの顔をしてやって来る。  私は、何も言わなかった。断る理由を探せば、きっと見つかった。体調が悪いとか、家の用事があるとか。でも、探さなかった。探しているところを見せたら、それこそ彼女たちの思う壺だ。拒めば「やっぱり」と言われ、従えば「都合がいい」と言われる。どちらにしても、同じ口が同じ形で笑う。ならば、黙って引き受けて、静かに仕事を片付ける方が、まだ私の時間が汚れない。 「……わかりました」  短く答えると、教室の後ろで、満足そうな溜息のようなものが漏れた。担任は「すまんな」と低く呟き、出席簿に何かを書き込む。私は机の木目を見つめていた。木目の流れが、途中で一度だけ、ぐにゃりと歪んでいるところがあった。その歪みの中に、自分の輪郭を一瞬だけ見た気がした。 「もう一人は」  担任が顔を上げた、その時だった。 「俺が行きます」  隣で、椅子が静かに引かれる音がした。透哉が、片手を軽く挙げて立っていた。ノートも閉じていない。ペンも机の上に置いたままだ。まるで、息を吸うついでに立ち上がったような自然さだった。  教室の空気が、もう一度、違う種類に凪いだ。今度のそれは、さっきの意地悪な凪ぎ方ではなかった。ひんやりとした、戸惑いに近い静けさだった。実行委員の彼女の口元から、笑みが一瞬だけ剥がれ落ちるのが見えた。唇の端が、糸を引くように引き攣れて、すぐに元の形に戻る。けれど、戻りきれなかった強張りが、頬のあたりにうっすら残っていた。 「……副会長が?」 「生徒会としても、旧校舎の状態は把握しておきたい。ちょうどいい」  透哉の声は、朝の空気と同じ温度だった。熱くも冷たくもなく、余計な色がどこにもついていない。担任が小さく頷き、「じゃあ、藤城と白鷺で頼む」と言った。彼女たちは、何か言いかけて、結局言えずに席へ戻っていった。腕章の端が、歩くたびに小さく揺れていた。  私は、透哉の方を見なかった。見たら、きっと何か、礼の言葉を探してしまう。そして、昨日のハンカチと同じで、きっとうまく言えない。代わりに、消したばかりの机の落書きの跡を、もう一度指先でなぞった。黒鉛の名残は、もう、ほとんどなかった。

 放課後、二人で旧校舎へ向かった。  渡り廊下を抜けると、空気の質が変わる。新校舎の漂白されたような清潔さから、古い木と、乾いた紙と、どこかに溜まった雨水の匂いへ。一歩進むごとに、足の裏に伝わる床の感触が硬くなっていく。板と板の継ぎ目に、靴底が小さく引っかかった。  実行委員から預かった鍵は、錆の浮いた真鍮製だった。掌に乗せると、ひんやりとして、思ったよりずっと重い。鍵穴に差し込むと、かちり、と乾いた音がした。――けれど、回らない。 「……あれ」  もう一度、今度は少し力を込めて捻る。金属が内側で何かに引っかかるような、鈍い抵抗。三度目、四度目。鍵は途中まで回って、そこで頑なに止まった。 「貸して」  透哉が横から手を伸ばした。彼の指先が、私の指先にほんの一瞬触れる。体温の差が、思ったよりも大きかった。彼の手の方が、温かかった。彼が同じ鍵を回す。やはり、途中で止まる。 「鍵の問題じゃないな、これは」  彼は静かに呟いた。そしてドアノブから手を離し、扉そのものを見上げた。磨りガラスの嵌まった木製の扉。上部に、小さな採光窓。ガラスの向こうは、薄暗くて、何も見えない――はずだった。  その時、私は息を呑んだ。  扉の向こうの空気が、ほんの一瞬、歪んだ。  水の中に一滴、別の密度の水を落としたみたいに。景色そのものは何も変わらないのに、世界の縫い目が、一瞬だけ、ほつれて見えた。前世で、強い術式の気配を感じたときの、あの感覚に似ていた。舌の付け根に、また、鉄錆の味がうっすらと滲む。耳の奥で、水を張った器を遠くで叩いたような、低い反響が一度だけ鳴った。うなじの産毛が、逆立つというより、そろえて伏せるような方向に、ひんやりと寝た。  私は無意識に、扉から半歩下がっていた。ブレザーの袖が、透哉の腕に軽く触れる。彼はこちらを見なかった。けれど、下がった私を、下がったままで受け止めるように、立ち位置をほんの少しだけずらしてくれた。言葉も、視線も交わさない。ただ、肩の高さがひとつ分、私の側へ傾いたのが、布越しの熱でわかった。 「……今、何か」 彼が、低く言った。疑問形ではなかった。確かめる口調でもなかった。ただ、自分自身に問い直すような、静かな呟きだった。 「藤城くんにも、」 言いかけて、私は口を噤んだ。あなたにも見えたんですか、と訊きたかった。けれど、その問いは、私の側の秘密をまるごと差し出すことと同じだった。まだ、早い。そう思う自分と、もう、隠しきれないと知っている自分が、胸の中で静かに並んで立っていた。飲み込んだ言葉の先が、喉の奥で小さく痺れて、唾を呑むたびにその痺れが胸骨の裏まで滑り落ちていった。  透哉は答えなかった。代わりに、ポケットから小さなメモ帳を取り出し、扉の前に立ったまま、何かを一行だけ書きつけた。万年筆ではなく、使い込んだシャープペンシルの芯が、紙に触れるかさりとした音。背伸びした字でも、走り書きでもない、几帳面な筆跡だった。書き終えると、彼はメモ帳を閉じ、ポケットに戻した。その一連の動作の迷いのなさが、かえって私の胸を冷やした。彼は、初めて遭遇した者の手つきで書いてはいなかった。 「今日は、開かないな」 彼は言った。まるで、天気の話でもするみたいに。 「出直そう。鍵を借り直す」 「……はい」  私は頷いた。扉の向こうの歪みは、もう消えていた。消えていたけれど、確かにそこにあったのだという感触だけが、指先に残っている。扉の木目を、一度だけ、指の腹で撫でた。古い木は、思ったよりも冷たかった。昨日のハンカチの、洗いざらしの匂いを、なぜか、ふいに思い出した。  渡り廊下を戻る途中、透哉がふと立ち止まって、空を見上げた。旧校舎の三角屋根の、その少し上の空を。雲は流れていて、夕方の光は昨日よりも薄い。彼は何も言わなかった。私も何も訊かなかった。けれど、並んで立ったその数秒のあいだに、私の中で何かが、ひとつ、静かに決まった。  明日、もう一度、あの扉の前に立つ。そして今度は、目を逸らさない。  鍵穴の奥で、何かが小さく、こちらの名前を呼んでいる気がした。それが誰の声なのか、まだ、私は知らない。

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