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追放令嬢は静かに視る

第2話 第2話

第2話

第2話

午後の五時間目は、自己紹介の時間だった。  担任がチョークを置き、「白鷺、黒板の前へ」と短く告げた瞬間、教室の空気が一段低く凪いだのを、私は肌で感じ取った。椅子の脚が床を擦る音、頁をめくる音、小さな咳払い。そういう日常の音が一斉にどこかへ退き、代わりに三十人分の呼吸だけが、ひとつの生き物みたいに教室を満たしていく。  私は立ち上がった。スカートの裾を一度だけ直す。教卓の前まで歩く五歩の距離が、前世で法廷の中央へ引き出された時と同じ長さに感じられた。床板の軋みが、やけに鮮明に耳に届く。  黒板を背にして振り返ると、窓の外で桜が揺れていた。花弁のいくつかが風に持ち上げられ、宙で一瞬だけ迷ってから、また見えない場所へ消えていく。 「白鷺栞です。よろしくお願いします」  それだけを言った。声は、自分でも意外なほど平らだった。  一拍の沈黙。それから、教室の後方で、誰かが小さく笑った。押し殺した、けれど確かに悪意のこもった笑い方だった。 「それだけ?」 「なんか、喋んないんだ」 「前のとこ、追放されたって聞いたけど」 「しっ、本人に聞こえるって」  聞こえるように言っているくせに、と私は心の中で呟いた。囁きは、潮のように広がって、前の席の子の耳朶まで染めていく。私は瞬きをひとつして、視線をどこへも向けなかった。窓の外の桜の、どれか一枚を選んで、その一枚だけを目で追うことにした。  右手がかすかに震えていた。その震えを、左手でそっと押さえる。前世の処刑台の前で、師が最後に教えてくれた呼吸法を、無意識に数えていた。吸って、四つ。止めて、四つ。吐いて、六つ。魔力を練るためではない。ただ、心を、ほんの少しだけ自分の側に引き戻すための数え方だった。  「もういいぞ、白鷺。席に戻れ」  担任の声が、ふと柔らかかった気がした。けれど振り返ってその顔を見る勇気はなくて、私は軽く会釈だけして、自分の席へ戻った。椅子に腰を下ろした瞬間、右隣の机から、ほんの小さく、ペンの先がノートに触れる音がした。透哉は何も言わなかった。ただ、書き続けていた。その音が、私の耳の中で、不思議と潮騒のように聞こえた。

 放課後、教室の窓から斜めに差し込む光は、もう午後四時の色になっていた。金色に近い、けれどどこか疲れた光。机の天板を照らして、そこに落ちた消しゴムの滓を、やけに克明に浮かび上がらせる。  私は鞄を肩にかけ、昇降口へ向かった。廊下には、部活に向かう生徒たちの笑い声がぽつぽつと散らばっている。吹奏楽の音階練習が、遠く、階段の踊り場のあたりから登ってくる。ド、レ、ミ、ファ。途中で一音だけ外れて、また最初からやり直す。その繰り返しが、なぜだか胸の奥に染みた。誰かが、今日もどこかで、もう一度やり直している。ふいに、外れた音の方が、正しい音より人間くさく聞こえて、私はほんの少しだけ唇の端を緩めた。笑ったつもりはなかったのに、頬の筋肉が、久しぶりにその形を思い出したみたいに、ぎこちなく動いた。  昇降口に着いて、自分の下駄箱の扉を開ける。蝶番が、朝よりも重たい音を立てた気がした。薄暗い箱の奥に、上履きのゴムの匂いと、古い木の匂いと、誰かの忘れていった体操着の、ほのかな洗剤の残り香が混じっている。その匂いの層の一番上に、ひとつだけ、場違いなものがあった。真新しい紙の、冷たい匂い。  白い革靴の爪先に、何かが触れた。  折り畳まれた、一枚の紙。  ああ、と思った。それだけだった。驚きも、怒りも、悲しみも、最初のひと瞬きにはついてこない。前世でも、最初に毒を盛られた日、最初に婚約破棄を告げられた日、私はいつも「ああ」としか思えなかった。感情はいつも、少し遅れて追いついてくる。まるで、心のどこかに防波堤があって、波が届くまでに、必ず何秒か猶予があるみたいに。そしてその猶予の数秒間だけ、私はまだ、傷ついていない自分でいられる。  紙を拾い上げようとして、私は動きを止めた。指先が、紙の端に触れる寸前で止まってしまったのだ。開けば、何が書いてあるかなど、見なくてもわかる。消えろ。前のとこに帰れ。お前のせいで空気が悪くなる。呪われてる。死ね。どれかだ。あるいは、全部だ。言葉の形は違っても、込められた熱量の温度は、前世から何ひとつ変わっていない。人の悪意というものは、時代も世界も跨いで、同じ温度で届く。  前世で何度も見たインクの匂いが、下駄箱の奥の埃と混ざって、鼻先に立ちのぼった。喉の奥が、きゅっと狭くなる。呼吸の数を、また、数えそうになった。吸って、四つ。止めて――けれど、今度は途中で止めた。ここで数えてしまったら、この紙切れに、私は数え方まで明け渡してしまう気がしたのだ。  また、と私は思った。また、逃げるのか。私は。  その問いが、胸の奥の、まだ名前をつけていない場所を、細い針で刺した。痛みは小さかった。けれど、小さいほど深く届く痛みというものが、この世にはある。針の先が、前世の傷跡と、今世のまだ薄い皮膚と、その両方を一度に貫いていく。  その時、背後で革靴の音がひとつ、静かに止まった。 「――拾うな」  低い声だった。  振り返る前に、長い指が私の肩越しに伸びて、下駄箱の中の紙を、迷いのない動作で摘み上げた。透哉だった。彼は紙を開きもせず、中身を確かめもせず、ただ制服のポケットに無造作に押し込んだ。まるで落ちていた包み紙でも拾ったような、何でもない仕草で。 「――藤城くん」 「見なくていい」 彼はこちらを見なかった。下駄箱の扉を、そっと、音を立てずに閉めてくれた。金属の冷たい感触が、掌からすうっと引いていく。 「見ても、何も変わらない。見なかったことにしろとは言わない。ただ、今日は、見なくていい」  今日は、という二文字が、妙に胸に残った。まるで、見るべき日はいつか必ず来る、とでも言うように。そしてその日には、自分も隣にいる、とでも言うように。私の勝手な解釈かもしれなかった。それでも、そう聞こえてしまった。  私は、下駄箱の扉の、自分の名前を書いた真新しいシールを見つめた。「白鷺栞」。黒いサインペンの線が、少しだけ滲んでいる。朝、自分の手で貼ったはずなのに、もうずいぶん昔のことのように思えた。今朝の自分と、今ここに立っている自分とは、もう同じ人間ではない気さえした。 「……ありがとう、ございます」  掠れた声で、やっと言えた。透哉は小さく、本当に小さく、首を振った。 「礼はいらない。俺は、ただ――」  そこで言葉を切って、彼は少し困ったように眉を寄せた。続きは、結局言われなかった。言えなかったのか、言わないと決めたのか、私にはわからなかった。けれどその未完の沈黙のほうが、どんな言葉よりも重たく、胸のどこかに沈んでいった。  代わりに、彼はポケットから取り出したハンカチを一枚、差し出した。白くて、何の刺繍もない、洗いざらしの匂いがするハンカチだった。 「手、冷たいだろう」  言われて初めて、自分の指先が氷のように冷たくなっていることに気づいた。いつから、こんなに冷えていたのだろう。紙を拾う前から? それとも、自己紹介で立ち上がった時から? あるいは――この学園の門をくぐった、あの瞬間から?  私はハンカチを受け取った。布の柔らかさが、指先にじんと沁みる。誰かの家の匂いがした。知らない洗剤と、知らない陽だまりと、知らない誰かの日常の匂い。その「知らなさ」が、なぜか、ほんの少しだけ、安心に似ていた。

 外に出ると、桜はもう夕方の色に染まっていた。花弁ではなく、枝の影が、地面に長く伸びている。風はさっきより少しだけ冷たくて、制服のブレザーの襟元を、私はそっと引き寄せた。  透哉は、校門までの道を並んで歩いてくれた。何も話さなかった。話さないことが、今日はとても優しかった。  旧校舎の三角屋根が、夕日の赤を受けて、遠くで静かに燃えていた。瓦の一枚一枚が、血の色にも、夕焼けの色にも見える。私はその屋根を見ながら、胸の中でもう一度、あの問いを繰り返した。  ――また、逃げるのか。  今度は、答えが少しだけ違った気がした。  逃げない、と言い切る強さは、まだない。けれど、逃げる前に、一度だけ、ちゃんと見てみたい。この学園に眠っているものを。下駄箱に入れられた紙の文字ではなく、その向こうにあるものを。そして、前世で燃え尽きたはずの自分の、まだ燃え残っていたらしい一欠片の熱を。  ポケットの中で、借りたハンカチを、私は指先で一度だけ握りしめた。  旧校舎の窓の一枚が、夕日を弾いて、ちかりと光った。まるで、こちらに向かって、細く細く、瞬きを返したみたいに。その光は、春の夕暮れの赤の中で、ほんの一瞬だけ、違う色をしていた。青に近い、冷たい、古い光だった。  見てはいけないものを見た気がして、私は目を逸らした。けれど心の奥では、もう、逸らさないと決めていた。

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