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追放令嬢は静かに視る

第1話 第1話

第1話

第1話

桜が、嘘みたいに綺麗な日だった。  白亜の門をくぐった瞬間、私は息を止めた。風が花弁を巻き上げて、制服のリボンをひとつ揺らす。頬に触れた空気は、四月のはずなのにどこか紙のような匂いがした。古い本の、インクの匂い。――前世で毎夜めくっていた、魔導書の匂いに似ている。  鼻の奥が、ちりっと痺れる。舌の付け根に、鉄錆に似たかすかな苦みが滲んだ。前世で封印術を唱える直前、必ず口の中に広がっていたあの味だ。私は無意識に唇を噛んで、その記憶を押し戻した。  気のせいだと、自分に言い聞かせる。ここは、ただの普通の学園だ。私はただの、転入生だ。 「――あの人?」 「うそ、ほんとに来たんだ」 「前のとこ、追放されたらしいよ」  ひそやかな囁きが、耳の奥でちりちりと焦げた。桜の向こう、昇降口の影で、早くも噂が先回りしている。私は俯きもせず、胸も張らず、ただいつもの歩幅で石畳を進んだ。俯けば負けだし、胸を張れば挑発になる。どちらも、前世で嫌というほど学んだ。  石畳の目地に、花弁が一枚、踏まれて透けている。靴底が立てる硬い音が、やけに自分の鼓動と重なって聞こえた。一歩、二歩。呼吸を数えるみたいに歩幅を揃える。前世の最後の夜、処刑台の階段を上ったときと同じリズムだと気づいて、私は小さく息を吐いた。  窓際から二列目、後ろから三番目。担任に案内された席は、ちょうど桜の枝が視界にかかる場所だった。椅子を引く音が、教室の中でやけに大きく響く。誰もこちらを見ていない振りをしながら、全員がこちらを見ていた。  背中に張り付く視線の数を、私はほとんど反射的に数えてしまう。左斜め後ろに二つ、右前方の窓際に一つ、扉の近くに三つ。値踏み、好奇、警戒、そして――ほんの少しの、恐れ。前世で王宮の大広間を歩いたときと、視線の質が同じだった。人は知らない人間を前にすると、時代も世界も関係なく、同じ温度で怯えるのだと思う。  私は机に教科書を置き、指先で表紙の角をそっと撫でる。紙の感触。ああ、まただ。魔導書の重みが、掌に蘇る。指の腹に、革表紙の古い凹凸と、金箔の押された紋章の冷たさが、記憶の底からはっきりと滲み出してくる。 ――栞、逃げなさい。  前世の最後の声が、耳の奥で遠く鳴った。師の声だった。焔の中で、最後まで私を庇って崩れ落ちた、あの人の声。私は膝の上で拳を握り、爪が手のひらに食い込むに任せた。痛みだけが、今の私を今に繋ぎ止めてくれる。

 一時間目は現代文だった。教師の声も、チョークが黒板を擦る硬い音も、どこか水の底にいるみたいに遠い。私は窓の外を見ていた。枝の先で、花弁が一枚、風にほどけて落ちていく。  花弁は、落ちるまでにいくつもの迷いを見せた。風に押し戻され、くるりと回り、それでも諦めたように下へ向かう。その軌跡を目で追いながら、私はなぜか、自分の人生そのものを見ているような気がした。  視線を感じたのは、その時だった。  右隣の席。背の高い男子生徒が、頬杖をついてこちらを見ている。制服の胸元に、銀色のバッジ。生徒会の徽章だと、あとで知った。 値踏みの目ではなかった。同情でもなかった。品定めでも、好奇でも、侮蔑でもない。ただ、静かな目だった。湖の底に沈んだ石を覗き込むみたいな、水音ひとつ立てない目。そういう目を、私は前世で一度だけ見たことがある。処刑の前夜、独房の鉄格子越しに私を見つめていた、名も知らぬ衛兵の目だ。  私は思わず視線を返してしまい、すぐに前に向き直る。心臓が一度だけ、ひどく鳴った。頬の内側が熱を持つ。知られてはいけないものを、見透かされた気がした。 「……何か、ついてますか」 自分でも驚くほど、低い声が出た。掠れて、少し棘があって、前世の自分そのものの声だった。 「いや」 彼は短く答え、それから少しだけ首を傾ける。睫毛の長い、涼やかな目許が、窓の光をひとすじ掬った。 「窓の外、花が落ちる瞬間を見ていただろう。ちゃんと見えている人だな、と思った」 ちゃんと見えている、という言葉が、妙に胸に刺さった。見えている、ではなく、ちゃんと、の部分が。まるで、見えないふりをして生きてきた年月を、全部数えられてしまったような気がした。私は返す言葉を探して、結局、曖昧に頷くことしかできなかった。 「副会長の、藤城透哉」 「……白鷺栞、です」 名乗ったとき、自分の声がほんの少しだけ震えたのを、私は彼に気づかれなかっただろうか、と思った。 彼はそれ以上何も訊かなかった。追放の噂について、前の学園について、どうしてこの時期に転入してきたのかについて。まるでその全部を、最初から脇へよけておく約束でもしたみたいに。 その「訊かない」という振る舞いが、どんな慰めよりも優しかった。優しさに慣れていない胸が、じんと鈍く痛む。

 昼休みの教室は、針の筵だった。 誰も直接は話しかけてこない。けれど、視線だけは絶えず背中に張り付いている。私は弁当箱の蓋を開けて、卵焼きを一切れ口に運んだ。味は、ほとんど分からなかった。砂を噛むのに似ていた。母が早朝に焼いてくれた卵焼きだと分かっているのに、甘さも塩気も、喉のどこかで溶けずに留まってしまう。 不意に、肩の後ろで声がした。 「白鷺さん、だっけ。前の学園、大変だったんでしょ?」 振り向くと、華やかな髪型の女子生徒が三人、机を囲むようにして立っていた。声の調子は優しい。目だけが笑っていない。香水の甘い匂いと、シャンプーの花の匂いが、鼻先でねっとり混ざり合う。 「噂、ほんとなの? なんか――呪いとか、そういうの」 呪い。 その一語が、胸の奥でちりっと疼く。前世で私を陥れた術式の名を、彼女たちはきっと知らないまま使っている。知らないまま、一番痛いところを踏んでいる。無邪気な悪意ほど、よく切れる刃はない。前世で学んだ、数少ない真実のひとつだ。 答えようとして、私は息を吸った。喉の奥が、かさりと乾いた音を立てる。 その時だった。 「白鷺、ちょっといいか」 隣の席から、静かな声がした。透哉が立ち上がって、私の机の脇に立っている。手にはクリップで留めた書類の束。 「生徒会から転入生への確認事項。悪い、昼休み潰すぞ」 嘘だ、と直感でわかった。こんなもの、朝のうちに済んでいるはずのことだ。けれど彼の口調はあまりに自然で、三人の女子生徒は毒気を抜かれたように顔を見合わせた。 「……あ、うん。ごめんね、邪魔しちゃって」 謝罪の言葉とは裏腹に、彼女たちの目には、獲物を横から攫われた不満がちらりと光る。それでも制服のスカートを翻し、彼女たちは離れていった。残り香の甘さだけが、机の周りにしばらく漂っていた。 彼女たちが離れていく。私は弁当箱の蓋を閉じ、立ち上がった。心臓が、さっきよりもずっと速く打っている。

廊下に出ると、透哉は書類の束を窓辺の手すりに立てかけ、こちらを見もせずに言った。 「別に、助けたつもりじゃない」 「……」 「ただ、あの席から見ていて、君が何か――我慢しすぎる顔をしていたから」 我慢、という言葉に、私の肩が小さく跳ねた。誰にも気づかれないように積み上げてきたはずのものを、名前をつけて差し出されてしまった気がした。 風が渡り廊下を抜けていく。桜の花弁が、私と彼の間をゆっくり横切った。前世の魔導書の匂いが、また微かに鼻先をかすめる。気のせいではない、と今度こそ思った。 この学園には、何かある。 そして隣のこの少年は――たぶん、それを少しだけ、私よりも早くから知っている。 「藤城くん」 「ん」 「あなたは、何を見ているんですか」 透哉は答えなかった。ただ窓の外、旧校舎の方角へ、ほんの一瞬だけ視線を投げた。古びた三角屋根が、桜の枝の向こうで黙って蹲っている。瓦の一部が陽を跳ね返して、鈍い銀色に光った。そこだけ、春の光が届いていないような錯覚があった。 その沈黙の意味を、私はまだ知らない。 けれど、知ることになる予感だけが、春風と一緒に、胸の奥でゆっくり芽吹き始めていた。芽は細く、柔らかく、それでいて、前世の最後の夜に燃え尽きたはずの何かと、同じ根を持っているように思えた。

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