第30話
第30話「星を選ぶ者たち」
# 第30話「星を選ぶ者たち」
---
掟が書き換えられた朝、空はどこまでも青かった。
祭壇の間を出たとき、王宮の高窓から差し込む秋の陽が、わたくしの両目を照らした。右目が——見える。完全ではないが、光と影と、人の顔の輪郭が分かる。窓の向こうの空が左右の目に等しく映り、世界がもう一度つながった。半分ではない、全体の世界。左目で見る青と右目で見る青がわずかにずれていて、それがかえって空の奥行きを感じさせた。
セレスティアは、わたくしの隣を歩いていた。黒いドレスの裾を引きずり、素手のまま。両手の星紋はまだ残っていたが、銀色が薄くなり、もう痛みはないと言った。歩く姿にいつもの妖艶さはなかったが、背筋は伸びていた。疲労の色が濃いのに、足取りは確かだった。
地下の階段を一段ずつ上がるたびに、空気が温まった。地下の冷たく澱んだ空気から、地上の秋の空気へ。金木犀の香りが、階段の上の方から降りてきた。
ディランが地下から上がってきたわたくしたちを迎えた。衛兵は下がらせていた。廊下に三人だけ。窓からの光が、廊下の石壁を琥珀色に染めていた。
「終わったのか」
「ええ。掟が変わりましたわ」
ディランが、セレスティアを見た。灰色の瞳に、感情が読めなかった。王族の仮面が深い。けれど、今までの仮面とは違うものに見えた。怒りを隠す仮面ではなく、判断を保留する仮面だった。
セレスティアが、ディランの前に膝をついた。黒いドレスの裾が石畳に広がった。頭を下げた黒い髪が、彼女の顔を隠した。
「殿下。わたくしの罪は、掟が変わっても消えません。エルデヴァンとの密通、偽りの予言。すべてわたくしの選択です」
「分かっている」
ディランの声は短かった。けれど、その短さの中に、彼なりの敬意があった。
「処罰をお願いいたします。——ただ、ひとつだけ」
セレスティアが顔を上げた。金色の瞳は、もう泣いていなかった。静かだった。涙の跡が乾き、頬に白い筋を残していた。けれどその目は澄んでいた。長い間曇っていた窓が、ようやく拭かれたかのように。
「処罰の前に、エルデヴァンとの問題を解決させてください。わたくしが密通の全容を開示します。侵攻の計画、国内の協力者、すべて。その上で——わたくしは、この国を去ります」
ディランは長い沈黙の後、頷いた。窓からの光が彼の金髪を照らし、一瞬だけ少年のように見えた。
「承認する。すべてを開示した後、国外追放とする。——命は取らない」
セレスティアが深く頭を下げた。額が石畳に触れるほど深く。
「ありがとう、殿下」
その声は、初めて聞く、素直な感謝だった。計算のない声。皮肉のない声。ただの、一人の人間の声だった。
---
数日後。
セレスティアの全面開示により、エルデヴァンの侵攻計画が明らかになった。書簡の全文、密会の内容、国内に潜む協力者の名前。すべてが議会で開示された。ディランが指揮を執り、北部国境の兵力が再編された。リオンが北部で築いた人脈が生き、砦の防衛体制が立て直された。冬の侵攻は——回避された。セレスティアが流した偽情報をエルデヴァン側に逆利用し、侵攻の旨味がないと判断させたのだ。ディランの政治力とリオンの軍事力が噛み合った結果だった。
セレスティアは約束通り、国を去った。
出発の朝、わたくしは城門まで見送りに行った。秋が深まり、木の葉が赤く色づいていた。城門の石壁に蔦が絡まり、蔦の葉が燃えるような赤に染まっている。朝の空気が冷たく、吐く息が白く見えた。
セレスティアは旅装に身を包んでいた。黒いドレスではなく、灰色の外套。金色の瞳が朝日に光っていた。肩の力が抜けていた。十二年間張り詰めていた糸が解けた人の佇まいだった。
「どこに行かれるのですか」
「南。始祖エレーヌの故郷と言われている土地があるのよ。暖かい場所。海が近いらしいわ。そこで——もう少し、星の糸のことを調べたいわ」
「手袋を外したまま行かれるのですね」
セレスティアが自分の手を見た。素手の星紋。薄くなっているが、まだ残っている。銀色の線が手首に走り、指先にまで伸びている。
「もう隠す必要はないわ。これは、あの人と過ごした時間の証だから」
わたくしは、セレスティアの手を握った。冷たかった手が、少しだけ温かくなっていた。掟が変わったからか、それとも——心が変わったからか。
「いつか——戻ってきてくださいまし」
「さあ、どうかしら。——けれど、あなたの娘が星詠みになったら、教えに来てあげてもいいわ」
セレスティアが笑った。皮肉ではない、柔らかな笑みだった。目尻に皺が寄り、金色の瞳が細くなった。母が生きていた頃に見せていたかもしれない笑い方。母の傍にいたときの、セレスティアの本当の笑い方。
「さようなら、小さな星詠み。——いいえ、もう小さくはないわね」
セレスティアが背を向け、城門を出た。灰色の外套が風に揺れ、朝日の中に溶けていった。城門の向こうの道が、南に向かってまっすぐ伸びている。セレスティアの背中がだんだん小さくなり、やがて朝霧の中に消えた。
---
ディランは新しい婚約者を迎えた。隣国との友好関係を築くための政略婚だが、ディラン自身も悪い顔はしていなかった。婚約者は穏やかな令嬢だと聞いた。
「お前と私は、婚約者としては上手くいかなかった」
「前にも同じことを仰いましたわ」
「今回は続きがある。——友人としてなら、上手くいくだろう」
「ええ。上手くいきますわ、殿下」
わたくしたちは、初めて握手をした。婚約者の手ではなく、友人の手として。ディランの手は大きく、温かかった。王族の手にしては胼胝があった。書類をめくり続けた手の胼胝だ。この人もまた、自分の戦い方で戦ってきたのだ。
---
秋の離宮のバルコニー。
白薔薇の花瓶が、窓辺に置かれている。ルルが朝、水を替えてくれたばかりだ。花は新しいものに替わっていた。リオンが庭から摘んできたものだ。白い花弁が秋の陽を受けて、ほんのりと金色に見えた。
リオンが、わたくしの隣に立っていた。護衛ではない。もう護衛の任は解かれていた。けれど、彼はわたくしの隣にいた。三歩後ろではなく、隣に。
秋の風がバルコニーを通り抜けた。金木犀の香りが最後の甘さを放っている。空が高い。雲が白い。鳥が南に向かって飛んでいく。
「リオン」
「はい」
「あなたは、必ずわたくしを愛します——あの予言は、もう効力を失いましたわ。掟が変わったから。予言は成就しなければならないものではなくなった」
リオンが、わたくしの方を向いた。碧眼が、秋の陽に輝いていた。金色の粒が瞳の中で散っている。
「知ってる」
「知っていて、ここにいるのですね」
「知っているから、自分の言葉で言う」
リオンが、わたくしの手を取った。左手の火傷の跡と、わたくしの右手の金色の星紋が重なった。二つの金色が触れ合い、かすかに光った。温かい光だった。
「俺は、あなたを愛している」
予言ではなかった。掟でもなかった。ただの、一人の人間の、選んだ言葉だった。声が低く、静かで、揺るぎなかった。処刑台の日から変わらない、この人の真っ直ぐさだった。
わたくしは、リオンの手を握り返した。
「わたくしも、あなたを。——予言でも掟でもなく、わたくしの意志で」
秋の風が通り抜けた。金木犀の香り。白薔薇が揺れた。花弁が一枚散り、バルコニーの手すりの上を滑って、庭に落ちていった。
銀盤——いや、金盤が、机の上で静かに光った。鏡面はもうない。代わりに、糸のような光が表面を走っている。未来を映す鏡ではなく、未来を織る糸車。金色の面の上で、無数の糸が穏やかに脈打っている。
リオンの左手にも、薄い金色の星紋が残っている。二人で半分ずつ背負った、予言の証。代償ではない。絆の印だ。火傷の跡の上に浮かぶ金色の線が、かすかに光っていた。
「リオン」
「はい」
「これからは——一人で星を見下ろす必要がなくなりましたわ」
リオンが微笑んだ。不器用で、右の口角がわずかに高い、あの微笑み。目尻に細い皺が寄り、碧眼が細くなった。
「最初から、そのつもりです」
わたくしは、金盤を見つめた。金色の光が、秋の陽と混じり合っている。未来は見下ろすものではなく、紡ぐもの。一人ではなく、二人で。鏡ではなく、糸車で。
ルルが紅茶を運んできた。三人分。少し薄い、けれど温かい紅茶。茶葉の渋い香りが、金木犀の甘い匂いと混じり合った。カップの湯気が三つ、それぞれの場所から立ち上り、秋の空気に溶けていく。ルルが笑っている。そばかすの頬が、朝の光に照らされている。目はまだ少し赤いけれど、笑顔は本物だった。
「お嬢さま。リオンさま。お茶が入りましたよ」
わたくしは笑った。壊れた笑い方ではなかった。八歳の頃にディランに見せてしまった、あの痛い笑顔とは違う。頬が自然に上がり、目が細くなり、声が漏れた。ただの、十七歳の少女の笑顔だった。
紅茶を一口飲んだ。温かかった。渋みの奥に甘みがある。ルルの紅茶は少し薄い。けれどその薄さが、今のわたくしにはちょうどいい。体に染み込むように、温もりが広がっていく。
わたくしは、生まれて初めて、星に祈るのではなく、星と共に歩き始めた。