第10話
第10話「母の選択」
# 第10話「母の選択」
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セレスティアの書斎は、王宮の東翼にあった。
東翼は朝日が最初に差し込む場所で、廊下の石壁が琥珀色に光っていた。朝の光が石壁の隙間に入り込み、壁面の凹凸を際立たせている。けれどセレスティアの部屋の前まで来ると、空気が変わった。冷たく、乾いた空気。扉の隙間から、かすかに古い紙と蝋の匂いが漏れている。廊下の温もりが、扉一枚を隔てて遮断されているかのようだった。
星詠みの正装を脱いだセレスティアは、黒いドレスに黒い手袋のまま、窓辺の椅子に座っていた。窓のカーテンは半分だけ開かれていて、光が彼女の顔の半分だけを照らしている。光と影の境界線が鼻筋の中央を通り、左右の顔がまるで別人のように見えた。わたくしが一人で訪ねると告げたとき、リオンは眉をひそめたが、わたくしの目を見て、黙って廊下に残った。彼の碧眼が「気をつけて」と語っていた。
「ひとりで来たのね。感心だわ」
セレスティアが、金色の瞳を細めた。椅子に深く腰掛けた姿は、くつろいでいるように見えて、実は一瞬で動ける姿勢だった。猫が丸くなっているのと同じだ。黒いドレスの裾が床に流れ、その上に窓からの光の帯が斜めに落ちていた。
「母の日記の破られた頁を、お持ちですわね」
単刀直入に切り出した。遠回りをする余裕は、もうなかった。銀盤に映った母の姿が、まだ瞼の裏に焼きついている。あの銀灰色の髪。あの淡い紫の瞳。血の中に膝をつく母の姿。あの映像が本物なのか幻なのか、答えを持っているのはこの女だけだった。
セレスティアは否定しなかった。椅子の肘掛けに頬杖をつき、わたくしを値踏みするように見つめた。金色の瞳が細められ、まつげの影が頬に落ちている。長い黒い睫毛が、瞬きのたびに頬を掃く。その仕草すら計算されているようで、わたくしは背筋を正した。
「持っているわ。あなたのお母さまが亡くなった日に、わたくし自身がこの手で破り取った」
「なぜ」
「あなたに読ませないためよ。——あの頃は、まだ、あなたが星詠みの力を持つかどうか分からなかった。もし力を持たずに済むなら、あの頁を読む必要はないと思った」
セレスティアが立ち上がり、部屋の奥の書棚に手を伸ばした。書棚は黒い木製で、隙間なく書物が詰まっている。一冊の古い綴じ本を引き出す。背表紙が擦り切れていて、よく読み返されてきたことが分かった。布張りの表紙の角が丸くなり、手垢で色が変わっている。その中に、折り畳まれた紙片が挟まれていた。四枚。日記と同じ紙質、同じインクの色。
「けれど、あなたは力を持った。しかも、お母さまと同じことを——予言の書き換えを、やってしまった」
セレスティアの声に、非難とも悲嘆ともつかない色があった。声が低くなり、語尾がわずかに震えた。
紙片がわたくしの手に渡された。紙は黄ばみ、折り目が深かった。何度も折り畳まれ、開かれ、また畳まれた跡。セレスティアがこの十二年間、何度も読み返したのだろう。紙の端がほつれ、繊維が毛羽立っている。けれど、母の字は読めた。
わたくしは、震える手で紙を広げた。紙の端がかすかに音を立てた。古い紙の匂いが鼻をくすぐる。母の部屋の日記帳と同じ匂い。十二年の時を経ても、同じインクの匂いが残っていた。
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母の日記。最後の四枚。
一枚目。
『銀盤に映った王家の未来は、崩壊だった。国王が暗殺され、王子たちが争い、国が裂ける。この未来は、何度見ても変わらない。けれど、わたくしにはもうひとつの未来も見える。書き換えられた未来。王家が存続し、国が安定する未来。ただし、その代償は——わたくしの命』
二枚目。
『セレスティアに相談した。彼女は泣いた。わたくしも泣いた。二人で夜通し泣いて、朝が来て、それでもわたくしの決意は変わらなかった。この国には、わたくしの夫がいる。わたくしの娘がいる。この国が崩壊すれば、二人とも巻き込まれる。わたくし一人の命で、二人が生きる未来を買えるなら——安い買い物だ』
読みながら、指先が冷たくなっていく。母の筆圧が変わっていた。「安い買い物だ」の部分は、インクが薄い。涙で滲んだのだ。紙がわずかに膨らんでいる。涙の跡。十二年前の涙が、紙の繊維の中にまだ残っている。
三枚目。
『予言を書き換えた。星紋が全身に広がるのに、三日かかった。三日目の夜、わたくしの視界は銀色に染まって、もう何も見えなくなった。セレスティアが手を握ってくれている。彼女の泣き声が聞こえる。わたくしは笑った。笑えているなら、まだ正気だ』
四枚目。最後の一枚。字が乱れていた。文字の大きさがまばらで、行が曲がっている。ペンの先が紙を引っかいた跡がいくつもあった。指に力が入らなくなっていたのだろう。それでも最後まで書こうとした跡がある。
『アイリーン。わたくしの小さな星。あなたがこれを読むことがないよう祈る。あなたが星詠みの力を持たず、ただの令嬢として、花を愛で、恋をし、笑って生きることを願う。けれど、もし読んでいるのなら——あなたもまた、星に選ばれたということ。ひとつだけ伝えたい。銀盤を壊しなさい。あれは鏡ではない。鏡として使う限り、星紋は止まらない。あの盤の本当の使い方を、わたくしは見つけられなかった。けれど、あなたなら——』
そこで文は途切れていた。インクが滲み、最後の数文字は判読できなかった。ペンが紙の上で止まった跡が、小さな黒い点になっていた。そこが母の意識の最後だったのだと思うと、胸が締めつけられた。
わたくしの指から、紙が滑り落ちた。膝の上に落ちて、軽い音を立てた。紙の軽さが、母の人生の重さと釣り合わない。こんなに薄い紙四枚に、一人の女性の最期が書かれている。
「——母は」
声が掠れた。喉が締まって、空気が通らない。
「あなたのお母さまは、予言の書き換えで亡くなったのよ」
セレスティアの声が、いつもの余裕を失っていた。かすかに、震えていた。金色の瞳が、揺れている。いつもの皮肉も、からかいも消えて、素の感情が浮かんでいた。
「病死ではなかった。星紋が全身に広がり、三日間で視力を失い、五日目に——意識が戻らなくなった。半月後に、体だけが止まった」
わたくしは椅子に崩れ落ちた。膝が、立っていることを拒否した。椅子の木が軋む音が、やけに大きく聞こえた。肘掛けを掴もうとした手が滑り、爪が木を引っかいた。
母は、わたくしのために死んだ。いや、正確には違う。父のために、わたくしのために、この国のすべてのために。予言の書き換えの代償として、自分の命を差し出した。
胸の底が抜けたような感覚。呼吸をしているのに、空気が肺に届かない。右手の星紋が激しく脈打っている。まるで母の星紋と共鳴するように。母と同じ代償が、いま、わたくしの体を蝕んでいる。
「なぜ……父は、わたくしに教えなかったのですか」
「お父上は知っている。けれど、あなたに伝えることを恐れた。あなたが同じ道を歩むことを」
「セレスティアさま。あなたは——母の友人だったのでしょう。なぜ、いま、わたくしに敵対するようなことを」
セレスティアの金色の瞳が揺れた。初めて見る感情だった。怒りでも冷笑でもない。もっと古い、深い場所にある痛みだった。十二年間、折り畳まれた紙片と共に抱えてきた痛み。瞳の表面に涙の膜が張り、けれど溢れなかった。溢れないように、長い間鍛えてきたのだろう。
「敵対?——わたくしは、あなたを救おうとしているのよ」
「救う? 予言を指示通りにしろと脅すことが、救いだと?」
「脅しではないわ。あなたがお母さまと同じ道を歩かないために、わたくしは——」
セレスティアの声が止まった。黒い手袋の手が、ゆっくりと握り締められた。レースの手袋の下で、指の関節が白くなっているのが透けて見えた。爪が手のひらに食い込んでいるのだろう。
「——あなたのお母さまは、わたくしにとって、一番大切な人だった」
その言葉は、計算や皮肉の匂いがしなかった。ただの、剥き出しの痛みだった。声が低く、震えて、けれど嘘のない響きだった。部屋の空気が変わった。冷たさが消え、代わりに、古い悲しみの重さが満ちた。
「あの人を失って、わたくしは、星詠みの掟を憎むようになった。予言を書き換えれば命を失う。書き換えなければ、見える悲劇をただ眺めるしかない。——そんな掟は、間違っている」
セレスティアが、わたくしの目を見た。金色の瞳が濡れていた。涙は落ちなかった。けれど、瞳の表面に薄い膜が張っていた。蝋燭の光を受けて、金色が揺れている。
「あなたのお母さまは、愛する人を守るために死んだ。あなたも、同じ道を歩くつもり?」
わたくしは、答えられなかった。
母の日記を胸に抱いた。四枚の紙が、体温で温まっていく。母の最後の文字が、わたくしの指先に触れている。「あなたなら——」。母が書き切れなかった言葉の続きは何だったのだろう。「あなたなら見つけられる」なのか、「あなたなら壊せる」なのか、それとも——「あなたなら生きられる」だったのか。
「銀盤を壊しなさい」——母の遺言。けれど、銀盤を壊せば、わたくしは星詠みとしての力を失う。力を失えば、この国を守る手段がなくなる。セレスティアの矛盾する予言に対抗できなくなる。
壊すべきか。守るべきか。母は壊せと言い、けれど母自身は壊さなかった。壊せなかったのか、壊す暇がなかったのか。
「……答えは、今は出ませんわ」
やっとそれだけ言って、わたくしは書斎を出た。足元がふらついた。廊下でリオンが待っていた。わたくしの顔を見て、彼は何も聞かなかった。ただ、黙って隣を歩いてくれた。彼の歩幅がいつもより小さくなっていた。わたくしの足取りに合わせているのだ。彼の靴音が、わたくしの不規則な足音の間に入り込み、リズムを整えてくれるかのようだった。
離宮への帰り道、わたくしは母の日記の四枚を右手で握りしめていた。星紋が脈打つ腕の上で、母の文字がかすかに透けて見えた。
(母さま。あなたが見つけられなかった「本当の使い方」を——わたくしは、見つけなければならないのですね)
春の風が、髪を揺らした。風に乗って、遠くの薔薇園から花の匂いが届いた。母も、この匂いを嗅いでいたのだろうか。薔薇の季節が、もうすぐ終わる。終わる前に——わたくしは、母の遺した問いの答えを見つけなければならない。