第17話
第17話「引き裂かれる手紙」
# 第17話「引き裂かれる手紙」
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叔母に言い返した翌日から、屋敷の空気が凍った。 朝、台所に降りたとき、いつもなら叔母の紅茶の香りが二階から漂ってくる。今日は何も匂わなかった。叔母の部屋の扉は閉まり、気配すらなかった。 叔母は私に一言も口をきかなかった。食卓で目も合わせない。台所仕事の指示はアンナを通して降りてくる。「ヘルダ様が、銀食器を磨けと」「ヘルダ様が、客間の花を替えろと」。二年間、直接浴びてきた小言や嫌味が消えた代わりに、存在を消された。無視。それは叔母の新しい罰だった。 銀食器を磨きながら考えた。叔母の怒りは予想していた。でも無視は予想していなかった。怒りには声があり、声には返す言葉がある。無視には何もない。壁に向かって話しているのと同じだ。壁は怒らないし、傷つきもしない。ただそこにある。 リゼットは空気の変化を敏感に感じ取っていた。いつもの明るさが消えて、私と叔母の間をおどおどと行き来している。「ねえ、お母様、エメラが——」と言いかけて叔母に睨まれ、口を閉じる。 セレナだけが変わらなかった。いや、変わらないように見せていた。けれど廊下ですれ違ったとき、ほんの一瞬、私を見た。その目の奥に何かが揺れていた。問いかけるような光。「あなた、知ったのね」と言いたげな目。 屋敷の外でも、嵐が動いていた。
水曜日。路地裏でユリアン様に会った。 路地の入り口に立ったとき、壁の向こうから石畳を踏む靴音が聞こえた。いつもより遅い歩調。ユリアン様の足音は軽く、正確なリズムを刻む。今日はそのリズムが崩れていた。 角を曲がって姿が見えた瞬間に、何かが起きたとわかった。目の下の隈が深い。唇が白い。引き結ばれた口元に、堪えているものがある。帽子を深く被っているが、その下の表情は隠しきれていなかった。外套の衿を合わせる指先が、微かに震えている。初夏なのに寒いのだろうか。いや、寒いのは体ではないのだろう。 「ユリアン様。何があったのですか」 「昨日、ヴァルター卿が騎士団内で正式に告発状を提出しました」 告発。正式に。 「内容は、副団長の不適切な私的交際。身分の低い令嬢との密会を重ねており、騎士団の名誉を損ねている、という趣旨です」 ユリアン様の声は平静だった。感情を押し殺しているのではない。もうすでに一晩かけて消化した後の、乾いた声だった。 「告発が受理されれば、調査委員会が設置されます。その間、副団長の職務は一時停止になります」 「一時停止——」 「形式上は。実質は、ヴァルター卿が副団長代理になるということです」 石壁の冷たさが背中に沁みた。初夏の路地なのに、空気が凍っている。 一時停止。その言葉が鉛のように腹の底に落ちた。ユリアン様が何年もかけて積み上げてきたもの。剣の腕と、知性と、誠実さで勝ち取った地位。一通の告発状が、それを紙のように破る。 「ユリアン様。これは、私のせいです」 「違います」 即答だった。前にも聞いた否定。けれど今日の声は、前より強かった。怒りではない。確信だ。 「エメラ嬢。私はあなたに最初の手紙を書いたとき、覚悟していました。副団長が匿名で令嬢に手紙を書く。知られれば問題になる。それを承知で書いた。あなたに会いに行ったのも、告白したのも、護りの印を使ったのも、全て私の判断です。ヴァルター卿がそれを利用するなら、私の判断の結果として受け止めます」 「でも——」 「でも、ではありません。あなたが私に手紙をくれた時間は、一瞬たりとも後悔していません。一行も。一文字も」 路地の壁を挟んで、通りから馬車の音が聞こえた。蹄の音。車輪が石畳を転がる音。日常の音が、この小さな路地の緊迫を知らないように通過していく。壁の隙間から差し込む光の中を、羽虫が一匹、のんきに飛んでいた。世界はいつも通りに回っている。壊れかけているのは、私たちの世界だけだ。 「ユリアン様。手紙はどうなりますか」 「しばらく、直接も控えたほうがいいかもしれません。調査委員会が私の行動を監視します。こうして会っていること自体が証拠にされる」 会えなくなる。手紙も止まり、対面も止まる。紙の回路も、声の回路も、両方が閉じる。 「ただ——」 ユリアン様が外套のポケットから封筒を取り出した。護りの印の蝋印。 「手紙だけは、止めません。たとえ月に一通でも。信頼できる使者を通じて、必ず届けます。声がなくなっても、文字は残る。あなたが教えてくれたことです」 封筒を受け取った。護りの印の重さが掌に伝わった。 路地の角から風が吹いた。初夏の風。暖かいはずなのに、寒気がした。
叔母は夕食の席で、話を切り出した。 叔父も、セレナも、リゼットも揃った食卓。テーブルクロスの白さが、燭台の光を反射して目に痛い。スープの湯気が立ち上る中、叔母が銀のスプーンを皿の脇に置いた。その金属音が食卓を静まらせた。 「今日、ベルモン子爵夫人から聞いたのだけれど」 叔母の口調は穏やかだった。穏やかすぎた。これは武器を隠した笑顔だ。 「騎士団の副団長が、不品行で告発されたそうね。身分の低い令嬢と密会していたとか。あら、エメラ。顔色が悪いわ。お加減が悪いの」 血の気が引いているのが自分でもわかった。スプーンを握る手が、テーブルの下で震えている。叔母は知っている。全部ではなくとも、かなりのことを。ユリアン様が副団長だということ。私との関係が告発されたこと。そしてそれを、食卓で、家族全員の前で突きつけている。 「あなたのせいで騎士団の副団長が問題になっているなんて、信じたくないわ。でもアンナが言うには、以前から勝手口に若い男が——」 スープの匂いが、急に食欲を奪った。胃の底が冷たく縮む。スプーンを置こうとして、テーブルにぶつけた。小さな金属音。叔母の目が光った。私の動揺を見逃さない目。 「叔母様」 セレナが口を挟んだ。 全員がセレナを見た。セレナは夕食の間ずっと黙って食べていたが、その声には有無を言わせない鋭さがあった。 「食事中の話題としては不適切です」 「セレナ。あなたが口を挟むことではないでしょう」 「不適切だと言っています」 セレナの声は平坦だった。感情を込めていない。だからこそ、その一言は刃物のように食卓の空気を切った。叔母が目を見開いた。セレナに反論されることに慣れていない顔。 リゼットがスプーンを落とした。その音で場の緊張が一瞬途切れ、叔父が「食事を続けなさい」と低い声で言った。叔父の声にも疲労があった。嵐の夜から、叔父の顔色はずっと悪い。 食事は残り三分の一を無言で終えた。
屋根裏に戻り、ユリアン様の手紙を開いた。護りの印の蝋を、爪で丁寧に剥がした。 『エメラ嬢。 しばらく会えません。だが手紙だけは止めない。月に一通でも、必ず届けます。 あなたに最初の手紙を書いた日、雨の匂いがしました。今も、ペンを取るたびにあの雨の匂いがします。インクの匂いではなく、雨の。なぜかはわかりません。わかる日が来ると信じています。 ——ユリアン・フェルネ 追伸:タイムの蕾が出ましたか。出たら教えてください。こちらの庭のタイムは、もう咲きました。紫色の、小さな花です。あなたの窓辺にも、きっと同じ色が咲きます』 便箋を握りしめた。紙が皺になるのも構わなかった。インクの匂いが指先に移る。ユリアン様の手がこの紙に触れていた。ペンを握り、言葉を選び、蝋を溶かしてこの便箋を封じた。その時間の温度が、皺になった紙の向こうに残っている。 会えない。手紙も月に一通。紙の回路は細く絞られ、声の回路は完全に閉じた。あの夜、ユリアン様が勝手口に立った瞬間から少しずつ広がってきた私の世界が、再び狭くなろうとしている。 けれど——月に一通でも、手紙は届く。細い糸でも、繋がってはいる。 窓辺のタイムを見た。茎の先に、確かに蕾がついていた。ごく小さな、紫がかった粒。ユリアン様の庭のタイムはもう咲いたという。この蕾も、もうすぐ開く。 叔母の冷たい言葉。ヴァルター卿の告発。宮廷の調査。全てが同時に私たちを締め上げている。けれど蕾は膨らみ続けている。誰の陰謀にも、どんな告発にも、蕾の成長を止めることはできない。 送れない手紙を、今夜も書いた。ペンを持つ右手の小指が、インクで黒く汚れていた。洗っても落ちない染み。この手は手紙を書くための手だ。皿を洗い、銀食器を磨き、叔母の命令に従うだけの手ではない。 枕の下の束が、日に日に厚くなっていく。いつか全部渡せる日が来ると信じて、一通ずつ、重ねている。