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影の郵便局と秘密の手紙

第16話 第16話「悪役令嬢の真実」

第16話

第16話「悪役令嬢の真実」

# 第16話「悪役令嬢の真実」

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 マリーヌが二度目に東屋を訪ねてきたとき、手には薄い封筒を持っていた。  初夏の午後。蔦の隙間から差し込む日差しが強くなり、東屋の中にも熱がこもり始めていた。蔦の葉の裏を透かして落ちる光が、緑がかった斑点を石のベンチに描いている。座ると、背中に湿った冷気が伝わった。日差しの温度と石の冷たさが背中と膝で同時に触れる。どちらが本当の季節なのかわからなくなる、不思議な感覚。蔦の葉が風に揺れるたびに、光の斑点が二人の膝の上で踊った。庭から運ばれてくる薔薇の匂いが、甘すぎるほど濃い。叔母が丹精している薔薇だ。その香りさえ、今は棘のように感じた。 「調べたわ。あなたの噂のこと」  マリーヌは封筒を膝に置いて、こちらをまっすぐに見た。琥珀色の瞳に、いつもの柔らかさはなかった。代わりに、事実を伝える覚悟が据わっていた。宮廷文官の娘らしい目だ。亜麻色の髪が一筋、頬にかかったのを指で払いもせず、ただまっすぐにこちらを見ている。 「悪役令嬢という噂が最初に広まったのは、一年半前。エメラ、あなたがこの屋敷に引き取られてから半年ほど経った頃よ。ベルモン子爵夫人の秋の茶会で、ある人物が『リルティング家のお嬢様は両親の死後に性格が歪んで、従姉妹たちに意地悪をしている』と話したのが最初」 「ある人物」 「叔母上よ。ヘルダ・リルティング夫人」  わかっていた。心のどこかで。噂が不自然に広まっていく様子を見ていて、誰が発信源なのか、気づかないふりをしていただけだ。叔母以外に、私の日常を「悪役令嬢」として語れる人間はいない。  それでも、事実として突きつけられると、胃の底が冷たく沈んだ。手のひらを膝の上で握った。爪が布地に食い込む感触だけが、今の私を現実につなぎ止めていた。わかっていたはずなのに。わかっていたことと受け入れることは、全く別の行為だった。 「叔母上は複数の茶会で同じ話をしていたわ。少しずつ尾ひれがついて、『婚約者を横取りした』『召使いを虐めている』という話にまで膨らんだ。どれも事実ではないけれど、噂というのは膨らむほど信じられやすい」 「どうして、そこまで」 「遺産よ」  マリーヌは声を落とした。東屋の外で、鳥が一羽鳴いた。甲高い声が庭の木々に跳ね返って消えた。 「あなたが社交界で孤立すれば、誰もあなたの味方にならない。あなたが誰にも助けを求められない状況を作れば、叔父上の遺産処理が表面化する危険が減る。あなたを社会的に無力にしておけば、リルティング家の財産をどう扱っても異議を唱える人間がいなくなる」  計算だった。叔母の行動は、一つ一つが計算に基づいていた。養育費の負担を口にしたのも、台所の雑用を押しつけたのも、すべてが同じ地図の上にある。私を茶会に連れ出したのも、「悪役令嬢」を衆目に晒すためだったのだ。あの日、セレナが「出てこなければよかったのに」と呟いた理由が、今わかった。セレナは知っていたのだ。母親がエメラを見世物にしていることを。 「もう一つ。これは確証がないのだけれど」  マリーヌが封筒を開いた。中には小さなメモが一枚。父親から入手した情報だろう。 「ヴァルター卿の名前が、叔母上の茶会の客名簿に何度か出ているわ。ヴァルター卿自身ではなく、夫人の名前だけど。ヴァルター卿夫人とヘルダ夫人は、同じ社交サークルに属している。情報の流通経路として、ここが繋がっている可能性がある」  ヴァルター卿。ユリアン様の敵。そしてエメラとユリアンの関係を攻撃材料にしようとしている人物。その妻が、叔母と繋がっている。 「つまり、叔母がエメラの噂を流す→ヴァルター卿夫人がそれを夫に伝える→ヴァルター卿がユリアンへの攻撃材料にする。そういう流れが出来上がりつつある」 「推測の域を出ないけれど、筋は通るわ。叔母上が意図してヴァルター卿に情報を流しているのか、単に茶会の井戸端話が伝わっているだけなのかは、まだわからない」  マリーヌは立ち上がって、蔦の間から庭を見た。日差しの中で、叔母の薔薇が赤く咲いていた。 「エメラ。怒るのは後でいいわ。今は対策を考えなさい」 「怒って、ないわ」  嘘だった。嘘ではなかった。怒りはある。けれどそれより大きいのは、悲しみだった。家族だと思っていた。好かれてはいないと知っていた。それでも同じ屋根の下で暮らす家族だった。食卓を共にし、同じ鍋のスープを飲み、同じ季節の風に当たった。冬の寒い朝、台所の竈に火を入れるとき、叔母が淹れた紅茶の香りが二階から降りてきた。あの香りの中に、私は確かに「家」を感じていた。その相手が、意図的に、計画的に、私を社会から排除していた。  母が死んだ日のことを思い出した。流行病の隔離小屋から棺が運び出されるとき、叔母は門前に立っていた。黒い服を着て、ハンカチを目元に当てていた。あの涙は本物だったのだろうか。それとも、あれも計算の一部だったのだろうか。考えるべきではないことを、考えてしまう。  蔦の葉の影が、石のベンチの上で揺れている。風が吹くたびに光と影が入れ替わる。世界が揺れているのか、私の目が揺れているのか、わからなかった。

 マリーヌが帰った後、私は東屋にしばらく一人で座っていた。蔦の葉を一枚、指先でちぎった。青い汁が指の腹に滲んだ。もろい。こんなにもろいもので覆われた屋根の下で、私たちは秘密を話していたのだ。  立ち上がって屋敷に戻った。  台所で夕食の仕込みをしていると、二階から叔母の声が降ってきた。 「エメラ。上がってきなさい」  声の温度でわかる。不機嫌だ。理由は見当がつかない。私が東屋にいたことを知られたのか。あるいは別の何かか。  階段を上がった。二階の廊下は西日が差して、壁に掛けられた風景画の額縁が橙色に光っていた。叔母は廊下の突き当たりに立っていた。腕を組み、背筋を正し、エメラを見下ろすいつもの姿勢。 「今日の昼間、誰と会っていたの」 「マリーヌ・デュヴァルさんです。茶会で知り合った方です」 「文官の娘。何の用があってこの屋敷に」 「お茶をしただけです」 「嘘おやめなさい。東屋でこそこそ話をしていたでしょう。使用人のアンナが見ていたわ」  アンナ。いつも叔母に報告する。嵐の夜のユリアン様の訪問も、アンナが叔母に伝えた。この家で、秘密を持つのは難しい。 「お茶をしていただけです。叔母様」 「この家の敷地で余所者と密談するのは許しません。あなたはこの家に置いてもらっている身分でしょう。身の程を知りなさい。悪役令嬢の——」 「叔母様」  私は、声を上げた。  叔母が口を閉じた。私が声を上げたことに、明らかに驚いていた。二年間、この家で私は一度も声を上げたことがなかった。「はい」「すみません」「おやすみなさい」。八語の世界で、私は透明に存在していた。 「その呼び方を最初に使ったのは、叔母様ですよね」  声が震えていた。けれど途切れなかった。水曜日にユリアン様の前で母の秘密を語ったときと同じだ。声は震えても、言葉は止まらない。 「悪役令嬢という噂を最初に広めたのは、叔母様です。一年半前の、ベルモン子爵夫人の秋の茶会で」  叔母の顔色が変わった。白粉の下で、頬が引きつっている。目が見開かれ、口元が固まった。図星だ。この反応が、全てを証明していた。 「何を根拠に——」 「根拠はあります。でも今は、それを言うために声を上げたのではありません」  呼吸を整えた。怒りで言葉を荒らしたくなかった。声の私は不器用だけれど、母の手帳を読んだ後の私は、紙の上でも声の上でも、正しいことを言う覚悟ができていた。 「叔母様。私は、叔母様を恨んでいるわけではありません。この家で暮らせたことに感謝しています。でも、噂で私の居場所を奪うことは、やめてください。……それだけです」  叔母は何も返さなかった。唇が薄く開いたまま、言葉を探しているように見えた。あるいは、二年間黙っていた姪が初めて自分の言葉で語ったことに、対応する回路を持っていなかったのかもしれない。  私は頭を下げて、屋根裏への階段に向かった。背中に叔母の視線を感じた。怒りとも困惑ともつかない視線。階段の軋む音が、一段ごとに暗い廊下に吸い込まれていった。  屋根裏の扉を閉めて、壁にもたれた。膝が震えていた。手の甲に爪の跡がついている。全身が緊張で強張っていた。けれど胸の奥に、小さな、硬い、温かいものがあった。自分の声で、自分の言葉で、言えた。紙の上ではなく、この唇から。  送れない手紙を一通、書いた。 『ユリアン様。今日、叔母に言い返しました。声で。震えたけれど、止まりませんでした。あなたが「どちらも同じ重さで読む」と言ってくれたから。声の私でも、言えると知ったから。  ——送れない手紙を書く人より』  枕の下の束が、また一通増えた。窓辺のタイムが、夕日に染まって揺れていた。茎の先端に、ごく小さな蕾のようなものが見える。花が咲く日が、少しだけ近づいた。  明日からこの家の空気が変わる。叔母との関係が、もう元には戻らないことを、私は覚悟していた。

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