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魔力を隠す令嬢、辺境で解き放つ

第1話 第1話

第1話

第1話

痛みは、いつも深夜にやってくる。

 燭台の炎が揺れるたびに、私の指先も同調するように震える。寝台の上で膝を抱え、歯を食いしばった。胸の奥——正確には心臓の裏側、背骨に沿うようにして走る魔力の経路が、今夜もまた灼けるように疼いている。

 押さえろ。押さえろ。押さえろ。

 呪文のように繰り返しながら、私は両手を胸の前で組んだ。指と指を絡め、爪が掌に食い込むほど強く。そうすることで意識を痛みの一点に集中させ、身体中に散ろうとする魔力の奔流を無理やり中心に押し戻す。母が教えてくれた、唯一の抑制法だった。

 セラフィーナ、と母の声が記憶の底から響く。

 ——おまえの魔力を、けっして人に見せてはなりません。

 五歳の冬だった。病床の母は、骨と皮ばかりになった手で私の頬に触れ、透き通った声でそう言った。その手は驚くほど冷たく、けれど指先だけが微かに温かかった。母の最期の魔力が、そこに集まっていたのだと、今ならわかる。美しい人だった。公爵家に嫁いでなお、どこか野に咲く花のような気品を失わなかった人。その母が最期に遺したのは、愛の言葉ではなく、呪いにも似た戒めだった。

 ——この力は、王家が恐れるものです。知られれば、おまえは道具にされるか、排除される。どちらにしても、おまえの人生はおまえのものでなくなる。

 十二年。私はその遺言を守り続けてきた。

 魔力測定の儀では術式に細工を施し、数値を下位に偽装した。魔法学の実技では、わざと初歩の術式すら不発にしてみせた。「公爵家の恥」「魔力なしの令嬢」——廊下で囁かれるその言葉を、背筋を伸ばしたまま聞き流す術も身につけた。

 ただ、身体だけは偽れない。

 抑え込んだ魔力は消えるわけではなく、行き場を失って経路の内壁を灼く。幼い頃は月に一度程度だった発作が、年を追うごとに頻度を増した。今では三日と空かない。そして今夜——明日の舞踏会を前にしたこの夜が、ここ数ヶ月で最も激しかった。

 寝台のシーツを掴む手が白い。汗が額を伝い、枕に落ちる音がやけに大きく聞こえた。夜着の背が汗で肌に張りつき、呼吸のたびに布が皮膚を引っ張る不快さが、痛みの合間に神経を逆撫でする。

 窓の外では、学園の時計塔が二時を打った。

 ◇

 翌朝の教室は、舞踏会の話題で持ちきりだった。

 「ねえ、今年の舞踏会ではリーゼロッテ様が浄化の奇跡を披露されるんですって」

 「聖女候補の筆頭ですものね。第一王子殿下も太鼓判を押されたとか」

 私の三列前で、令嬢たちが華やいだ声を交わしている。リーゼロッテ・フォン・ハイリゲン。銀髪に菫色の瞳を持つ、光の聖女候補。入学以来、学園中の視線と好意を一身に集めてきた少女だ。

 彼女が現れるまで、取り巻きの何人かは私の傍にいた。公爵令嬢という肩書きには、それなりの引力がある。けれどリーゼロッテの浄化の光が学園を照らした日から、潮が引くように人は去っていった。魔力なしの公爵令嬢より、聖女候補の隣のほうが居心地がいいのは道理だ。

 恨みはない。そう思うことにしている。

 「——セラフィーナ」

 冷えた声が、廊下の角から降ってきた。振り向くまでもなく、その声の主はわかっている。

 第二王子、アルベルト・フォン・クラウゼヴィッツ。私の婚約者——という名目の、政略の鎖。

 「明日の舞踏会では、余計なことをするなよ」

 挨拶も、労いもない。廊下に立つ彼の琥珀の目は、私を見ているようで、私の向こう側にある何かを計算している。背後に控える取り巻きの騎士たちが、値踏みするような視線を私に向けた。その中の一人が小さく鼻で笑ったのが、聞こえなかったふりをする。

 「余計なこと、とは」

 「リーゼロッテの披露に水を差すような真似だ。父上……国王陛下も列席される。お前の出る幕はない」

 お前の出る幕はない。その言葉を、私は何度聞いてきただろう。婚約が決まった日も、初めての社交の場でも、いつも同じだった。おまえは黙っていろ。おまえは目立つな。おまえは、いないものとして振る舞え。

 「承知しております、殿下」

 微笑みを貼りつけて頭を下げる。アルベルトは満足げに鼻を鳴らし、取り巻きの騎士を従えて去っていった。革靴の硬い足音が石畳の廊下に反響し、やがて角を曲がって聞こえなくなった。

 その背中を見送りながら、私は唇の裏側を噛んだ。掌の中で、抑え込んだ魔力がちりちりと警告を発している。怒りに呼応するように。

 ——落ち着け。

 深く、深く息を吸う。学園の中庭から吹き込む春風に、白木蓮の甘い香りが混じっていた。その香りだけが、今の私を現実に繋ぎ止めていた。

 昼の自習時間、図書館の奥まった席で魔法理論の書物を開く。表向きは「魔力のない令嬢が座学だけでも」という涙ぐましい努力に見えるだろう。実際には、この学園で唯一、私が本当の自分でいられる時間だった。

 書物の行間に走る魔法理論の記述を、私は水を吸う砂のように読み解いていく。現行の宮廷魔法体系——その基礎理論には、明らかな欠落がある。属性変換の効率が理論上限の三割に満たない設計。それは技術的限界ではなく、意図的に何かが省かれている痕跡だ。

 頁を繰る指が止まった。古い注釈の下に、別の筆跡で書き加えられた一行がある。インクはすでに褪せ、判読するには目を凝らさなければならなかった。

 ——「経路拡張術式、勅令により禁止。理由、記録なし」

 禁止。理由なし。それだけで十分だった。王家が何かを恐れている——母の遺言と同じ輪郭が、褪せたインクの向こうに透けて見える。

 なぜ。何のために。

 その疑問を誰にも問えないまま、私は十二年を過ごしてきた。

 書物を閉じ、革の表紙を指先でなぞる。埃っぽい紙の匂いと、古い糊の甘い香り。この図書館の隅だけが、私にとって息のできる場所だった。

 ◇

 夜。寮の自室。

 今夜の発作は、これまでとは質が違った。

 いつもなら胸の奥で暴れる魔力を、歯を食いしばって経路の中に押し戻せた。痛みは酷くとも、抑制の手順は身体が覚えていた。母から受け継いだ、十二年の蓄積。

 だが今夜、その手順が通らない。

 押し戻した端から、魔力が経路の壁を叩く。拳で扉を破ろうとするように。一度、二度、三度——そのたびに身体の芯が軋み、視界の端が白く灼ける。耳の奥で高い金属音が鳴り、やがてそれは自分の血流の音なのだと気づいた。

 指先から光が漏れた。

 青白い、微かな燐光。それは紛れもなく魔力の可視化現象だった。通常、余程の大魔術を行使しなければ起こりえない。それが、ただ抑制が綻んだだけで——。

 慌てて掌を握り込む。光は消えた。だが指先に残る熱は消えず、心臓が壊れそうなほど速く打っていた。握った拳の内側が、自分の体温とは思えないほど熱い。まるで掌の中に小さな炉を抱えているようだった。

 鏡に映った自分の顔は、蒼白だった。目の下に濃い隈。薄く開いた唇は乾き、額に汗が張りついている。公爵令嬢と呼ぶにはあまりに消耗した顔。

 ——この身体は、もう長くは保たない。

 それは直感ではなく、十二年かけて魔法理論を独学した者の、冷静な分析だった。

 魔力経路には耐久限界がある。理論上、経路の許容量を超える魔力を長期間抑制し続ければ、経路そのものが崩壊する。崩壊すれば魔力は制御を離れて体内に拡散し、臓腑を灼き、最悪の場合——。

 最悪の場合を、私は理論上知っている。だが今夜初めて、それを「自分の未来」として認識した。

 窓の外では、明日の舞踏会に向けて学園の大広間に魔法灯が飾られていく光が見えた。華やかな光の粒子が夜空に舞い上がり、まるで祝祭のように煌めいている。

 美しい、と思った。そして同時に、あの光の下に明日立つ自分を想像して、指先が震えた。

 あの場所で、もし抑制が破綻したら。

 あの衆目の中で、もし魔力が溢れたら。

 枕に顔を埋める。母の遺言が、耳の奥で反響していた。

 ——知られれば、おまえは道具にされるか、排除される。

 明日の舞踏会。あの光の渦の中心で、私はまた「魔力なき令嬢」を演じなければならない。聖女候補の輝きに目を細め、婚約者の冷淡を微笑みで受け流し、誰にも気づかれぬよう胸の奥の灼熱を押し殺す。

 十二年間、そうしてきたように。

 けれど——今夜の指先の光を、私の身体はもう忘れてくれないだろう。

 掌を開く。何も灯っていない。けれど、皮膚の下で脈打つ熱を、私は確かに感じていた。溢れ出そうとする、途方もない力の気配を。

 明日が、怖い。

 その一言を呟く相手すら、この学園にはいなかった。

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