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奉納児の子守唄

第3話 第3話

第3話

第3話

どれくらいそうしていたのか分からない。

気づいたときには、子守唄は止んでいた。社の中に静寂が戻り、自分の荒い呼吸だけが板壁に反響している。ヘッドランプの光が揺れているのは、私の首が震えているからだった。

録音機器を確認した。赤いランプは点いたままで、タイムコードは回り続けている。巻き戻して再生する。自分の足音、和紙をめくる音、呼吸——そしてあの子守唄が聞こえていたはずの時間帯に差しかかると、何も入っていなかった。無音ではない。環境音は拾っている。風の音、木の軋み、虫の羽音。それなのに、あの声だけが存在しない。確かにこの耳で聞いたはずの旋律が、機械には届いていなかった。

指先が冷たい。手袋をしていないことを思い出す。四月の山中で、日没後の気温は一桁まで下がる。吐く息が白く曇り、それがヘッドランプの光を受けて一瞬だけ浮かび上がっては消えた。帰らなければ。そう思いながらも、私は祭壇の裏の棚に視線を戻していた。まだ開けていない木箱がある。あと一つだけ。

蓋は他のものより重く、持ち上げると蝶番が錆の粉を散らした。中には和紙の束が丁寧に重ねられ、その上に薄い板が一枚載せられていた。板を退けると、最上部の紙の表書きが目に入った。

『奉納児記録』。

筆跡はこれまでの祭祀記録と同じだが、墨の濃さが違う。一画一画が深く、太い。書いた者がこの文書に特別な重みを感じていたことが、筆圧から伝わってくる。

最初の頁を開いた。縦書きの和紙に、名前と日付が一行ずつ記されていた。名簿だ。

『一ノ奉納児 名なし 天保九年如月十三日』

『二ノ奉納児 名なし 慶応二年神無月七日』

名前がない。どの行にも「名なし」と記されている。日付だけが、何十年かの間隔を空けて並んでいる。天保、慶応、明治、大正、昭和——元号が下るにつれて筆跡が変わり、書き手が代替わりしていることが分かった。しかし書式は一貫していた。番号、「名なし」、日付。それだけの行が、淡々と繰り返される。

名前を持たない子供たちの記録。「奉納児」という言葉が、祭祀記録に何度も現れていた単語と重なる。供物の一種だと、頭のどこかで理解し始めていた。理解したくなかったが、墨の文字はそう読むしかなかった。

頁をめくる手が、途中から湿っていた。汗ではなかった。和紙に染みた水気が指に移ったのだ。いや——この箱の中は乾燥していたはずだ。蓋を開けたとき、紙は乾いていた。なのに今、私の指が触れた部分から、紙がじわりと濡れていく。まるで文字そのものが涙を滲ませているかのように。

最後の頁にたどり着いた。名簿の最後の一行。

『十三ノ奉納児 名なし 平成──年──月──日』

日付を読んだ瞬間、視界が白く明滅した。

私の生年月日だった。

年も月も日も、すべて一致している。偶然の余地はなかった。三百六十五分の一ではない。百年以上にわたる名簿の、最後の一行。最後の奉納児。名前のない子供。それが——私。

膝から力が抜けた。座り込んだ拍子に木箱が傾き、中の和紙が床に散らばった。拾い上げる余裕はなかった。自分の生年月日を記した文字が、ヘッドランプの光の中でぐらぐらと揺れている。揺れているのは文字ではなく、私の視界だった。胃の底から酸っぱいものがせり上がり、奥歯を噛み締めてどうにか堪えた。

黒塗りの出身地。地図にない村。名前のない子供。

点と点が線になっていく感覚は、解放ではなかった。深い水の底に引きずり込まれるような、冷たい確信だった。

社の外に出た。夜気が肌を刺す。山の闇は都会のそれとは質が違う。光源が一つもない。ヘッドランプを消せば、自分の手すら見えなくなる完全な暗黒だった。

集落を横切って歩き始めた。来た道を戻るには、まず社から石畳の道を辿って集落の端まで出なければならない。足元に気をつけながら崩れかけた家屋の間を進むと、集落の中央に井戸があることに気づいた。来たときには草に隠れて見落としていたのだ。石組みの円筒が地面から五十センチほど突き出し、木の蓋が半分ずれて口を開けていた。

近づいた瞬間、匂いが来た。

甘い腐臭。社の中で嗅いだ線香に似た匂いの、もっと濃い版。砂糖を焦がしたような甘さと、肉が朽ちていく過程の、あの取り返しのつかない重さが混じり合っている。井戸の底から立ち上ってくる気流に乗って、匂いが顔に纏わりついた。息を止めても鼻腔の奥にこびりつくような、粘着質の甘さだった。

覗き込むべきではないと分かっていた。それでもヘッドランプの光を井戸の縁に沿わせると、石組みの内側が湿って黒光りしているのが見えた。底は光が届かない。ただ、匂いだけが絶え間なく上がってくる。何十年も腐り続けているものがあるとしたら——あるいは、腐ることすら許されないまま留め置かれているものがあるとしたら。

そのとき、声が聞こえた。

子守唄ではなかった。単語だった。はっきりとした、日本語の。

「おかえり」

井戸の底から。

反射的に後ずさった。踵が石に引っかかり、尻餅をついた。両手が湿った草に沈む。掌に触れた土の冷たさが、現実の感触として手首から腕へと這い上がってきた。ヘッドランプの光が空を向き、木々の梢が一瞬だけ照らされて、また闇に戻った。

心臓が喉元まで上がってきている。体を起こし、震える手で録音機器を確認した。回っている。再生した。

環境音だけだった。虫の声、風、私が尻餅をついた衝撃音。「おかえり」は、どこにもなかった。

この声は、機械には残らない。私の耳にだけ届く声。

立ち上がった。泥のついた手をズボンで拭い、リュックを背負い直す。逃げなければ。今すぐこの場所を離れなければ。足が動いた。石畳を踏み、草を掻き分け、来た道の痕跡を辿って集落の端を目指した。走りたかったが、暗闇の中で転べば動けなくなる。歯を食いしばって早足を保った。背後から何かの視線が首筋に貼りついている感覚が、どうしても消えなかった。

集落を出る手前で、立ち止まった。写真を撮っていないことに気づいたのだ。名簿は撮影したが、集落全体の写真をまだ撮っていなかった。ライターとしての習性が、恐怖の中でも首をもたげる。振り返り、カメラを構えた。フラッシュを焚いて、三枚。崩れた家屋が白い光に浮かび上がり、シャッター音が闇に吸い込まれた。

そのまま山道に入った。下りは登りよりも速かったが、その分だけ足元が危うかった。何度も滑り、枝に頬を引っかかれ、ようやく林道に出たときには膝が笑っていた。舗装路の硬さが靴底を通して伝わってきたとき、自分がどれほど柔らかく不安定な地面の上を歩いていたかを思い知った。

駅前の自動販売機の明かりが見えたとき、声が出そうになった。人工の光。人間が作った、あたたかい光。缶コーヒーを買って一口飲んだ。甘い。砂糖の甘さが、あの腐臭の甘さを上書きしてくれることを祈りながら、舌の上で転がした。

終電には間に合った。空っぽの車両に座り、揺られながら、カメラのデータを確認し始めた。名簿の写真。祭祀記録。集落の遠景——。

指が止まった。

最後に撮った三枚のうちの一枚。集落を振り返って撮影したカット。フラッシュの光に照らされた廃屋が何棟か映り込んでいる。その窓。崩れかけた格子窓。ガラスの割れた引き窓。板で塞がれたはずの窓の隙間。

すべての窓に、人の輪郭があった。

女だった。長い髪の、白い顔の、目のない女の輪郭が、どの窓からもこちらを見つめている。同じ姿勢で、同じ角度で、まるで申し合わせたように。いや——同じ女が、すべての窓に同時に立っているのか。

一棟ではない。写真に映り込んだ六つの窓、そのすべてに。

画面を拡大した。ピクセルが粗くなる。それでも分かった。女の口元が、微かに開いている。何かを、言おうとしている。あるいは——歌おうとしている。

電車が揺れた。トンネルに入ったのだ。窓ガラスが鏡になり、車内の蛍光灯に照らされた自分の顔が映った。頬に泥がついている。目の下に隈ができている。そして——。

背後の座席に、誰かが座っている気配がした。振り返らなかった。振り返れなかった。座席のビニールが、かすかに軋む音がした。誰かの体重が、そこにゆっくりと沈み込んでいく音。カメラの画面だけを見つめたまま、私は終点までの二時間を、一度も目を閉じずに過ごした。

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