第3話
第3話
土曜日の夜。午後十一時。
僕は丘陵地の暗い坂道を登りながら、リュックの中で録音機材が揺れる音を聞いていた。懐中電灯の明かりが足元のアスファルトを丸く切り取り、その外側は全て闇に溶けている。四月の夜気は思ったよりも冷たく、吐く息が白くならないのが不思議なほどだった。
木曜日に涼太と図書館で会った。あの新聞記事を読んだ。行方不明になった看護師の名前は白河楓、当時二十六歳。聖慈園の小児科病棟に勤務していた。記事の内容は短く、事実関係の記述だけで、その後の続報は見つからなかったという。僕が気になったのは記事よりも写真だった。胸元の白い花のブローチ。母の仏壇にあるものと同じ形。偶然かもしれない。量産品かもしれない。そう自分に言い聞かせたが、言い聞かせるという行為自体が、偶然ではないと感じている証拠だった。
涼太はもう一つ教えてくれた。啓吾が虚実境界に登録したのは三年前だが、それ以前にも別のアカウントで心霊スポット系の掲示板に出入りしていた形跡があること。そしてその全てで、聖慈園に関する情報を集中的に検索していたこと。
「あの人、最初から聖慈園だけが目当てなんだよ」
涼太の声を思い出しながら、僕は坂を登り切った。
フェンスが見えた。啓吾の言った通り、北東側の斜面に面した区画。外側のフェンスの下部が持ち上がり、内側は支柱が傾いて人ひとり通れる隙間を作っている。その手前に三つの人影があった。
「遅い」と啓吾が言った。腕時計を見る仕草。だが暗くて文字盤は見えないはずだ。
「二分前だけど」と真帆が訂正した。
涼太は黙って僕に小さく手を振った。木曜日のことは二人だけの秘密だ、という確認のように。
啓吾が先にフェンスをくぐった。慣れた動作だった。迷いなく金属の網を持ち上げ、身体を滑り込ませる。真帆、涼太と続き、僕が最後になった。フェンスの錆が手袋越しにざらついた。内側に入った瞬間、空気が変わったのがわかった。気温が二度は下がっている。雑草が膝まで伸びた斜面を横切り、東棟の非常口に辿り着く。
扉は半開きだった。蝶番が腐食して、閉まることも開くこともできないまま固まっている。啓吾が懐中電灯を扉の隙間に差し入れた。光の筋が、暗闇の奥に吸い込まれていく。
僕はリュックからスマートフォンを取り出し、録音アプリを起動した。赤い録音ボタンが画面の中で脈打つように点滅する。
「入るぞ」
啓吾の声を最後に、四人は廃病院の中に足を踏み入れた。
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最初に来たのは匂いだった。
埃と湿気。それは予想していた。だがその下に、もう一つの層がある。鼻腔の奥を刺す、ツンとした揮発臭。消毒液だ。二十年前に閉鎖された建物の中に、消毒液の匂いが残っている。white_7の記述は正しかった。
懐中電灯が廊下を照らし出す。リノリウムの床は泥と落ち葉に覆われ、壁紙は湿気で波打ち、大きく剥がれて下地のコンクリートが露出していた。天井の蛍光灯カバーが一つ、片側だけ外れて斜めにぶら下がっている。僅かな風もないのに、時折かすかに揺れた。
「一階の東棟だな。病室が並んでるはずだ」
啓吾は迷いなく廊下の奥へ進んだ。僕たちがついていく形になる。足音が四人分、不規則に重なる。僕の運動靴が床を踏むたびに、湿ったリノリウムが微かに粘りついて剥がれる。その音が均等な間隔で繰り返される中、ときどき、リズムから外れた音が混じる気がした。
壁に沿って歩く。病室のドアが等間隔に並んでいた。どれも半開きか、完全に開いている。懐中電灯の光が通り過ぎるたびに、暗い室内が一瞬だけ切り取られる。ベッドのフレーム。倒れた点滴スタンド。カーテンレールだけが残った窓。
「ねえ」と真帆が小声で言った。「この階、空気が動いてない?」
僕も感じていた。建物は密閉されているはずだ。窓は全て閉まっているか、板で塞がれている。なのに、廊下の奥から微かな気流が流れてくる。消毒液の匂いは、その気流に乗って漂っていた。
「換気口が生きてるんだろ。地下に繋がってる」啓吾が即答した。
合理的な説明。僕もそう思おうとした。古い建物の換気システムが、構造上まだ機能しているだけだ。気流があるのは自然現象。消毒液の匂いは地下に残留した薬品の揮発。何も不自然なことはない。
ただ、合理的であることと、安心できることは違った。
僕たちはナースステーションを通過した。カウンターの上にカルテの束が散乱し、壁にかかった時計は四時十七分を指したまま止まっている。啓吾がカルテの一つを手に取り、懐中電灯で照らした。患者名は黒く塗り潰されていた。全てのカルテが同じ処理をされている。名前の部分だけが、丁寧に、一枚残らず。
「閉鎖のときに処理したんだろうな」
啓吾の声は平坦だった。涼太が僕の隣で、小さく息を呑んだのが聞こえた。
僕はスマートフォンの録音アプリが動いていることを確認した。赤い点が律儀に点滅している。タイムスタンプは六分を過ぎていた。
廊下の突き当たりに階段があった。上に行く階段と、下に降りる階段。下への階段は金属製の防火扉で塞がれているが、取っ手には真新しい傷があった。white_7の報告通りだ。
「今日は一階だけにしよう」真帆が言った。「まず全体の配置を確認してから——」
「ちょっと待って」
僕は全員を止めた。何かが聞こえた。いや、聞こえた気がした。天井の向こう側、二階のどこかから。椅子を引きずるような、重いものが床を擦る音。
四人とも動きを止めた。懐中電灯の光が天井に向けられる。染みだらけのボードが並んでいるだけだ。
十秒。二十秒。沈黙。
「古い建物は軋むんだよ」啓吾が言った。「温度差で建材が膨張するから」
その通りだ。僕も知っている。木造部分が温度変化で収縮し、接合部が音を立てる。それだけのことだ。
「戻ろう」と僕は言った。「今日はここまでで十分だ。録音と写真は撮れた」
異論はなかった。涼太の顔色が懐中電灯の光の中で青白いのは、LEDの色温度のせいだけではないだろう。
来た道を引き返す。往路と同じ廊下のはずなのに、帰りの方が長く感じた。病室のドアが通り過ぎるたびに、暗い室内から視線を感じる錯覚がある。振り返ってはいけないと思いながら、僕は三度振り返った。三度とも、廊下の闇が懐中電灯の届かない場所で口を開けているだけだった。
非常口から外に出たとき、夜の空気がこれほど暖かいものだったかと驚いた。
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フェンスの外に出て、四人とも無言のまま坂道を下りた。啓吾だけが「来週、二階と地下をやる」と言い、先に別方向へ歩いていった。真帆と涼太も駅の方角に消えた。僕は一人になって、ようやく息をつけた気がした。
坂道の途中にある小さな公園のベンチに座り、スマートフォンを取り出した。録音データを確認しておきたかった。十四分三十七秒。入ってから出るまでの全記録。イヤフォンを耳に押し込み、再生ボタンを押す。
最初は足音だけだった。四人分の靴音がリノリウムの床を踏む、不規則なリズム。啓吾の声。「一階の東棟だな」。真帆の「この階、空気が動いてない?」。録音を通すと、声が妙に近い。耳元で囁かれているような距離感。
七分過ぎ。ナースステーションを通過したあたり。カルテをめくる音、啓吾の「閉鎖のときに処理したんだろうな」。ここまでは記憶通りだ。
九分十二秒。僕が全員を止めた場面。「ちょっと待って」。自分の声が緊張で僅かに裏返っている。その後の沈黙。天井を見上げた二十秒間。
僕は音量を上げた。
沈黙の中に、かすかなノイズがある。建物の環境音——配管の残響、外壁を叩く風。そうした音に紛れて、もう一つの音が確かにあった。
僕の指が画面の上で止まった。
十秒ほど巻き戻し、もう一度再生した。音量をさらに上げる。イヤフォンが鼓膜に食い込むほど押し当てた。
四人の足音が止まった沈黙の中。あの二十秒間。啓吾が「古い建物は軋むんだよ」と言う直前。
声が、入っていた。
僕たちの誰の声でもない。男でも女でもない、年齢のわからない、輪郭の曖昧な囁き声。しかしその発音だけは——たった二音節だけは、どれだけ音量を上げても下げても変わらないほど明瞭だった。
「おいで」
僕はイヤフォンを引き抜いた。公園のベンチの上で、自分の呼吸が荒くなっているのがわかった。街灯がベンチの周囲だけを橙色に照らし、その外側は暗い植え込みが続いている。虫の声がしていた。現実の音だ。ここは廃病院ではない。
もう一度、再生した。今度はイヤフォンなしで、スマートフォンのスピーカーから。音量は最大。
足音の沈黙。環境音のノイズ。そして——。
「おいで」
夜の公園に、その声が小さく響いた。僕のスマートフォンから。十四分前に、あの廃病院の廊下で。僕たちの五メートルと離れていない場所で。
あの瞬間、僕たちは四人だけではなかった。
スマートフォンの画面が暗転し、時刻表示に切り替わった。
午前零時三十三分。
僕はその数字を見つめた。三十三。white_7の最後の投稿は午前三時十二分だった。あのとき僕の時計も同じ時刻を指していた。偶然は二度までなら偶然で済む。だが三度目があったとき、それは——。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。虚実境界のダイレクトメッセージ。送信者の表示を見て、僕は呼吸を忘れた。
white_7。
削除されたはずのアカウント。存在しないはずのユーザーから、一通のメッセージが届いていた。
本文は一行だけ。
『次は、地下においで』