第1話
第1話
教室で名前を呼ばれるのは、出席確認のときだけだ。
担任の渡辺が名簿を読み上げる声が、か行の終わりに差しかかる。「神崎」。僕は小さく手を挙げて「はい」と答える。渡辺は僕の顔を見ない。視線は既に次の名前に移っている。それでいい。確認されるべきは僕の存在ではなく、席が埋まっているという事実だけだから。
四時間目の現代文が終わり、昼休みのチャイムが鳴った。僕の周囲だけ、空気の流れが変わらない。前の席の女子は振り返って後ろの友達と弁当を広げ始め、僕の机の横を通過する動線が自然に形成される。避けられているのではない。最初から、そこに誰もいないかのように扱われている。それは悪意よりもずっと静かで、だからこそ正確に僕の輪郭を消していく。
購買のパンを買って屋上への階段に腰かける。鍵がかかっていて屋上には出られない。でもこの踊り場には誰も来ない。ここが僕の昼休みの定位置だった。カレーパンの油が指に残るのを制服の裾で拭いながら、スマートフォンを開く。
匿名掲示板「虚実境界」。都市伝説の収集と検証に特化した、ユーザー数三千人ほどの小さなコミュニティ。僕のハンドルネームは「灰色記録者」。週に二本のペースで検証レポートを投稿している。先週上げた「深夜の踏切で手を振る女」の記事には四十七件のリアクションがついていた。現地調査の写真と、防犯カメラの設置角度から目撃証言の矛盾を指摘した内容。誰かが「相変わらず丁寧な検証」とコメントしていた。
僕はその通知を三回読み返した。
ここでだけ、僕は存在している。名前はない。顔も声も知られていない。それでも投稿したレポートは読まれ、反応が返ってくる。教室で透明な僕が、この掲示板の中では確かに「いる」。その非対称がときどき、喉の奥にひっかかる小骨のように痛んだ。
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その書き込みを見つけたのは、午後十一時過ぎだった。
自室の机に向かい、期末テスト前だというのに教科書ではなくブラウザを開いている。虚実境界の新着スレッドを巡回するのが日課だった。たいていは既知の都市伝説の焼き直しか、明らかな創作が投稿される。選別して、検証に値するものだけをブックマークに入れる。その作業が、僕にとっては勉強よりもずっと意味のある時間だった。
スレッド一覧をスクロールしていた指が止まった。
『旧・聖慈園 地下調査報告(未完)』
聖慈園。地元で育った人間なら誰でも知っている名前だ。駅から車で十五分、丘陵地の端に建つ廃病院。二十年前に突然閉鎖され、理由は公表されていない。心霊スポットとして有名だが、数年前にフェンスが二重に張り直されてからは侵入者もほとんどいなくなった。僕も過去に二度、外観の写真だけ撮りに行ったことがある。
投稿者のアカウント名は「white_7」。投稿履歴はこのスレッドだけ。本文を開く。
書き出しは淡々としていた。侵入経路、各階のフロア構成、残置物の記録。だが異様だったのはその精度だ。病室の番号、廊下の長さ、階段の段数まで記載されている。まるで図面を見ながら書いたような正確さ。僕は都市伝説の検証を何十件とやってきたが、ここまで具体的な廃墟レポートは見たことがなかった。
本文は途中から、トーンが変わっていた。
「B1Fに降りる階段は東棟の非常口横にある。錆びた扉を開けると、消毒液の匂いがまだ残っている。二十年経ってもだ。おかしいと思った。地下は霊安室と旧式のボイラー室だけのはずだが、突き当たりの壁に塗り潰された扉の痕跡がある」
僕は無意識に姿勢を正していた。画面の光が暗い部屋で僕の顔だけを照らしている。窓の外で風が鳴った。エアコンの室外機が回る低い唸り。それとは別の音が混じった気がして、一瞬キーボードから手を離した。
——気のせいだ。
スクロールを続ける。報告はB1Fの描写から、さらに深い場所へ進んでいた。
「霊安室の冷蔵庫は全て開放されていた。だが一つだけ、取っ手に新しい傷がある。誰かが最近ここを開けた。中には何もない。ただ、内壁に爪で引っ掻いたような文字が残っていた。読めたのは二文字だけ——」
そこで文章が途切れていた。
未完。投稿時刻は三日前の午前三時十二分。以降の更新はない。通常なら「続きは?」「釣りか」といったレスがつくはずだが、このスレッドへの返信はゼロだった。閲覧数のカウンターだけが、不自然に回っている。
僕はスレッドの最下部までスクロールした。本文の最後に、一行だけ追記されている。投稿時刻は本文の二分後。
「地下の霊安室に行けば、死者の声が聞こえる」
背筋に、冷たいものが走った。それまでの報告文体とはまるで違う。検証者の客観ではなく、確信に満ちた断言。まるで別人が書いたように。
僕は投稿者のプロフィールページに飛んだ。
アカウントは削除されていた。
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ブラウザの「戻る」を押した。スレッドはまだ残っている。だがwhite_7の名前は灰色に変わり、クリックしても「このユーザーは存在しません」と表示されるだけだった。
スクリーンショットを撮った。全文を保存した。それから検証者としての習慣で、書き込みの信憑性を確認する作業に入った。
聖慈園のB1Fに関する公開情報は極端に少ない。市の建築記録では地下一階建てとしか記載がなく、フロア構成の詳細は残っていない。white_7が書いた「東棟の非常口横の階段」という記述を裏付ける資料は、少なくともネット上には存在しなかった。つまり二つの可能性がある。精巧な創作か、実際に中に入った人間の証言か。
消毒液の匂いが二十年残るという記述。ありえない、と最初は思った。だが調べてみると、地下の密閉空間でホルマリン系の薬品が放置されていた場合、微量な揮発が長期間続く事例が報告されていた。素人の創作なら、こんなディテールは入れない。
午前一時を過ぎていた。部屋の照明を点けていないことに今さら気づく。モニターの青白い光だけが机の上を照らし、僕の影を背後の壁に伸ばしている。振り返ると、本棚の隙間が妙に暗かった。
スマートフォンが震えた。虚実境界のダイレクトメッセージ。送信者は真帆——「夜行灯」のハンドルネームで活動している、僕のレポートに最も多くリアクションをくれるユーザーだった。
『聖慈園のスレ、見た? あれ本物だと思う』
僕はキーボードに指を置いた。十秒ほど迷って、打ち始める。
『根拠は?』
返信は即座に来た。
『去年の夏、外周だけ調査したとき東棟の非常口を確認してる。位置関係がwhite_7の記述と完全に一致した。あのレベルの情報は現地に行かないと書けない』
それから真帆は、もう一つのことを伝えてきた。啓吾と涼太——同じく虚実境界の古参メンバー——も興味を示しているという。四人で現地調査をしないか、と。
僕の指が、画面の上で止まった。
都市伝説の検証は、いつも画面越しだった。現地に行くのは外観の撮影まで。中に入ったことはない。建物の中に踏み込めば、それは「調べる側」から「体験する側」に変わるということだ。
だが、あの書き込みが頭から離れなかった。途中で途切れた報告。最後の一行だけが別人のように変質した文体。そしてアカウントの消滅。もしwhite_7に何かが起きたのだとしたら——。
僕は返信を打った。
『行く』
送信ボタンを押した直後、部屋の空気が一瞬だけ重くなった気がした。窓は閉まっている。エアコンは切っている。なのに、首筋を撫でるような微かな気流があった。
モニターに視線を戻す。虚実境界のスレッド一覧。あのスレッドを探した。
消えていた。
三十分前まで確かにあった『旧・聖慈園 地下調査報告(未完)』が、スレッド一覧から完全に消滅している。スクリーンショットは撮ってある。保存したテキストファイルも確認した。データは残っている。だがスレッドそのものは、white_7のアカウントと同じように、最初から存在しなかったかのように消えていた。
僕は暗い部屋の中で、自分の心臓の音を聞いていた。
——これは、検証する価値がある。
そう自分に言い聞かせた。けれど本当は、もう気づいていた。惹かれているのは都市伝説への知的好奇心だけじゃない。あの書き込みの向こう側に、僕と同じように暗い画面に向かって一人で何かを記録し続けていた誰かの気配を感じたのだ。そしてその誰かは、もういない。
スマートフォンの時刻表示が目に入った。
午前三時十二分。
white_7が最後の投稿をした時刻と、同じだった。