第2話
第2話
ロッカーの取っ手は冷たかった。
指先に伝わる金属の感触が、記憶の蓋をこじ開ける。錆びた鉄の匂いが鼻腔に残る。あるいはそれは血の匂いだったのかもしれない。三日前。捜査一課のデスクで、桐生が同じように冷たい缶コーヒーを握っていた。
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あの日の捜査一課は、いつも通りだった。
午前九時。蛍光灯の白い光、キーボードを叩く音、誰かが電話口で怒鳴る声。エアコンの送風口から生温い風が落ちてきて、書類の端を微かに揺らしていた。城島は強盗傷害事件の報告書を仕上げながら、向かいのデスクにちらりと目をやった。
桐生がいない。
席を外すこと自体は珍しくない。だがここ一週間、桐生の行動には違和感があった。昼休みに一人で出ていく。戻ってくると、デスクの引き出しに何かをしまう。目が合うと、不自然に笑う。
十時過ぎに桐生が戻ってきた。髪が少し濡れていた。外は晴れているのに。シャツの襟元にも水滴の跡があり、タオルで急いで拭いたような不自然な乾き方をしていた。
「どこ行ってた」
「ん? ちょっと、資料の確認」
桐生は曖昧に笑い、缶コーヒーのプルタブを引いた。プシュ、という小さな破裂音。城島は報告書に視線を戻した。深く追及しなかった。桐生には桐生の案件がある。
昼休み。城島が自販機でカフェオレを買って戻ると、桐生がデスクの電話で誰かと話していた。声が低い。受話器を握る指の関節が白くなるほど力が入っている。城島の姿を認めた瞬間、受話器を置いた。
「——誰だ?」
「情報提供者。例の港南の件」
「港南?」
「いや、まだ形になってない。形になったら話す」
桐生の目が泳いだ。八年間相棒をやってきて、桐生が目を泳がせるのを見たのは初めてだった。こいつは嘘をつくとき、むしろ真っ直ぐ相手を見る男だ。目が泳いだということは、嘘ではない。言えないのだ。
城島は突っ込まなかった。今になって、それを悔いている。
午後の捜査会議を終え、日が暮れた頃。フロアには城島と桐生だけが残っていた。蛍光灯が一本切れかけて、時折ちらちらと明滅していた。桐生がコートを羽織りながら、独り言のように言った。
「なあ、城島」
「何だ」
「——ヤバいものを掴んじまったかもしれない」
城島はモニターから目を離さなかった。報告書の修正が三箇所残っていた。
「ヤバいって何だ。具体的に言え」
「まだ言えない。裏が取れてないから。でも、もし本当だったら——」
桐生は言葉を切った。城島が振り向くと、桐生は窓の外を見ていた。品川の夜景が、ガラスに桐生の横顔を重ねている。その横顔に刻まれた影は、いつもの飄々とした桐生のものではなかった。頬の筋肉がわずかに強張り、奥歯を噛み締めているのが見て取れた。
「もし本当だったら?」
「——俺たちの足元が崩れる」
桐生はそれだけ言って、笑った。いつもの軽い笑い方ではなかった。何かを呑み込んだ後の、乾いた笑いだった。
「考えすぎかもしれねえけどな。じゃあ、先に上がる」
「おう」
桐生が背を向けた。ドアに向かって歩きながら、一度だけ振り返った。何か言いかけて、やめた。代わりに軽く手を上げた。
それが最後だった。
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翌朝六時十二分の電話。非通知。桐生の死。
城島が現場に駆けつけたとき、すべてはもう出来上がっていた。
凶器の指紋。防犯カメラの映像。同僚の証言。一つ一つは脆いかもしれない。だが束になると、鉄壁だった。城島を犯人に仕立てるために、誰かが時間をかけて組み上げた構造物。釘の一本に至るまで、計算されていた。
取調室。蛍光灯が頭上で微かに唸っている。パイプ椅子の座面が冷たい。壁のペンキが一箇所だけ剥がれていて、その下のコンクリートが傷口のように覗いている。向かいに座った取調官——捜査一課の竹内。城島より五つ年上で、合同捜査で何度か組んだことがある。その竹内が、他人を見る目でこちらを見ていた。昨日まで同じ廊下ですれ違い、自販機の前で天気の話をした男が、今は一枚の机を隔てて尋問者の顔をしている。
「午後十一時から翌午前一時までのアリバイを、もう一度」
「自宅にいた。一人だ。何度言えば——」
「裏付けがない。城島、お前もプロだろう。アリバイが取れない時点で、どうなるかわかってるはずだ」
わかっている。だからこそ吐き気がする。
「桐生とトラブルがあったという証言がある」
「誰だ。誰がそんなことを言った」
竹内は答えなかった。調書のページをめくる音だけが響いた。
城島は拳を握り込んだ。爪が掌に食い込む。じわりと汗が滲んだ。トラブルなどなかった。先週、桐生と捜査方針で意見が割れたことはある。だがそれは刑事なら日常だ。殺意の根拠にはならない。
ならないはずだ。
だが物証がそう語っている。物証が、城島を殺人犯だと語っている。
「俺じゃない」
声が震えた。刑事として十二年、取調室の向こう側に座ってきた人間が、こちら側に座っている。この椅子がこれほど冷たいとは知らなかった。何百人もの容疑者をこの椅子に座らせてきた。あの人間たちも、この底冷えを感じていたのか。
竹内が目を伏せた。一瞬、わずかに唇が歪んだ。同情か、それとも嫌悪か。
「城島。ここで認めれば、まだやりようがある」
「ないものは認められない。桐生は——桐生は俺の相棒だ」
竹内は何も答えなかった。録画カメラの赤いランプが、瞬きもせずこちらを見つめていた。
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拘留二日目の夜。
護送車の後部座席。両手に手錠。左右に護衛の巡査が一人ずつ。手錠の金属が手首の骨に当たり、鈍い痛みが脈拍のたびに走る。城島は目を閉じて、桐生の声を反芻していた。
「ヤバいものを掴んじまったかもしれない」
俺たちの足元が崩れる——桐生はそう言った。俺たち。一課の、ではない。もっと大きな何かの足元。桐生はそれを掴みかけて、消された。そして口封じの生贄に、城島が選ばれた。
なぜ俺だ。相棒だからか。最も近い人間だから、最も疑われやすい。合理的だ。完璧に合理的だ。
桐生の顔が浮かぶ。最後に振り返った横顔。言いかけて、やめた言葉。あれは何だったのか。
「——すまん、城島」
そう言おうとしていたのかもしれない。巻き込むつもりはなかった。一人で片をつけるつもりだった。そして失敗した。
護送車が信号で停まった。
城島はポケットの中で指を動かした。桐生がふざけて渡してきたピッキングツール。「お守りだ」と笑って。移送前の所持品検査で見落とされていた。小さすぎたのだ。巡査の目が携帯端末に落ちた隙に、手錠の鍵穴に金属の先端を差し込んだ。
呼吸を整える。震えるな。今この瞬間だけは、指先を信じろ。
かちり。
手錠が外れた音は、小さかった。だが城島には、世界が軋む音に聞こえた。ここから先は刑事ではない。逃亡犯だ。容疑者から、本物の犯罪者になる。
それでも。
桐生が何を掴んだのか。誰が桐生を殺したのか。この手で暴かなければ、真実は永遠に葬られる。
城島は護送車のドアを蹴り開けた。
夜気が頬を打つ。四月の夜風は思いのほか冷たく、肺の奥まで染みた。怒号。制止の声。走った。路地に飛び込み、角を曲がり、また走った。雑居ビルの非常階段を駆け上がる。三階、四階、屋上。足音が金属の階段に反響し、自分を追いかけてくるように響いた。隣のビルとの距離は二メートル弱。跳んだ。着地で膝を打ち、鋭い痛みが走る。構わず走る。
サイレンが遠ざかっていく。城島は屋上の給水タンクの影に身を寄せ、荒い息を吐いた。手が震えている。だが後悔はなかった。
桐生が残した言葉が、脳裏でリフレインする。
港南のほう、ちょっと気になることがあってさ。
ポケットに手を入れる。ピッキングツールの横に、もう一つの金属片。拘留中、差し入れの弁当の下に忍ばせてあった合鍵。桐生の自宅の鍵だ。差し入れの主は不明。城島宛ての伝票に、名前はなかった。
誰かが、逃がそうとしている。
味方か、罠か。判断する材料がない。だが桐生の部屋に手がかりがあるなら、行くしかない。
城島は夜の東京に目を凝らした。ビルの谷間を縫うようにヘリの探照灯が動いている。どこかでパトカーのサイレンが鳴っている。もう戻れない。この街全体が、自分を追う巨大な檻に変わった。
その檻の中で、桐生の沈黙だけが道標だった。