Novelis
← 目次

ヨルノマドの管理人

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝、教室に入る前に一度だけ深呼吸をした。廊下の空気はまだ朝の冷たさを残していて、制服の襟元をすり抜けていく。吸い込んだ空気の中に、体育館のワックスと、誰かの柔軟剤の甘い匂いが混ざっていた。いつもと同じ時間、いつもと同じ足取り。何も変わっていないふりをすることに、昨日のうちに決めた。

「おはよう、白石さん」

「おはよう」

声をかけてくる相手の顔を、一瞬だけ探ってしまう自分がいた。この人だろうか。あの投稿を打ち込んだ指は、今どこにあるのだろう。でもすぐに視線を逸らす。探れば探るほど、管理人の自分が教室ににじみ出てしまう。

席について、鞄から教科書を出す。昨夜はほとんど眠れなかった。ベッドの中でスマホの画面を何度も開いては閉じて、あの投稿の文面を頭の中で反芻していた。枕に押しつけた頬が熱くて、何度寝返りを打っても心臓の位置が定まらなかった。明け方、カーテンの隙間から青白い光が差し込んできた頃にようやくうとうとして、アラームに叩き起こされた時には、目の奥に鈍い痛みが残っていた。

『白石って家庭の事情で推薦じゃなきゃダメなんでしょ。だから委員長やってるんだよね。まじめにやりたいわけじゃなくて、内申のため。本人が友達に言ってた』

「本人が友達に言ってた」。この一文が引っかかり続けている。

私があの話をしたのは、中学時代の親友・結衣だけだ。結衣がヨルノマドに書き込むとは考えにくい。そもそも結衣は別の高校に通っていて、校内Wi-Fiへの接続履歴がなければアクセスできない仕組みにしてある。

つまり、結衣が誰かに話した。その誰かが、この学校の生徒で、ヨルノマドに書き込んだ。

一時間目の現代文、二時間目の化学。ノートを取る手は普段通りに動くのに、頭の片隅ではずっと別の回路が走っている。黒板のチョークが擦れる音が妙に遠い。先生の声が水の底から聞こえてくるみたいで、ノートに落としたペン先だけが確かな接点だった。結衣の交友関係を、記憶の中で辿る。中学の卒業式の後、結衣と一緒にいたのは——同じバレー部だった数人と、隣のクラスの女子が何人か。その中に、この高校に進学した人間がいたはずだ。

昼休み、私は学食には行かず、教室で弁当を広げた。加藤さんが不思議そうな顔をしたけれど、「今日はちょっとお腹の調子が」と言えば簡単に引き下がってくれる。便利な嘘だ。加藤さんの背中が廊下に消えるのを見届けてから、弁当の蓋を開けた。母が詰めてくれたおかずの配置がいつも通りきっちりしていて、その几帳面さが少しだけ胸に刺さった。

弁当の卵焼きを箸でつまみながら、視界の端でクラスメイトの動きを追う。卵焼きは甘い味付けで、普段なら好きな味のはずなのに、今日は舌の上で形が崩れるだけだった。教室の後方で、四人ほどの女子グループが笑い声を上げている。その中心にいるのが、園田真帆だった。

園田真帆。出席番号十五番。明るい茶色のショートカットに、少しだけ大きめのカーディガン。声がよく通る。誰とでも話せる。休み時間にはいつも人に囲まれている。クラスの中心にいるのに、不思議とリーダーという感じはしない。空気を支配するのではなく、空気に溶け込むのが上手い。——私とは違うやり方で。

私が園田真帆を意識したのは、昨夜、管理人として一つのことを確認してしまったからだ。

投稿者のIPアドレスは調べないと決めた。白石凛として動くことになるから。でも管理人として、投稿のメタデータは日常的に確認している。タイムスタンプ、接続元のアクセスポイント、ブラウザ情報——それは監視ではなく、荒らし対策のための定常業務だ。少なくとも、自分にはそう言い聞かせた。

あの投稿が送信されたのは昨日の午後四時十二分。接続元は校舎の南棟三階——つまり、三年生の教室がある廊下のWi-Fiだ。放課後、教室に残っていた生徒は限られる。そして、あの投稿の文体。

ヨルノマドには数千件の投稿が蓄積されている。管理人として一年半、毎日すべての投稿を読んできた私には、常連の文体がなんとなく分かる。語尾の癖、句読点の打ち方、改行の頻度。あの投稿者は他にも書き込みをしていて、その文体的特徴——文末に「。」をつけない、体言止めを多用する、読点の位置が独特に浅い——に、見覚えがあった。

園田真帆。彼女が学級日誌を書いた日の文面が、それとよく似ていた。

確信はない。学級日誌と匿名投稿の文体を照合するなんて、普通の人間はやらない。でも私は普通の委員長ではなく、匿名掲示板の管理人だ。文体の癖を読み取ることは、もはや呼吸に近い。

園田真帆は笑っている。向かいの席の子が差し出したグミを受け取りながら、何か面白いことを言ったらしい。周囲がまた笑う。彼女の笑顔は自然で、私のように筋肉の記憶で動く種類のものには見えない。でも——どこかで一瞬、ほんの一瞬だけ、視線が宙を泳ぐ。誰にも向けられていない目が、教室の空気を測っている。

あの目を、私は知っている。

観察者の目だ。

五時間目が始まる前、担任の村瀬先生が教室に入ってきた。手にはプリントの束。

「修学旅行の班分けを発表する。移動中の座席も含めて、基本この班で行動するから確認しておいて」

教室にざわめきが走った。修学旅行は来月、七月の頭。京都二泊三日。高校最後の大きな行事だ。あちこちで「誰と一緒?」「見せて見せて」という声が弾けて、教室の温度が二度くらい上がった気がした。

プリントが前の席から回ってくる。受け取って、自分の名前を探す。二組B班——名前の列を指で辿って、呼吸が止まった。

白石凛。園田真帆。他に三名。五人一組のB班。

偶然なのかどうか、一瞬だけ考えた。班分けは先生がバランスを見て決める。委員長の私と、クラスの雰囲気を明るくする園田を同じ班に入れるのは、むしろ自然な判断だろう。そこに意図を読み取るのは、管理人の職業病だ。

プリントを机の上に置いて、何気なく顔を上げた。

園田真帆がこちらを見ていた。

目が合った瞬間、彼女はふっと笑って、小さく手を振った。「よろしくね」と口が動いている。その手の振り方が、肩から先だけを使う控えめな動作で、周囲に見せるための仕草ではなく、私だけに向けたものだと分かった。

私も笑い返した。いつもの筋肉で、いつもの角度で。

「よろしく」

声が自然に聞こえたかどうか、自分では判断できなかった。唇の端が少しだけ引きつっていた気がする。園田真帆は頬杖をついて、視線をプリントに戻している。なんでもないように。本当に、なんでもないように。左手の人差し指がプリントの端を無意識に折り曲げていたことに、たぶん本人は気づいていない。

放課後、図書室の定位置でヨルノマドの管理画面を開いた。窓際のいちばん奥の席。ここに座ると背後を壁に預けられるから、画面を覗かれる心配がない。あの投稿はまだ残っている。削除しないと決めたのだから当然だ。でも、昨日とは違う感情がそこにある。恐怖ではない。もっと厄介な何か。名前のつかない感情が、胃の底あたりでゆっくりと重さを増していく。

園田真帆は、私の何を知っているのだろう。家庭の事情を知っている。それは結衣から聞いたのかもしれない。でも管理人であることは知らないはずだ。知らないまま、管理人の場所に、私のことを書いた。

修学旅行。同じ班。二泊三日、同じ空間で過ごす。

私は彼女を観察しなければならない。何を知っていて、何を知らないのか。どこまでが無邪気な人懐っこさで、どこからが意図的な接近なのか。

管理画面の通知欄に、新しい投稿が一件。

『修学旅行の班発表あったね 楽しみだけど夜が怖い みんな寝ないで話すやつでしょ、ああいうの苦手』

私はその投稿を読んで、ゆっくりとスクロールした。管理人として。ただの管理人として。

でも指先はまだ少し冷たくて、図書室の窓から差し込む西日が、画面の文字をうまく照らしてくれなかった。本棚の影が長く伸びて、私の手元を半分だけ暗闇に沈めている。その境目に光るスマホの画面が、誰にも見えない小さな窓のように浮かんでいた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ