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ヨルノマドの管理人

第1話 第1話

第1話

第1話

誰にも見せない顔がある、と気づいたのは中学二年の冬だった。

六月の教室は湿気を含んだ空気が重たくて、窓際の席からは校庭の紫陽花がぼんやり見える。四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴って、私は出席簿を閉じた。

「白石さん、来週の席替えの件なんだけど」

担任の村瀬先生が教卓の横から声をかけてくる。私は椅子を引いて立ち上がり、いつもの笑顔を貼りつけた。

「はい、くじ引きの準備は昨日のうちに終わらせてあります。番号札も人数分切りました」

「さすがだね。助かるよ」

先生が職員室に戻っていくのを見届けてから、私は小さく息を吐いた。さすが。その言葉はもう褒め言葉には聞こえない。期待通りに動く歯車への確認みたいなものだ。期待を裏切らないこと。それが私の役割で、役割以外の何かを求められたことは、たぶん一度もない。

「凛ー、学食行こう」

声の方を振り向くと、前の席の加藤さんが弁当箱を振っている。今日は学食の日か。私は頷いて、筆箱の下に隠していたスマホをさりげなくブレザーのポケットに滑り込ませた。

昼休みの廊下は騒がしい。誰かの笑い声、上履きが床を擦る音、購買部のパンが売り切れたという悲鳴。その喧騒の中を歩きながら、私はポケットの中でスマホの画面を親指だけで操作する。

通知が十二件。

匿名掲示板「ヨルノマド」——私が一年半前に立ち上げた、この学校の生徒だけが使う掲示板。登録不要、完全匿名。校内のWi-Fiに一度でも接続した端末だけがアクセスできる仕組みにしてある。管理人は私。そのことを知っている人間は、この学校に一人もいない。

学食のうどんを啜りながら、加藤さんの話を適度に相槌を打って聞く。体育祭の打ち上げどうする、カラオケがいい、誰々を誘おう。私は「いいね」と笑って、テーブルの下でスマホを確認する。割り箸の木の匂いと出汁の湯気が鼻先を掠めて、周囲のざわめきが天井の低い食堂に反響していた。向かいのテーブルでは男子が肉うどんの大盛りを賭けてじゃんけんをしている。そういう風景を、私はいつも少し遠い場所から眺めている。ここにいるのに、ここにいない。笑っているのに、笑っていない。その隔たりを誰にも気づかれないことが、私のいちばん得意なことだった。

『二年の数学の田口、テスト前に範囲変えるのまじでやめろ』 『購買のメロンパン値上げしたの誰に言えばいいの?』 『三組のカップル別れたっぽい 朝から気まずかった』

生々しい本音が、タイムラインを流れていく。教室では絶対に口にしないこと。職員室には届かないこと。でも確かに誰かが感じていること。私はそれを読む。ただ読む。削除もしないし、煽りもしない。荒れそうなスレッドにはそっと空気を変える一言を管理者権限で差し込む。それだけ。

「凛、聞いてる?」

「聞いてるよ。カラオケでしょ? 私は何時からでも大丈夫」

加藤さんが満足そうに笑う。私も笑う。この笑顔にはもう筋肉の記憶が染みついていて、感情を通さなくても勝手に動く。

五時間目の英語、六時間目の日本史を終えて、放課後。教室に残る生徒はまばらになる。私は委員長としての日報を書き終え、職員室に提出してから、誰もいない図書室の奥の席に座った。

ここが、私のもう一つの場所。

ノートパソコンを開いて、管理画面にログインする。今日の投稿数は四十三件。昨日より少し多い。荒らしは二件、どちらもスパム系で自動フィルタが弾いていた。

ヨルノマドを作ったのは、高一の秋だった。きっかけは些細なこと。クラスでいじめとまでは言えない、でも確実に誰かを透明にしていく空気があって、誰もそれを口にしなかった。教室では「仲良し」の皮が被さっていて、剥がれる瞬間はSNSの鍵アカウントの奥にしかなかった。それなら、と思った。匿名で本音を置ける場所があれば、少なくとも誰かが「自分だけじゃない」と思えるかもしれない。

だから私はずっと観察者でいい。管理者権限を持つ透明人間。投稿の波から学校の空気を読み取って、翌日の教室で委員長としてさりげなく対処する。水曜日の朝に空気が重たければ、ホームルームで軽い話題を振る。誰かが孤立しかけていれば、班分けでそっと配置を調整する。

それは、たぶん優しさとは違う。コントロールだ。私は教室を「管理」している。ヨルノマドと同じように。

図書室の窓から、部活に向かう生徒たちの声が聞こえる。吹奏楽部のチューニング、野球部の掛け声。六月の夕方は空がまだ明るくて、斜めに差し込む光が本棚の背表紙を橙色に染めていた。

新着投稿の通知が光る。

『体育祭の応援団、やりたい人少なすぎて先生がキレてた』 『三年になったら受験モードで行事どころじゃないのに』 『推薦狙いの人だけ張り切ってるのウケる』

推薦狙い。それは間違いなく私のことでもある。成績を維持し、委員長を務め、内申を積み上げてきた。でもそれを「張り切ってる」と揶揄されても、不思議と腹は立たない。匿名の声は誰のものでもない。私に向けられたものですらない。たぶん。

投稿をスクロールしていく指が、不意に止まった。

新しいスレッドが立っている。タイトルは短い。

『三年二組の委員長について』

心臓が一つ、大きく鳴った。三年二組。私のクラスだ。スレッドを開く。投稿は一件だけ。

『白石って家庭の事情で推薦じゃなきゃダメなんでしょ。だから委員長やってるんだよね。まじめにやりたいわけじゃなくて、内申のため。本人が友達に言ってた』

指先が冷たくなった。

画面の文字を、三回読み直した。一語ずつ、句読点の位置まで確認するように目で追った。文字の羅列が意味を結ぶたびに、胃の底を冷たい手で掴まれるような感覚がせり上がってくる。

友達に言ってた。その一文が引っかかる。私が家庭の事情を話した相手は一人しかいない。中学からの親友に、一度だけ、三月の終わりに打ち明けた。母が体を壊して、父の収入だけでは大学の学費が厳しいこと。だから指定校推薦を確実に取りたいこと。それは、ヨルノマドのどの投稿にも書いていない。管理人としても触れたことがない。完全に、リアルの人間関係の中だけにあった情報だ。

あの日のことは覚えている。卒業式の翌日、ファミレスのドリンクバーの前で、氷が溶けていくメロンソーダを見つめながら、声を小さくして話した。彼女は黙って聞いてくれて、最後に「凛なら大丈夫だよ」と言った。あのときの声の温度まで覚えている。あの言葉を信じた自分がいたことも。

誰が書いた。

私の指は管理者権限のボタンの上で止まっている。投稿者のIPアドレスを確認すれば、校内のどのWi-Fiアクセスポイントを使ったか分かる。時間帯と場所を絞れば、ある程度の特定はできる。でも——

それは「管理人」がやることであって、「白石凛」がやることじゃない。

画面を閉じた。図書室の窓の外は、いつの間にか薄暗くなっている。部活の声も遠くなった。古い本の匂いと、空調の微かな唸りだけが、閉じた空間を満たしていた。

スマホを握ったまま、私は自分の呼吸の音を聞いていた。吸って、吐いて、また吸う。その単純な動作さえ、意識した途端にぎこちなくなる。指の中でスマホの角が掌に食い込んでいた。力を入れすぎていることに気づいて、少しだけ握りを緩める。画面は暗いまま、そこに自分の顔がぼんやり映っていた。図書室の薄暗さの中で見る自分の目は、思ったよりずっと平坦で、怒りとも悲しみともつかない何かが表面に薄く張りついているだけだった。

知っている人がいる。私の秘密を、掲示板越しではなく、現実の距離で知っている誰かが、このクラスの中にいる。しかもその人は、私が管理人だとは知らないまま、管理人が運営する場所に、私のことを書いた。

ヨルノマドの管理画面には、その投稿がまだ光っている。削除ボタンは、指一本で届く場所にある。

私はスマホをポケットにしまって、図書室を出た。廊下の蛍光灯がじりじりと音を立てている。明日もこの教室に来て、笑顔で「おはよう」と言わなくてはいけない。誰が書いたのか分からない、あの文章の主と同じ空気を吸いながら。

消さない。

消したら、それは管理人としてではなく、白石凛として動いたことになる。二つの顔の境界線が崩れる。それだけは——まだ、許すわけにはいかなかった。

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