第2話
第2話
六日目の夕刻、馬車の車輪が砂利を噛む音が、ふと、変わった。
ヴィオレッタは閉じた瞼の裏で、それを聞いた。王都を出てから、石畳から砂利道へ、砂利道から土の轍へと、車輪の音は段階を踏んで痩せていった。今、その音はさらに細くなって、乾いた小石を撫でるような、ざらりとした囁きへ落ちている。
「お嬢様」
向かいの座席で、セバスチャンが声を抑えた。窓の油紙を、彼が指の腹で押し開ける。隙間から、夕陽が一筋、ヴィオレッタの膝の白絹に差し込んだ。陽の色は赤くも金でもなく、灰色がかった黄だった。風に煤を孕んだような、痩せた光だった。
「着いたようでございます」
ヴィオレッタは身を起こし、油紙の隙間に顔を寄せた。
地平線の手前まで、土が広がっていた。畑だった土地、というのは輪郭で分かる。畝の跡が残っている。けれど、その畝の上に作物は無く、代わりに干涸びた茎の残骸が、傾いだまま立っていた。麦の刈り取られた後ではない。育つ前に、立ったまま枯れたのだ。土の色は、薄い灰褐色で、雨を吸った気配がない。風が吹くたびに、表面の砂が薄く舞い上がって、すぐ落ちる。それを六日目の夕陽が、平らに、ただ平らに照らしている。
(ああ、これが)
枯れの辺境、と国の北東をひと括りに呼ぶ理由を、ヴィオレッタは王都の地図帳でしか知らなかった。地図上では、灰色の網掛けが施された、ごく小さな区画だった。けれど実物の灰は、地図帳の網掛けよりも、ずっと、淡くて、ずっと、広かった。
馬車は、その灰色の真ん中をゆっくりと進んでいた。
村の入り口には、石の門柱が二本、立っていた。片方は中ほどから折れて、半分だけが地面に残っていた。木組みの家が、十数軒ほど、土の道に沿って並んでいる。屋根の藁は薄く、何軒かは煙突から煙すら上がっていない。井戸の手押し棒の脇に、女が一人、桶を提げて立っていた。馬車が通ると、彼女は顔を上げ、それから何の表情も浮かべぬまま、視線を下に戻した。
子どもが、家と家の間の細い路地から、覗いた。痩せた腕が、戸口の柱を握っている。ヴィオレッタは目を合わせようとした。子どもは、馬車の紋章の削られた跡を見て、すぐに引っ込んだ。
(紋章があれば、もう少し、違ったのかしら)
いや、と思い直す。紋章があれば、もっと早く石を投げられただけかもしれない。新しい領主、という肩書がここでどんな意味を持つのか、まだ、分からなかった。
館は、村の外れの丘の中腹にあった。
近づくにつれ、ヴィオレッタは、自分の予想していた館像を、少しずつ、書き換えていった。三階建てを期待していたわけではない。けれど二階の左翼の屋根には、明らかに穴が開いていた。穴の縁から、伸びすぎた蔦が垂れ下がり、夕風に揺れている。玄関の扉は片方の蝶番が外れて、斜めに傾いだまま、もう片方の蝶番だけで支えられていた。
馬車は、玄関前の枯れた噴水の縁で、止まった。
御者が踏み台を下ろす。セバスチャンが先に降り、ヴィオレッタの手を取った。彼の掌は、王都を出た夜と同じ温度で、骨の硬さがあった。靴の踵が、噴水の周りに敷かれていたはずの石畳に着いた。石畳は、半分が剥がれて、土に埋もれていた。
「お待ちしておりました」
噴水の向こう側、玄関の傾いだ扉の前に、もう一人、老人が立っていた。痩せた肩に、洗いざらしの黒い上着を着て、両手を腹の前で組んでいる。歳は、セバスチャンよりも幾つか上に見えた。彼は、ヴィオレッタを見て、ゆっくりと、深く、頭を下げた。下げた頭が、しばらく上がらなかった。それは、儀礼の角度ではなかった。長く、ただ長く、誰かを待ち続けた人間の、頭の下げ方だった。
「家令の、ヨアヒムにございます」
声は掠れていた。
「お嬢様の御到着を、四代、お待ちしておりました」
ヴィオレッタは、その「四代」という言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。けれど、聞き返さなかった。代わりに、自分の喉の奥で、ゆっくりと、息を一つ吐いた。吐いた息が、夕暮れの空気の中で、白く濁って、すぐに消えた。北の辺境は、王都よりも、もう、息の白くなる季節に入っていた。
館の中は、外見よりは、整っていた。
埃は積もっていたが、廊下の床板は拭かれた跡があった。ヨアヒムが灯したランプの油は、新しいものではないけれど、芯が短く切り揃えてある。薄暗がりの中を、ヴィオレッタは、自分の靴音を、なるべく抑えて歩いた。床板が、ところどころ、軋んだ。
通された二階の角部屋には、寝台が一つ、机が一つ、鎧戸の傷んだ窓が一つあった。
「ここがしばらくの、お部屋となります」
ヨアヒムが、ランプを机の端に置いた。
「お夕食は、麦粥と、塩漬けの蕪と、それから——」
「ありがとう、ヨアヒム」
ヴィオレッタは、それで充分です、と最後まで言わなかった。言わない方が、彼の準備した食卓を尊重することになると、思った。
二人が下がった後、彼女はようやく、自分の革鞄を寝台の縁に下ろした。
留め金を外す音が、夜の部屋に、思いのほか大きく響いた。
中から、まず一冊目を取り出す。
革表紙は、王都を出る前夜に蜜蝋で磨いておいた。二冊目、三冊目も、同じように出した。机の上に、三冊の手書きノートが、並んだ。ヴィオレッタは、椅子を引いて、座った。座った瞬間、椅子の脚の一本が、わずかに沈んだ。床板が傷んでいる。気にせず、彼女は、一冊目の表紙を、開いた。
最初の頁には、九つの誕生日に父から渡された分厚い本の、その第一章の写しがあった。少女の頃の自分の字で、まだ縦の線が震えていた。けれど、頁をめくるにつれて、字は次第に整い、行間に挿し絵が増え、薬草の押し花の影が、紙に薄く茶色を残していた。
頁を進めながら、ヴィオレッタは、自分の指先が冷たくなっていないことに、気づいた。王都を出てから六日、ずっと馬車の中で握りしめていた指は、いつも氷のようだった。今、紙を捲るその指は、ランプの熱でもなく、ただ、紙の方から温度を返してもらっている、という感じがした。
十七頁めに、目当ての式があった。
塩化銀、炭、粉砕した琥珀苔。比率は、三対二対一。水温は、十五度から二十度の間。攪拌は、右回りに四十回、それから左に十二回。
少女の頃の自分が、書庫の机の上で、何度も書いては消して、最後に確定させた式だった。実際に試したことは、まだ、ない。試す水も、井戸も、書庫にはなかった。
(明日、村に降りる)
ヴィオレッタは、頁の余白に、新しい字を書き加えた。「枯れの辺境、ファルネーゼ館、初日」と、日付の代わりに、地名を書いた。書いてから、その文字を、しばらく見つめていた。日付ではなく、地名で始まる頁を、彼女は、これから、何頁も、書き重ねていくのだと、ふと、思った。
廊下の方で、足音がした。
セバスチャンが、湯気の立つ陶器のカップを、両手で持って、入ってきた。中身は、麦と、何かの草を煎じた、淡い黄緑の液体だった。
「館の裏に、薄荷が、わずかに残っておりました」
ヴィオレッタは、カップを受け取った。指先に、湯気の温度が移った。一口、含むと、舌の上に、青い、けれど甘い、ほのかな苦みが広がった。
王都の夜会で口にした、どんな菓子よりも、それは、甘かった。
その夜、ヴィオレッタは、机の前で、朝まで起きていた。
ランプの油が尽きる前に、彼女は、明日持ち出す道具を、紙片に書き出していった。木のすり鉢が一つ、磁器の小皿が三枚、攪拌のための硝子棒、それから、鞄の底に忍ばせていた、緑がかった鉱石の欠片。湿った木の匂いに似た、土の奥の匂いがする、あの欠片だった。
窓の鎧戸を、わずかに押し開けると、夜気が頬に触れた。
新月から、二日が経っていた。空には細い月が一筋、雲の切れ間に浮かんでいる。月の光が、館の前の枯れ庭を、薄青く撫でていた。庭の向こうの坂道の下に、村の家々の屋根が、黒い波のように重なって見える。あの屋根のどこか一軒で、子どもが、熱に伏しているかもしれなかった。井戸の水が、濁っているかもしれなかった。彼女は、まだ、何も知らなかった。
けれど、明日、知る。
ヴィオレッタは、鎧戸を、静かに、閉じた。
机の上のノートを、一度、閉じた。革表紙に、指を二度、軽く置いた。それは、自分への、約束の仕草だった。
東の空の縁が、わずかに、白み始めていた。