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枯れの辺境で錬金術を

第1話 第1話

第1話

第1話

扇の骨が、握りしめた手の中で軋んだ。

王太子レオンハルト殿下が三歩前に出た瞬間、玉座の間に張りつめていた弦楽の音が止んだ。シャンデリアの蝋燭が三百本、天井から薄く油の匂いを落としている。ヴィオレッタ・ファルネーゼ侯爵令嬢は、その匂いを十二の頃から知っていた。年に四度、王宮で開かれる夜会の、決まった香りだった。

「ヴィオレッタ侯爵令嬢」

殿下の声は、いつもより半音高かった。

「貴公との婚約を、本日この場をもって破棄する」

会場の四隅から、息を呑む音が同時に四つ上がった。ヴィオレッタは扇を口元から下げない。下げれば、噛みしめた奥歯の動きが、最前列の貴婦人たちに見えてしまう。爪が白絹の手袋越しに掌に食い込むのが分かる。痛い、と思った。痛い、でも、まだ、表情は崩れていない。

(よし。あと、息を、吐かないこと)

殿下の右側に、薄桃色のドレスを纏った男爵令嬢が寄り添っている。エルナ・ドレイク。三月前から殿下の傍に侍り始めた女だ。涙ぐんで殿下の腕にしがみつき、けれど唇の端だけがわずかに上がっている。それをヴィオレッタは見た。見てしまった。

「貴公はこのエルナ嬢に、王家の由緒ある宝石、星砂の首飾りを盗ませようとした」

宝石は、ヴィオレッタが触れてもいない品だった。

「さらに、毒の調合をエルナ嬢の私室に仕掛けようとした疑いがある」

毒は、ヴィオレッタが知り尽くしている分野だった。だが盛ってもいない。

(私の名で書かれた書状でもあるのですか、殿下)

そう問いたかったが、聞いたところで返ってくる答えは決まっている。だから、聞かない。

「よって、卿の身柄は本日この夜会をもって、王国北東辺境——通称『枯れの辺境』へ配される」

ざわめきが、波のように広がった。隣に立つ侯爵夫人ロッセリアが、扇で口元を隠して低く笑った。あの方は、ヴィオレッタの母方の遠縁だった。幼い頃、菓子を持ち寄って茶会に呼んでくれた人だった。クルミを蜂蜜で煮詰めた、あの茶会の菓子の甘さを、ヴィオレッタは舌の付け根のあたりで、ふと、思い出した。思い出して、すぐに、忘れることに決めた。

(笑うんですね、ロッセリア叔母様)

足元の大理石に、シャンデリアの光が薄く滲んで見える。涙ではない、とヴィオレッタは自分に言い聞かせた。蝋燭の油煙が空気に積もって、視界の輪郭を曖昧にしているだけだった。扇を、ゆっくりと閉じる。骨と骨の擦れる、乾いた音がした。

「謹んで、お受けいたしますわ」

声は、自分でも驚くほど低く、平らだった。十六の頃に侯爵家の次女として叩き込まれた発声は、こういう時にこそ役に立つ。

「異議は」

「ございません」

殿下が一瞬、言葉に詰まった。たぶん、泣いて崩れ落ちる姿か、罵声を上げて掴みかかる姿を、彼は予期していたのだろう。エルナ・ドレイクの肩がわずかに揺れた。ヴィオレッタは、その動揺の方を見ていた。脚本を渡した側は、想定外の台詞に弱い。

(覚えておきます、お二人の表情)

ふと、子どもの頃を思い出した。

ファルネーゼ家の三階、北向きの書庫。陽の入らない、埃と古い紙の匂いがする部屋。九つの誕生日に、母が「貴族の娘が読むものではない」と言って取り上げかけた、革表紙の分厚い本。錬金術、と背に金箔で押されていた。父は何も言わずに、母の手から本を取り戻し、それをそのままヴィオレッタの机に置いた。

——好きにすればいい、と父は言った。お前のものだ、と。

それから八年。書庫の隅で、誰にも知られず、薬草の押し花を挟みながら学び続けた。鉱石の名前を覚え、温度の数字を覚え、触媒の調合比を覚えた。今、王太子の傍に立つエルナ嬢の白い首には、ファルネーゼ家の家宝、金剛草の葉脈紋章が淡く光っている。あれは、形だけ寄越されて、私の指から滑り落ちる予定の品だった。

ヴィオレッタは、もう一度、静かに息を吸った。胸の奥で、一つだけ、熱の塊が転がっている。怒りではない。これは、別の名前を持つ熱だった。

(私には、まだ、書庫がある)

枯れの辺境にも、館はあるはずだった。書庫があるかどうかは知らない。けれど鞄に詰めた手書きノートが三冊、すでに馬車の積み荷の中にある。それで、足りる。

「では、即時の出立を命ずる」

殿下の合図で、近衛兵が二人、ヴィオレッタの両脇に立った。誰も止めなかった。母も、姉も、最後まで顔を背けたままだった。会場の隅で、年老いた執事セバスチャンだけが、深く、深く頭を下げた。それを見て、ようやくヴィオレッタの目の縁が、ほんの少し、熱くなった。

夜会場から外へ続く回廊は、長い。

ヴィオレッタの足音が、磨かれた石の床に、二つに分かれて反響する。自分の靴音と、すぐ後ろを歩く近衛兵のものと。回廊の窓硝子越しに、王宮の中庭の薔薇が黒く揺れている。今夜は新月で、薔薇の赤も葉の緑も、影でしか見えない。

横を通り過ぎる柱の陰に、ふいに人影が動いた。

「ヴィオレッタ様」

老いた声だった。セバスチャン。歩み寄ろうとした彼を、ヴィオレッタは目で制した。彼の足はもう速くない。先回りしてここに立つために、おそらく走った。胸を上下させる音が、彼の喉から細く漏れている。

「鞄は」

「馬車に。三冊とも、一番上の段に積んでおきました」

「父上は」

セバスチャンの口元が、わずかに動いて、止まった。それで、答えは分かった。父は、止めなかった。あるいは、止められなかった。どちらでも、結果は同じだった。

「セバス。お前は、戻りなさい」

「いいえ」

老執事は、震える両手で、自分の薄い外套のボタンを上から二つ、留め直した。

「お館様より、暇を頂戴いたしました。本日付けで、私はヴィオレッタ様の私的使用人にございます」

ヴィオレッタは、扇の柄を握り直した。指の関節が、扇の縁に押されて白くなる。

「枯れの辺境です。お前の身体には」

「私の身体は」セバスチャンは静かに言った。「お嬢様が八つの頃、書庫の梯子から落ちかけたのを受け止めた時から、お嬢様のものでございます」

ヴィオレッタは、その言葉に、すぐには返事ができなかった。八つの頃、たしかに、書庫の高い棚に手を伸ばして、梯子の三段目から踏み外したことがあった。咄嗟に伸ばされた老人の腕に受け止められて、彼女は泣くより先に、彼の額に滲んだ汗の粒の方を、まじまじと見てしまった子どもだった。あの夜、彼の両手はわずかに震えていて、絹の袖越しなのに、骨の硬さと、薄い皮の冷たさまでが伝わってきた。今、回廊の闇の中で、もう一度、その同じ手の温度に守られている気が、ふと、した。何かを言おうとして、口を開きかけ、けれど言葉は喉の手前で止まった。代わりに、彼女は、ほんの一度だけ、顎を引いて、深く頷いた。

回廊の窓から、夜風が入った。バルコニーの方角から、しだれた藤の匂いがした。甘い、けれど、どこか青い、雨の匂いに似た香り。ヴィオレッタは、その匂いを胸の奥まで吸い込んだ。

(枯れの辺境にも、井戸はある)

馬車に積んだノートの一冊目、十七頁めに書いた式を、彼女は思い出す。

塩化銀と、炭、それから粉砕した琥珀苔。比率を間違えなければ、濁った水を澄ませる触媒は組める。その先には、痩せた土に撒く改良剤の式もある。さらにその先には——美容に効く軟膏も、滋養を補う飲み薬の処方も、すべて、書庫の隅で書き溜めてきた。

(私は、お返しを忘れません)

それは、王太子へ向けた言葉では、もう、なかった。

頭を下げてくれた、ただ一人の老人へ向けた、約束だった。

王都の硬い石畳に頭を下げさせるのではない。辺境の柔らかい土の上で、もう一度、彼にお茶を煎れてもらう。それだけのことを、これから八年でも、十年でも、かけて積み上げる。

ヴィオレッタは、まだ赤くなっていない目を、ゆっくりと一度だけ、瞬かせた。

「行きましょう、セバス」

王宮の南門で、馬車は待っていた。

彼女のために用意されたのは、紋章の削られた古い箱馬車だった。塗料の剥げた扉に、御者がランプを掲げて照らす。荷台に積まれた革鞄の縁から、ノートの背表紙が三冊、わずかに覗いている。錬金術、と金箔が、ランプの光を受けて、一度だけ鈍く瞬いた。

ヴィオレッタは、扇を御者台の隅に置いた。もう要らなかった。

代わりに、外套の内側から、先刻まで気付かれずに握っていた小袋を取り出す。中には、書庫の机から最後に掴んだ、緑がかった鉱石の欠片が一つ、入っていた。指先の爪で押すと、ほんのわずかに粉が剥がれる。湿った木の匂いに似た、けれどもっと冷たい、土の奥の匂いがした。

(届いた最初の井戸を、まず、これで)

馬車の踏み台に、片足を掛けた瞬間、東の空の端で、新月の闇が一段だけ、薄く青みを帯びた。

——枯れの辺境まで、馬で六日。

扉が閉まり、車輪がゆっくりと、石畳の上を回り始めた。

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