Novelis
← 目次

苔の匂いと月光草の竈

第2話 第2話

第2話

第2話

椀の縁の欠けが、唇の同じ場所に何度も引っかかった。

直哉は湯冷ましの最後のひとくちを、舌の上で転がしてから、ようやく飲み下した。底に沈んでいた香草の葉が、椀の内側に薄く張り付いている。指先でそっと剥がしてやると、葉脈の窪みに、ひとしずくだけ湯が残っていた。

老婆――マリ、という名を、別れ際にようやく聞いた――は、椀を縁石の上に伏せて、皺の刻まれた指で井戸の方角を指した。

「村長のとこは、この道を真っ直ぐ下って、屋根に風見鶏の乗っかった家だよ。今時分なら、納屋のあたりで干し草を返してるだろう」

「……ありがとうございます」

「礼はいい。足の動くうちに、行きな」

直哉は頷いて、麻の袖で目元を一度だけ拭った。歩きはじめると、踏み固められた土の硬さが、足の裏に返ってきた。たくさんの人間が、何年も、同じ場所を踏み続けて、ようやくこの硬さになった土だ、と直哉は思った。前世のオフィスビルの、急いで磨かれただけのリノリウムとは違う、ずいぶん長い時間をかけてここに置かれてきた硬さだった。

道の両側には、軒の低い家がいくつも肩を寄せるように並んでいた。どの家からも、薪の煙の匂いが痩せた糸のように立ちのぼっている。煙草の吸い殻でも、サーバーの熱気でもない、木がゆっくりと自分の体を譲り渡している匂いだった。歩くたびに、その匂いの濃淡が、肩のあたりで入れ替わった。

風見鶏の家は、すぐに見つかった。屋根の上で、片足の取れた鉄の鶏が、傾いだまま西の風を受けている。納屋の前では、やせた長身の老人が、熊手を逆さに地面に立てかけているところだった。

「村長さん、で、いらっしゃいますか」

老人は、ゆっくりと振り向いた。眉毛が、生え際よりも長く伸びていた。直哉の麻の上着の汚れと、腰の縄に括った錆びた鉈を、上から下まで一往復した目で確かめると、ふ、と短く息を吐いた。

「マリ婆さんが、湯冷ましを飲ませた口だな」

「……はい」

「あの婆さんが湯冷ましを出すのは、二度目に死にかけた人間にだけだよ」

直哉は、何と返していいか分からず、ただ立ち尽くした。村長は、それを返事と受け取ったらしい。熊手を納屋の壁に立てかけ直すと、片手で、北の方角を緩く指した。

「村外れに、しばらく誰も入っていない小屋がある。前に住んでた者が冬の終わりに山へ入って、そのまま戻ってこなかった。屋根は半分落ちちゃいないし、囲炉裏もまだ生きてる。井戸も、夏のあいだ涸れちゃいない。使うかい」

「……使わせて、いただきます」

「家賃は要らない。代わりに、月のうち一日は、村の畑の手伝いに出てもらう。それでいいなら、今日から、あんたの小屋だ」

ふた言の頷きで、ひとつの屋根が、自分のものになった。前世であれば、保証人だの敷金だの、紙の束を一晩読み込まなければ手に入らなかったものが、ふた言で。直哉は、ぼんやりと、自分の足元の土を見ていた。土が、少しだけ揺れて見えた。

村長は、ふところから細い鉄の鍵をひとつ取り出して、直哉の手のひらに落とした。鍵は、思ったよりも重かった。重いのに、手のひらの温度を奪わない。長く誰かの懐で温められていた金属の重さだ、と直哉は思った。

「行き道は、井戸沿いをさらに下って、橋を渡ってから森側に折れる。煙突の傾いだ家がそれだ。判断が要ることがあれば、戻ってきな。判断が要らんことなら、戻ってこなくていい」

直哉は、もう一度頭を下げた。下げたまま、しばらく顔を上げられなかった。

橋を渡ると、川面の上を、細かい羽虫の群れが、薄い金色の柱になって舞っていた。日が、樹冠の隙間から斜めに差し込んでいる。橋板は古く、踏むたびに、ぎぃ、と低い声で泣いた。

煙突の傾いだ家は、本当にすぐに見つかった。屋根の北側に、細い下草が腰の高さまで生えあがり、軒の縁から、蜘蛛の糸が幾筋か垂れ下がっている。直哉は、鉄の鍵を錠前に差し込んだ。錠前は、最初は固く動かなかったが、何度か手首をひねるうちに、ことん、と乾いた音をひとつだけ立てて、開いた。

中は、暗かった。

土間に立つと、目が慣れるまでのあいだ、湿った藁と、煤と、古い油の匂いが、順番に鼻先を訪れた。誰かが、長いこと暮らして、ある日、ふと出ていったきりの匂い。奥の板戸を、両手で押し開けた。光が、束になって、土間の中央まで伸びてきた。光の柱の中で、無数の埃が、ゆっくりと回転していた。

土間の隅に、囲炉裏が切られていた。石で囲った正方形の枠の中に、白く乾いた灰が、湖のように溜まっている。手のひらで掬うと、灰は驚くほど軽かった。たぶん何年も、誰の指にも触れられずに、ただ静かに乾き続けていた灰だ。

直哉はまず、外の井戸へ向かった。

井戸は小屋の裏手、栗の木の根元にあった。縄を引くと、木桶が、思ったよりずっと深い場所から、ごろごろと壁にぶつかりながら、上がってきた。桶の縁に、深緑の苔がひと筋、まだ生きたまま張り付いている。覗き込むと、桶の底の水は、夕方の空をひと切れ抱え込んだような色をしていた。指を浸すと、皮膚の薄いところに、すぐ針のような冷たさが走った。

その水を、土間の甕にひと桶、ふた桶と運んだ。三桶めを運び終える頃には、肩の付け根が、すでに小さく震えていた。前世のオフィスチェアの上で、固まるばかりだった筋肉が、井戸の縄ひと本に、もう悲鳴を上げている。それでも直哉は、悪い気はしなかった。

囲炉裏の灰を、外の畑の畔に撒き、空になった石枠の中に、軒下から拾ってきた細い枝を組んだ。鉈の背で、樺らしい樹皮を薄く削ぐ。樹皮は、空気に触れたとたんに、甘いような、わずかに苦いような匂いを立てた。火打ち石は、囲炉裏の脇の小さな箱の中に、置き忘れられたまま眠っていた。何度か打ち付けるうちに、薄黄色の火花が、ようやく樹皮の上で、小さくのたうった。

火がつくのに、それからさらにずいぶんかかった。

最初の煙が、囲炉裏の上の煤けた天井に向かって、ためらいがちにのぼっていったとき、直哉は、囲炉裏の縁に手をついて、しばらく動けなかった。火は、誰のためのものでもなかった。納期のためでも、上司のためでも、クライアントのためでもなく、ただ、この小屋の今夜の温度のためだけに、燃えていた。

「……あったかい」

声に出してから、自分の声が、湿気を含んでいることに気づいた。

火を熾し終えると、直哉は、汲み忘れた最後の桶を取りに、もう一度外に出た。井戸の縁石に手をかけたとき、ふと、顔の右側に、それまでとは違う風が当たった気がした。森の奥から、薄く流れてくる風だ。風には、井戸水の鉱物質の匂いと、薪の煙の匂いに混じって、もう一つ、知らない、青くて、わずかに甘い匂いが混ざっていた。

直哉は、桶を縁石の上に置き直した。

その匂いの来る方向へ、足が、勝手に二、三歩、踏み出していた。

森との境目は、小屋の裏から、ゆっくりと樹々が密になっていく、緩やかな斜面だった。夕方の光は、もう樹冠の上を素通りしはじめていて、地面のシダのあいだには、青みを帯びた影が溜まりはじめている。直哉は、その斜面を、ゆっくり、慎重に登った。登りながら、前世の朝に、ベランダのプランターのバジルを摘んでいた指の感触を、ふと思い出した。あの指は、今の指よりずっと太く、爪のあいだに、いつも前夜のキーボードの汚れが入り込んでいた。

斜面を登りきって、楢に似た太い樹を一本、回り込んだとき――

直哉は、足を止めた。

谷の底に、小さな窪地が広がっていた。窪地の中央には、湿った黒土の床が広がっていて、その上に、ひと群れだけ、見たことのない草が生えていた。

葉が、薄紅色だった。

桜の花弁よりは、もう少しだけ淡くて、内側に、銀色の細い葉脈が走っている。手のひらほどの大きさの、楕円の葉だ。茎は、ふしぎなほどまっすぐで、節のひとつひとつが、宝石細工のように光っていた。窪地のあいだを抜ける細い風に、その葉が、ひと斉に同じ角度で、ゆらりと揺れた。揺れた瞬間に、薄い甘さを含んだ匂いが、もう一段強く、直哉の鼻先まで運ばれてきた。

直哉の喉が、ごく小さく、鳴った。

園芸が、趣味だった。前世の、ベランダ三坪のあいだだけの趣味だった。トマトを枯らし、紫蘇を伸ばしすぎ、バジルだけはどうにか毎年、夏のパスタの上にのせてきた。あの程度の知識が、この見たこともない植物の前で、何の役に立つのか、直哉には分からない。分からないのに、薄紅の葉の群れから、しばらくのあいだ、目を逸らせなかった。

風が、もう一度通り抜けた。

葉が、もう一度、揺れた。

その揺れ方を見ているうちに、直哉の頭の奥で、湿った何かがゆっくりと動き始めた。記憶でも、知識でもない、もっと深い、土に近い場所が、薄く起きあがるような感覚だった。

直哉は、腰の縄から、錆びた鉈をそっと引き抜いた。刃は、まだ青い汁の跡を、薄く残していた。

「……ひと束だけ」

呟いた声は、夕方の風に、すぐに溶けて消えた。

刃の腹に、薄紅の葉先が、ひとひら、軽く触れた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ