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苔の匂いと月光草の竈

第1話 第1話

第1話

第1話

苔の匂いが、頬の片側に張り付いていた。

湿った土と、踏みしだかれた落ち葉の、青臭い匂い。それが鼻腔をくすぐるたび、佐倉直哉の喉の奥が、ひゅう、と細く鳴った。空気が、冷たかった。冷たいのに、肺の奥まで入ってきて、すぐには出ていかない。咳き込もうとした拍子に、肋骨の内側が、にぶく軋んだ。痛い。だが、知っている痛みでは、なかった。

「……死んだのか、俺」

口に出してから、声が出た事実に、少し驚いた。声が出るのなら、たぶん、死んではいない。直哉はゆっくりと頬を持ち上げた。視界の隅に、苔。さらにその奥に、見たこともない太さの広葉樹。葉と葉の隙間から、緑がかった光が、ぽつりぽつりと落ちてきている。

最後に覚えているのは、終電のホームから階段を降りる途中で、ふっと膝が抜けた感覚だった。両手に握っていたのは、コーヒーが半分残ったコンビニの紙コップと、社用のスマートフォン。スマートフォンの画面には、既読のついていないSlackのメッセージが百三十二件、赤いバッジで積み上がっていた。月三百時間。先月の残業時間だ。クライアントの修正と、要件の追加と、追加への追加と、納期前夜の仕様差し替え。あの時、画面の向こうにいた誰かはきっと、直哉の返信が三分遅れたことを怒っていた。

その怒りが、今、ここにはない。

その単純な事実だけで、目尻からひとすじ、温いものが頬を伝った。

身を起こすと、麻のごわついた布が肌をこすった。直哉の体は、自分の体ではなかった。手の甲は、こんなに白かったか。指は、こんなに細かったか。腕には、見覚えのない切り傷が一本、薄く走っている。傍らには、錆の浮いた鉈が一振り。柄の握りの部分だけが、汗の脂で黒く光っていた。鉈の刃には、青い汁の跡がついていた。直哉はそれを、指の腹で軽く撫でてみる。指先に、苦みと、わずかな粘り。森の中で、何かを切ろうとした、その途中。途中で、誰かは、いなくなった。残されたのは、まだ温い、麻の体だけだった。

理屈は分からない。理屈は、たぶん、これから少しずつ分かっていくか、最後まで分からないままだろう。直哉は、それでよかった。三分の遅延を詫びる必要も、月の残業時間を申告する必要もない場所で、苔の匂いを吸い込みながら、しばらくの間、ただ呼吸をしていた。

立ち上がってみると、足は思ったよりしっかりと地面を踏んだ。鉈を腰の縄にくくりつけ、直哉は森の中を歩き始める。歩く、と言うほど目的があったわけではない。ただ、苔の匂いの中に座り続けるには、肺の奥に詰まったものが、多すぎた。

森は、深かった。

頭上の樹冠は、どこまでも緑が層を成していて、空がかろうじて見える隙間は、片手で覆える程度しかない。地面には、知らない種類のシダが繁茂していて、踏むたびに、青くて少しだけ甘い匂いが立った。前世で趣味だった園芸の知識が、ふと働く。これに似た葉の形は、確か――いや、思い出せない。日本の植生ではない。当たり前だ。ここはたぶん、日本ではない。

どこか遠くで、聞いたことのない鳥が、二音だけ鳴いた。短い、笛のような声。それきり、しんと静まり返る。直哉は、しばらく耳を澄ませていた。会議室の空調の音も、サーバーのうなりも、隣の席のキーボードを叩く乾いた音も、ここにはない。あるのは、自分の呼吸と、足の下で、シダの茎が、ぷつ、と折れる音だけだった。その音の細さが、奇妙に直哉を安心させた。誰にも聞かれていない音だ、と思った。誰にも聞かれていない音を、自分の足が立てている。それだけのことが、首の後ろに溜まっていた何かを、少しだけ緩めた。

少し進むと、細い流れに行き当たった。岩のあいだを、澄んだ水が、急がずに走っている。直哉は屈んで、両手で水をすくった。冷たさが、手首の骨まで届く。一口飲むと、舌の上で、鉱物のような味が一瞬光って、すぐに消えた。前世のミネラルウォーターは、こんな味ではなかった。あれはもっと、漂白された、何もない味だった。

水面に、知らない男の顔が映っていた。痩せた頬、伸びかけの黒髪、迷子のような目。直哉は、自分の指で、その頬の輪郭を辿ってみた。水の中の男も、同じように、自分の頬を辿った。「よろしく」と、心の中で呟いた。返事はなかったが、咎める声も、なかった。

足元を、毛の長い、栗鼠のような小動物が走り抜けた。直哉は反射的に身を屈めて避け、避けてから、自分が「危険を避ける」という動作を、咄嗟にできたことに、少しだけ驚いた。会社にいた頃の自分は、走ってくる無理を、いつも避けそびれていた。

やがて、空気が変わった。

土の匂いに、薪の匂いが、薄く混ざり始めたのだ。煤けた、人間の匂い。直哉は足を速める。樹々の切れ目の向こうに、傾いた屋根が見えた。藁葺きの、低い、いくつもの屋根。屋根の上には、白く細い煙が、迷子の糸のようにのぼっている。

村だった。

集落の入り口に立ったとき、直哉の足は、もう一歩も踏み出せなくなった。目に映ったのは、本当に、ただの村だった。畑の畝、井戸の縄、軒先で繕いものをしている老婆、犬と一緒に駆けていく子供。誰もスマートフォンを握っていない。誰も、駅のホームに向かって走っていない。誰の顔にも、納期というものが、刻まれていない。

「……」

声が、出なかった。喉の奥で、何か熱いものが膨らんで、それが言葉になるよりも先に、直哉は地面に座り込んだ。座り込んだ拍子に、麻の膝が泥で汚れた。それすら、誰にも怒鳴られないことが、奇妙におかしかった。

最初に近づいてきたのは、繕いものをしていた老婆だった。

「あんた、森から下りてきたのかい」

聞き取れる言葉だった。日本語ではない、抑揚の違う、舌を奥に丸めるような響き。だが、意味は分かる。なぜ分かるのかは、分からない。たぶん、ここに連れてこられたとき、何かがついでに、直哉の頭の中に押し込まれていったのだろう。

「……はい」

「腹は、減ってるかい」

老婆の手の中には、繕いの途中の、やはり麻の上着があった。針は骨を削ったもので、糸は植物の繊維を縒ったもの。直哉は無意識に、その針と糸を、目で追っていた。前世で、深夜のオフィスで、ほつれたシャツの袖を縫い直した夜があった。あの夜、糸を通したのは、コンビニで買った百円の縫い針だった。百円が、もうここにはない。

「腹は……減っています。たぶん、すごく」

「すごく、はいけないね。すごく腹を減らした人間に、いきなり粥を食わせちゃ、内臓がびっくりする」

老婆は、笑いもせず、ただそう言って、立ち上がった。膝の関節が、ぱき、と乾いた音を立てる。皺の刻まれた手のひらが、ふいに直哉の頭の上に、軽く置かれた。重さは、ほとんどなかった。だが、その手のひらの乾いた温度が、頭頂から、首の後ろを通って、背骨の一番下まで、じわりと降りてきた。直哉は、息を止めた。誰かに頭を撫でられたのが、いつぶりだったか、思い出せなかった。思い出せないということが、自分でも、少し怖かった。

「井戸の脇まで来な。湯冷ましから始めるんだよ」

直哉は、頷いた。頷いてから、頬にまた熱いものがつたっていることに気づいた。涙は、ずいぶんと久しぶりだった。前世の最後の三年間、直哉は泣くという行為を完全に忘れていた。泣くには、時間が要るのだ。涙が頬を伝い、顎の先から落ちる、その数秒間ぶんの、誰のためでもない時間が。

その時間が、今、目の前の老婆と、その背後の井戸と、井戸のさらに向こうの空のあいだに、確かにあった。

井戸の縁石に腰を下ろした直哉は、湯冷ましの欠けた木の椀を、両手で包んだ。

椀の湯は、薄い金色をしていた。底に、何か小さな葉が一枚、沈んでいる。たぶん、香草の類だ。口に含むと、舌の付け根が、ぴりっとした。それから、温かさが、胸の方へ、ゆっくりと落ちていった。胃の壁が、内側から、誰かに優しく押し返されているようだった。固く縮こまっていた何かが、その温度の前で、少しずつ、形を失っていく。

「……うまい」

声に出していた。出してから、自分の声が、こんなに、ほどけた響きを持っていることに、驚いた。

「うまいって言う子は、長生きするよ」

老婆は、それから、しばらく直哉の横顔を見ていた。見終えると、ふ、と短く息を吐く。その息が、一瞬、白く立ちのぼって、消えた。

「あんた、行くあてはないんだろう。村長のところに、寄っていきな。村外れに、しばらく誰も使ってない小屋がある」

直哉は、椀を持ったまま、頷いた。頷いた拍子に、椀の縁から、湯がひと粒、麻の膝にこぼれた。そのひと粒が、ゆっくりと、布の繊維に染みていくのを、直哉は黙って眺めていた。

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