第2話
第2話
朝の光で目が覚めた。
正確には、頬に当たる冷たさで目が覚め、次に光が瞼を透かして赤く染めた。ガルディアスはゆっくりと目を開け、自分が石壁にもたれたまま眠っていたことに気づいた。首の右側が強張っている。背中は石の冷たさを吸って芯まで冷えていた。宮廷の寝台とは比べるべくもない。だが不思議と、ここ数年で一番深く眠れた気がする。
身体を起こすと、あちこちの関節が小さな音を立てた。膝、腰、肩。六十年の歳月は骨の一本一本に刻まれている。若い頃なら野営など何でもなかったが、今の身体は正直だった。杖を支えに立ち上がるまでに、息をふたつ余分に使う。
「さて」
崩れた屋根を見上げた。朝日が穴からまっすぐ差し込んで、土間の床に光の四角を落としている。夜露が屋内まで染みた痕跡があり、壁の一部が黒ずんでいた。放っておけば、次の雨で土台ごと傷む。
鞄から干した薬草の束を取り出し、一本を折って口に含んだ。苦い。だが頭が冴える。宮廷にいた頃は薬草茶として淹れていたものだが、茶器などここにはない。野趣があってこれはこれで悪くなかった。
まず、屋根だ。
ガルディアスは杖を掲げ、崩れた石材のひとつに意識を向けた。重力操作の基礎魔法。宮廷では巨大な城門の修繕に使っていた術式を、掌に収まる程度の石ひとつに使う。大袈裟きわまりないが、老いた身体で屋根に登るよりはずっと安全だった。
石がふわりと浮き上がる。
六十年間、この力で持ち上げてきたものを思う。結界石、城壁の瓦礫、戦場に落ちた味方の盾。どれも重く、どれも急を要した。今持ち上げているのは、自分が雨に濡れないためだけの、たったひとつの石だ。
その軽さが、胸の奥でじんわりと温かかった。
石を屋根の穴に嵌め、接合の術式で固定する。次の石、また次の石。単純な作業の繰り返しだったが、ひとつ塞ぐごとに室内に差し込む光の角度が変わり、影の形が変わる。自分の手で——自分のための場所を作っている。その実感が、石を運ぶたびに少しずつ積み上がっていった。
屋根の修繕を終える頃には、日が高くなっていた。額に浮いた汗を袖で拭う。魔力の消耗はごくわずかだが、身体のほうが先に音を上げる。足腰の疲れが膝の裏に溜まって、しゃがむのが億劫だった。若い頃なら、この程度の作業は準備運動にもならなかっただろう。
次は井戸だ。
裏手に回ると、石組みの井戸がひび割れたまま佇んでいた。覗き込む。暗い。水面の気配はない。だが完全に枯れているわけでもなさそうだった。ガルディアスは杖の先を井戸の縁に当て、探査の術式を流し込んだ。
地下の水脈が、ぼんやりと意識の中に浮かび上がる。深い。だが、ある。南東に向かって細い流れが通っており、井戸の底からわずか三歩分ほど逸れた位置を走っていた。長い年月のうちに水脈が移動したのだろう。井戸を掘った人間は、もういない。水も、その人間を追うように離れていった。
「ずれているだけか。ならば導けばいい」
水脈誘導。戦時中、包囲された砦に水を引くために使った術式だ。あのときは三千人の兵の命がかかっていた。今は自分ひとりが水を飲むためだけに使う。贅沢といえば贅沢だが、咎める者は誰もいない。
杖を地面に突き立て、術式を紡ぐ。地面の下で、何かがゆっくりと向きを変える感覚があった。焦らず、力まず、水が自然に流れたがる方向を見極めて、ほんの少しだけ背中を押す。強引に曲げれば地盤に無理がかかる。水は水の理屈で動かすのが、結局はいちばん確実だった。
しばらくして、井戸の底からかすかな音が上がってきた。水が石を叩く音。ガルディアスは再び井戸を覗き込んだ。暗がりの奥で、わずかに光を弾くものが見える。まだ細い流れだが、明日にはもう少し太くなるだろう。
「よし」
声に出すと、それだけのことが妙に嬉しかった。宮廷で結界を張り終えたときは、安堵はあっても喜びはなかった。次の仕事がすぐに控えていたからだ。だが今は、井戸から水が出た、それだけのことを誰に報告する必要もなく、ただ自分のために喜んでいい。
昼を過ぎて、ガルディアスは小屋の周囲を歩いた。南側には雑草に埋もれた小さな空き地があり、石垣の残骸からして、かつては菜園か何かだったらしい。北東の方角——丘を越えた向こうに、朝うっすらと見えた集落がある。煙が細く立ち上っていた。十数軒の家々が寄り添うように建つ、小さな村だ。
村の名は知らない。だが、地図を頼りにここまで来た以上、あれがルーフェンだろう。
ガルディアスはしばらくその煙を眺め、それから視線を手元に戻した。今は関わるつもりはなかった。自分が欲しいのは静けさだ。人の営みは嫌いではないが、今はまだ、宮廷という巨大な人間関係の残響が身体に染みついている。この静寂に慣れるまでは、もう少し時間がいる。
午後の残りを雑草の除去に費やし、日が傾き始めた頃にはすっかり汗まみれになっていた。魔法で一掃することもできたが、あえて手で抜いた。土に触れるたびに指先から伝わるものがあった。地面の温度、湿り気、根の張り方。そうした些細な情報が、かつて戦場で地形を読んだときとは全く違う穏やかさで頭に入ってくる。
日が暮れる前に、ガルディアスは裏手の荒れ地に足を向けた。
昨夜、ここに立ったとき、地面の下にかすかな流れを感じた。あれが気になっていた。小屋の修繕や井戸のことで後回しにしていたが、身体が覚えていた。宮廷魔術師として六十年、大地の脈動を読むことは呼吸と同じくらい当たり前の感覚だった。
荒れ地に膝をつく。両手で土を掬い、掌の中でゆっくりと崩した。乾いている。赤茶けた色は鉄分を含んだ痩せた土の証拠だが、それだけではない。指先に伝わる微かな振動——地脈の残滓。かつてこの土地にはもっと豊かな流れがあったはずだ。
目を閉じ、意識を地中に沈める。探査の術式よりも繊細な、純粋な知覚の拡張。宮廷時代、これで封印の綻びを探し、魔王の結界の構造を読み解いた。同じ力で今、土の下を覗いている。
見えた。
地脈が、枯れかけていた。完全に途絶えてはいない。だが本来この土地を潤すはずの地脈の流れが、どこかで細く絞られ、大地に行き届いていない。根を断たれた木がゆっくり枯れるように、この土地は長い時間をかけて力を失いつつあった。荒れ地が荒れ地である理由。あの村の周囲にも、同じ影響が及んでいるはずだった。
ガルディアスは目を開け、掌の土を見つめた。
赤茶けた、乾いた、痩せた土。だが死んではいない。地脈がまだ細くでも流れている以上、これは眠っているだけだ。
「……面白いな」
呟いて、すぐに自分の声に苦笑した。面白い。宮廷魔術師の職業病だ。枯れかけた地脈を見て、まず浮かぶのは心配でも諦めでもなく、知的な好奇心。六十年の習慣は、辞表一枚で消えるものではないらしい。
掌の土をゆっくりと地面に戻した。指先に残った土の感触を確かめるように、親指と人差し指をこすり合わせる。
別に、何かをするつもりはない。ただの隠居だ。畑を耕すにしても自分が食べる分があれば十分で、荒れ地をどうこうする義理はない。
だが——地脈の構造が頭の中に残っている。どこで流れが細くなっているか。どう手を入れれば通りがよくなるか。六十年の経験が、問われてもいないのに答えを組み立て始めていた。
立ち上がると、膝がまた鳴った。空を見上げる。夕焼けが荒れ地を昨日と同じ赤に染めている。だが今日の赤は、昨日よりも少しだけ近い色に見えた。一日この土地で過ごしただけで、景色の見え方が変わっている。
石小屋に戻り、修繕した屋根の下で初めての夜を過ごす。雨露を凌げるだけで、これほど安心するものかと思う。井戸の底で水が石を叩く音が、微かに聞こえていた。
目を閉じても、あの地脈の流れが瞼の裏にちらついた。枯れかけた、それでもまだ息をしている大地の脈動。自分のための魔法を使った一日の終わりに、職業的な好奇心だけが、妙に目を冴えさせていた。