第3話
第3話
闇の奥の光点が、動いた。
石が砕ける音と同時に、巨大な影が通路を塞いだ。セレナの杖の光が照らし出したのは、石で構成された四足獣——灰色の岩塊が獣の形を取り、眼窩に赤い魔力光を宿している。石像型ガーディアン。通路の守護者だ。地面を踏みしめるたびに床石が軋み、天井から細かい砂が降ってくる。腐った卵のような魔力残渣の匂いが、狭い通路を満たした。
カイの鑑定スキルが即座に数値を弾く。推定脅威度、A上位。通常なら「黒鉄の牙」で対処できる相手だ。だが今、ヴェルドの大盾は溶けて使い物にならない。マルクは左腕の火傷で戦闘不能。歯を食いしばり壁にもたれる彼の額には脂汗が浮き、焼けた肉の臭いがまだ微かに漂っていた。セレナの魔力も防御魔法で大幅に消耗している。杖を握る両手が小刻みに震え、光の輪郭が不安定に揺らいでいる。まともに戦えるのはガルドだけだった。
石獣が前脚を振り上げた。
「散れッ!」
ガルドが大剣を横薙ぎに振るう。刃が石獣の前脚に激突し、火花が散った。金属と�ite石がぶつかる耳障りな高音が通路に反響し、カイの鼓膜を叩いた。だが石の表面に傷がついただけで、致命打には程遠い。石獣は怯むことなく突進し、通路の壁を削りながらパーティに迫る。砕けた壁片がカイの頬をかすめ、熱い線が一筋走った。
カイは壁面に手を当てた。碑文を探す。この通路にも何か書かれているはずだ。指先が冷たい石を滑り、鑑定スキルが壁の奥を透視する。背後でガルドの二撃目が弾かれる鈍い音がした。時間がない。石の継ぎ目を一つずつ辿る指先に、かすかな凹凸が引っかかった。
あった。
『守護者ハ主ノ言葉ニ従ウ。命ジヨ、"伏セ"ト』
カイは碑文の意味を咀嚼する余裕もなく、声を張り上げた。
「"伏セ"!」
古代語の発音が通路に響いた。石獣の動きが止まった。赤い光点が明滅し、前脚が床に着く。巨体がゆっくりと沈み、腹を地面につけた。犬が主人の前で伏せるように。床が一度だけ大きく振動し、それきり静寂が訪れた。
沈黙が降りた。
ガルドが大剣を構えたまま、石獣とカイを交互に見た。ヴェルドが口を開きかけ、閉じた。セレナが息を呑む音だけが、狭い通路に小さく反響した。
「……今の、何だ」
ガルドの声は低かった。声色に驚きはなかった。あるのは、自分の理解を超えた事象への苛立ちだけだった。
「碑文に書いてあった。この守護者は特定の古代語に従う」
「お前が命令したら止まった、そう言いたいのか」
カイは答えなかった。説明しても意味がないことは、五年間で嫌というほど学んでいる。ガルドの目の奥に、感謝ではなく警戒が宿っているのが見えた。功績ではなく脅威。いつもそうだ。
「とにかく撤退だ。マルクの腕を治療しないと壊死する」
それだけ告げて、カイは壁面の碑文を読み、出口への経路を探し始めた。石獣は伏せたまま動かない。その横を、パーティは無言で通り過ぎた。石獣の巨体が放つ冷気が、すれ違いざまにカイの右半身を撫でた。伏せてなお、肩の高さはカイの胸に届いていた。
隠し通路は迷宮の外縁部に繋がっていた。碑文の指示に従い、三度の分岐を正確に選び、一つの罠を解除し、四十分後にパーティは灰燼の回廊の入口に戻った。全行程、カイが先頭を歩いた。ガルドは何も言わなかった。何も言わないことが、この男なりの屈辱の表現だとカイは知っていた。
王都に戻ったのは夕刻だった。西の空が赤黒く焼け、城壁の影が石畳に長く伸びていた。マルクは治療院に直行した。火傷は腕の表面だけでなく、筋繊維の一部まで達していた。完治まで二ヶ月。冒険者としての復帰には、さらにリハビリが要る。
ギルドの酒場は、いつも通りの喧騒に包まれていた。安酒の酸っぱい匂いと、焼いた肉の煙が入り混じる空気。革鎧がぶつかる音、笑い声、杯を打ち合わせる乾いた音。
ガルドが酒場の中央——普段の奥の円卓ではなく、全員の目に入る場所に立った。その時点で、カイは察していた。何が起きるか。五年間の蓄積が、どういう形で清算されるか。腹の底が冷えた。覚悟していたはずの瞬間が、いざ来ると呼吸が一拍だけ止まった。
「聞いてくれ」
ガルドの声が酒場を制した。冒険者たちの視線が集まる。ガルドは大剣を壁に立てかけ、腕を組んだ。
「今日、『黒鉄の牙』は灰燼の回廊で壊滅しかけた。原因は——鑑定士の誤鑑定だ」
カイは入口近くの柱に背を預けていた。表情は変えなかった。柱の木目の節に背骨が当たり、鈍い痛みがあった。その痛みだけが、今この場に自分が立っている実感を繋ぎ止めていた。
「うちの鑑定士カイは、安全な正面通路を"火炎罠がある"と鑑定し、存在しない隠し通路を"こちらが正規ルートだ"と主張した。俺は鑑定を信じて正面を進んだが、罠は鑑定通りには発動せず、予測不能な形で暴走した。マルクが重傷を負った」
嘘だ。全てが逆だ。カイは正面通路の危険を警告した。ガルドがそれを無視した。隠し通路は実在し、カイがそれを開いたからこそ全員が生き延びた。
だが、カイは口を開かなかった。反論しても無駄だと知っていたからではない。この場にいる全員が、ガルドの言葉を信じると分かっていたからだ。Aランクパーティのリーダーの証言と、記録に残らない鑑定士の反論。どちらが通るかは、最初から決まっている。
「カイ」
ガルドがカイに向き直った。
「お前の鑑定は狂っている。今日それが証明された。仲間を危険に晒す鑑定士は必要ない。——今日付で、『黒鉄の牙』から除名する」
酒場が静まり返った。数秒の沈黙の後、ざわめきが広がる。「鑑定ミスで壊滅寸前か」「Aランクでそれはまずいだろ」「前から噂はあったよな、あの鑑定士」。声は小さいが、カイの耳にはすべて届いていた。一つ一つが、よく研がれた小刀のように正確に刺さった。
カイはヴェルドを見た。盾役は椅子に深く座り、手元の杯を見つめていた。視線が合いそうになった瞬間、ヴェルドは杯を口に運んだ。喉仏が動く。目は杯の底に沈めたままだった。
セレナを見た。彼女は唇を強く噛み、テーブルの木目を指でなぞっていた。指先が白くなるほど力が入っている。だが顔は上げない。声は出さない。
五年間、ずっとこうだった。庇う言葉は、いつも途中で止まった。今度は始まりすらしなかった。
カイは柱から背を離した。
「分かった」
それだけ言って、酒場の扉に向かった。背中にガルドの追い打ちが飛んできた。
「最初から分かってたんだよ。お前がいなくても、俺たちは強い」
カイは足を止めなかった。扉を押し開け、夜の通りに出た。背後で扉が閉まり、酒場の喧騒が遠くなる。春先の夜風が首筋に冷たかった。見上げた空は曇っていて、月は見えない。
五年だ。五年間、「何も起きなかったこと」を成果として差し出し続けた。回避された死を数え、記録に残らない安全を積み上げてきた。それが今日、「狂った鑑定」という一言で消された。消されたのではない、と思い直す。最初から、誰の目にも映っていなかったのだ。存在しない功績は、消すまでもない。
怒りはあった。だが五年かけて沈殿した怒りは、もう熱くはない。冷たく、重く、腹の底に沈んでいる。
宿に向かって歩き始めたとき、背後で酒場の扉が薄く開き、声が漏れた。
「——記録と辻褄が合わない」
ギルド受付のリーネの声だった。誰かに向けて言ったのか、独り言だったのか。扉はすぐに閉まり、それ以上は聞こえなかった。
カイは立ち止まらなかった。石畳を踏む靴音だけが、王都の夜道に規則正しく響いていた。
宿の部屋に戻り、荷物を見渡した。革の鞄一つに収まる程度の私物。大した量ではない。五年の歳月の割に、何も残っていなかった。安宿の壁は薄く、隣室からくぐもった笑い声が聞こえる。窓枠の隙間から入る夜風が、蝋燭の炎を傾けた。
机の引き出しから、一枚の地図を取り出す。灰燼の回廊の調査中に見つけた、封鎖区域の資料に挟まっていた古い地図。羊皮紙の端は茶色く変色し、折り目に沿って繊維がほつれかけている。王都から東に三日。いくつもの赤い×印で封鎖を示された区域の中心に、一つだけ名前が記されている。
『始原の書庫』。
誰も攻略できず、百年以上封鎖されたままの禁忌迷宮。入口を覆い尽くす碑文は、いかなる学者にも解読できなかったという。
カイは地図を畳み、鞄に入れた。手が震えていないことに気づいた。五年間で初めて、指先が完全に静かだった。
——あの碑文が、俺には読めるかもしれない。
窓の外で、風向きが変わった。曇天の隙間から一瞬だけ月光が差し、机の上の地図の折り目を白く照らした。その光はすぐに消えたが、カイの目には地図に記された文字の残像がはっきりと焼きついていた。