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鑑定士追放、迷宮解読者への覚醒

第1話 第1話

第1話

第1話

「カイ、鑑定まだか。いつまで待たせる気だ」

ガルドの声が迷宮の石壁に反響した。低く、苛立ちを隠そうともしない声だった。湿った空気が声を歪め、まるで四方から責められているような圧迫感がある。Aランクパーティ「黒鉄の牙」のリーダーは、血の滴る大剣を肩に担いだまま振り返りもしない。大剣から落ちた血が石畳に小さな染みを作り、鉄錆と獣脂の混じった臭いが通路に漂っていた。

カイは壁面に手を当て、目を閉じていた。掌に伝わる石の冷たさが、指先から腕へと這い上がってくる。鑑定スキルが石材の組成、経年劣化、微細な魔力残留を数値化していく。花崗岩と石灰岩の混合層。築造からおよそ八百年。魔力残留は基準値以下。この通路は安全だ。罠はない。ただ——壁の奥に、もう一つ何かが視える。文字のようなもの。意味を持った配列。古代の碑文の断片が、鑑定情報の裏側にちらついている。ノイズのように明滅し、焦点を合わせようとすると逃げるように薄れる。

「問題ない。罠は解除済みだ」

カイはそれだけ告げた。碑文のことは言わない。以前、一度だけ報告したことがある。「鑑定中に文字が視える」と。ガルドは鼻で笑い、「鑑定スキルの副作用だろ。余計なことを気にするな」で終わった。あの時の乾いた笑い声を、カイは今でも正確に覚えている。

「遅えんだよ。ヴェルドが前衛で抑えてる間に終わらせろ」

盾役のヴェルドが苦笑する。鎧の下の分厚い肩を竦め、大盾を地面に立てて柄に顎を乗せた。「まあそう急かすなよ、ガルド。カイの鑑定があるから俺たちは罠知らずなんだ」

「罠を避けるのは当たり前だ。それは戦果じゃねえ」

ガルドの言葉は冷たかった。事実、ギルドの戦闘記録にカイの名前が載ることはほとんどない。魔物を斬ったわけでもない。魔法で薙ぎ払ったわけでもない。鑑定士の仕事は「何も起きなかったこと」が成果であり、それは記録に残らない。誰も、回避された死を数えたりはしない。

五年間、ずっとそうだった。

報酬配分の紙がテーブルに置かれるたび、カイの取り分は最下位だった。ガルドが四割。前衛のヴェルドと魔法士のセレナが二割ずつ。残りの二割をカイと斥候のマルクで分ける。実質一割。Aランクパーティの鑑定士としては、ありえない低さだった。他のAランクパーティでは鑑定士の取り分は最低でも一割五分、高いところでは二割を超える。カイはそれを知っている。知っていて、何も言わない。

「文句があるなら自分で魔物を倒してみろ」

それがガルドの常套句だった。

王都ギルドの酒場は、夕刻になると冒険者で埋まる。肉の焼ける匂いと安酒の酸味が混じり合い、革鎧と汗の臭いがその上に重なる。喧騒の中に剣戟の自慢話と笑い声が飛び交い、奥の暖炉では薪が爆ぜて橙色の火花を散らしていた。「黒鉄の牙」の定位置は奥の円卓。ガルドが中央に座り、ヴェルドとセレナが両脇を固める。カイの席は端だった。いつも端だ。壁際の、暖炉の光が届かない位置。

「次の依頼、Aランク迷宮の攻略が来てる。『灰燼の回廊』だ」

ガルドが羊皮紙を広げた。迷宮の概略図。インクの褪せた線が複雑に交差し、深層に近づくほど白紙の領域が増えている。カイは身を乗り出して図面を確認する。

「灰燼の回廊か。未踏区画が深層に残ってる。過去三パーティが撤退してるな」

「知ってる。だから報酬がいい」ガルドはエールを煽った。泡が顎髭を伝い、テーブルに雫が落ちる。「カイ、お前は罠の処理だけやれ。戦闘判断は俺がする。余計な口は出すな」

カイは黙って頷いた。五年、同じやり取りの繰り返しだ。反論する気力は、とうの昔に擦り減っている。

セレナが小声で言った。声を落としているのは、ガルドに聞こえないようにするためだ。「カイ、今日の鑑定は助かったわ。あの通路、私の探知魔法じゃ引っかからなかった」

「ああ。気にするな」

「気にするなって——」

セレナが何か続けようとしたが、ガルドの視線を受けて口を閉じた。唇を噛み、エールの杯に目を落とす。この五年間で、カイは学んでいた。庇う言葉は途中で止まる。いつもそうだ。セレナが悪いのではない。このパーティではガルドの機嫌が全てであり、それに逆らう余力は誰にもなかった。

宿に戻り、装備の手入れをしながら今日の鑑定を振り返る。狭い個室の木机に革の手入れ具を広げ、油布で短剣の刃を拭く。単調な作業の中で、思考だけが迷宮の壁面へと引き戻される。壁面に手を当てたとき、情報の奥に視えた文字列。あれは何だったのか。

鑑定スキルを起動する。手元の短剣に意識を向けると、素材、製法、強度、付与魔法——通常の情報が整然と並ぶ。だがその奥、情報層のさらに深いところに、かすかな文字の輪郭が浮かんでいた。淡い燐光のように明滅し、意識を集中すると輪郭がわずかに鮮明になる——が、意味は掴めない。

読めない。いや、読めそうで読めない。意味を持った文字列だという確信だけがある。

古代文字だ。

カイは過去の鑑定記録を思い返した。最初に気づいたのは二年前。Bランク迷宮の扉に刻まれた装飾文様を鑑定したとき、装飾ではなく文章だと直感した。指先が触れた瞬間、鑑定情報の裏側に一文字だけ——たった一文字だけ、見慣れない字形が浮かんだのだ。ギルドの書庫で調べたが、該当する言語体系は見つからなかった。消滅した古代文明の遺産——それ以上のことは誰にもわからない。書庫の司書は首を傾げ、「記録にない文字ですね」と言うだけだった。

それから、視える頻度が増えた。迷宮の壁面、遺跡の石板、古い装備の銘。断片的な文字が鑑定情報の裏に重なるように現れる。最初は一文字、二文字。最近では短い文節が視えることもある。まるで鑑定スキルそのものが変質しているかのように、視える層が一段、また一段と深くなっていく感覚があった。

だが読めない。意味が取れそうで取れない。まるで水面の下にある文字を、波越しに見ているような感覚だった。指先を伸ばせば届きそうなのに、水面が揺れて文字が歪む。その繰り返しだ。

カイは短剣を鞘に収め、窓の外を見た。王都の夜空に月が出ている。白い光が石造りの街並みを冷たく照らし、遠くで酔った冒険者の歌声が聞こえた。

——俺の鑑定スキルは、本当にただの鑑定なのか。

その疑問を、口にできる相手はいない。ガルドは「余計なことを気にするな」と切り捨てる。ヴェルドは悪い男ではないが、鑑定の細部には興味がない。セレナは気遣ってくれるが、ガルドの前では何も言えない。斥候のマルクに至っては、カイと目を合わせることすら避けている。ガルドの不興を買うことを恐れているのだ。パーティ内でカイに親しくすること自体が、一種のリスクになっていた。

五年だ。五年間、このパーティで働いてきた。装備の状態を見極め、迷宮の構造を解析し、罠を無力化してきた。その間、「黒鉄の牙」は一度も罠による被害を出していない。一度もだ。落とし穴も、毒矢も、魔法陣の爆発も——カイが事前に全て潰してきた。他のAランクパーティが罠で負傷者を出すたびに、その報告書を読みながら「うちでは起きない」と思った。起きないのが当たり前になっていることの異常さに、誰も気づかない。

それでもカイの評価は「お荷物」だった。

ギルドの受付嬢リーネが、先日こう言っていた。「カイさんの鑑定記録、精度が異常に高いんですよ。ギルド全体でもトップクラスです」。彼女は記録台帳を指で叩きながら、真剣な表情でそう告げた。カイは苦笑して返した。「記録に残らない成果はないのと同じだ」

リーネは何か言いたげだったが、後ろに並んでいた冒険者に遮られた。「また来ます」と言い残して去るカイの背中を、彼女がしばらく見つめていたことを、カイは知らない。

翌日。「黒鉄の牙」はAランク迷宮「灰燼の回廊」に向けた準備を始めた。カイは迷宮の過去記録を洗い、既知の罠パターンと構造データを整理する。三パーティが撤退した未踏区画。記録によれば、深層の壁面には解読不能の碑文が大量に刻まれているという。撤退理由は戦力不足や魔物の強さではなく、「構造が不安定」「方角を見失う」といった曖昧な記述が目立つ。まるで迷宮そのものが侵入者を拒んでいるかのようだった。

解読不能の碑文。

カイの指が止まった。羊皮紙の上に置いた指先が、微かに震えていた。鑑定中に視える、あの古代文字と同じものか。

胸の奥で何かが脈打った。不安ではない。期待に近い。あの碑文を直接この目で見れば——視えるだけでなく、読めるかもしれない。二年間ずっと水面越しに眺めていた文字を、ようやく直接手に取れるかもしれない。

だがすぐに思い直す。余計なことを考えるな。仕事は罠の処理だ。ガルドの指示に従い、安全を確保する。それだけでいい。それだけが、自分に許された役割だ。五年間そうやって生きてきた。今さら何を期待する。

準備を終えたカイは資料を閉じ、宿の窓から灰色の空を見上げた。雲が低く垂れ込め、王都の尖塔が霞んで見える。灰燼の回廊。あの碑文の前に立ったとき、自分の中で何かが変わる気がしてならなかった。

——この違和感は、何だ。

答えは、まだ視えない。

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