第2話
第2話
天啓二十三年、晩冬。朔北郡府、暁前。
煌が目を覚ましたとき、背の鞭痕は薄絹一枚を貼り付けたように熱を持っていた。寝台の藁が血と膿でかたまり、寝返りひとつ打つたびに、ぱきりと藁の繊維が剥がれる音がする。痛みよりも先に、薬の匂いが鼻をついた。乾いた艾と、酸い酒。程碩が夜どおし煮詰めて貼り直した湿布の匂いだった。
「将軍、まだ起きるな」
枕辺の燭が揺れる。程碩は外套のまま、卓に肘をついて舟を漕いでいた。煌は黙って身を起こし、右の足から床へ降ろした。寒気が膝の裏を駆け上り、肋の間で凍ってから、ようやく腹の底に落ちた。息を吸うと、肺の縁が一寸ずつ削られるような鈍痛が走り、煌は奥歯を一度噛みしめてから、ゆっくりと吐いた。
(——一夜明けたか)
板間に並べた帳簿は、煌が眠るあいだも、燭の油を吸って静かに墨を匂わせていた。朱印の縁が、油の熱で微かにふやけ、紙の繊維のなかへ滲み込んでいく。煌はその一冊を、左手で抑えて卓上へ引き寄せた。湿布の貼り替えで指先まで艾油の匂いが移り、爪の隙間に黒い線を一本、引いている。
朝の訓練に煌が出ぬという日は、過去十日でなかった。だが本日は出られぬ。それは煌の咎ではなく、笞百の咎だった。代わりに号令を渡される程碩は、副官として無言で首肯した。
「伍堪を、この一刻のうちに、ここへ呼べ」
煌は卓に向かい直し、墨を磨り始めた。硯の縁に、艾油でくろずんだ指の影が落ち、墨は朝の冷気のなかで、鈍く粘りを帯びた。
煌が広げたのは、過去三年分の徴税帳簿である。表紙の埃を払い、頁をめくる指先が、紙の冷たさに引きつる。郡丞・伍堪の朱印が、年ごとに滲みかたを変えていた。最初の二年は朱の縁が鋭く、三年目から水気が回って輪郭がぼやけている。朱の沈み方は、印を押した者の腕の重さを正直に映す。気の重い手は朱を厚く押し、指の腹に汗を持つ手は朱の縁を泣かせる——煌は十六で兵を率いて以来、印影で人の心を読んできた。
(——印の手が変わっている)
煌は灯を寄せ、「秋糧納入」の項を縦に追った。北辺六県の納入額。郡府が中央へ上送した実額。差は、三年で千五百石——
足音が、廊下を踏みしめてきた。郡丞・伍堪は、五十がらみの肥えた男である。狐裘の襟を半開きにしたまま、煌の前に立った。前夜の宴の酒がまだ抜けぬらしく、目の縁が黒い。狐裘の毛先には、酒の雫が一粒、まだ凍らずにぶら下がっていた。
「将軍、急の召し、何の御用にござりまする」
伍堪は型通りに膝を折ろうとした。煌は手で制した。
「立ったまま聞け。三年前、雲麓県は粟二百石を納めた。お前の朱は、上送の段に百二十と書かれている。残り八十、いずこへ」
「は——それは——」
「秋寧県、楡関県、磯陽の駅亭——」
煌は朱で印した頁を、卓のうえに並べていく。一枚、二枚、五枚。紙の擦れる音が、伍堪の喉を一段ずつ絞っていく。伍堪の額に、汗がにじみ始めた。狐裘の襟が、ぴくりと震える。煌は声を上げず、ただ並べる枚数だけを増やしていった。七枚、八枚——卓の端に紙が届いたところで、伍堪の口の奥から、細い呻きが洩れた。
「将軍、これは——前任の郡守どのが——」
「前任は二年前に病没した。三年目の朱は、お前の手だ」
煌は声を低めもしなかった。ただ、墨を磨る音だけが、無言の背後で続いていた。墨は、この男の言い逃れの数だけ、硯のなかで黒く深くなっていく。
「中央に書送するか、ここで処すか、どちらが軽い」
伍堪は床板に膝を落とした。狐裘が肩から滑り、肥えた首筋に、青い血脈が一筋、立った。
「処分を、お任せ申しあげまする……何卒、何卒、命だけは……」
煌は朱を一筆、頁の余白に書き添えた。朱が紙に染みていく速さで、伍堪の命運は、もう煌の手のうちに移っていた。
「収公した千五百石、明朝までに目録を作れ。八割を兵糧に回す。残り二割は、北辺六県へ戻せ。お前は郡府に留まる。逃げれば、磯陽の関で首が落ちる」
伍堪は震えながら、額を板に擦り付けた。狐裘の裾が、煌の朱印した頁の角を、わずかに撫でた。
(——これで一冬、糧が伸びる)
煌は卓の端に置いた地図を、指の腹で押さえた。北狄の略奪痕は、地図の北西の隅、二箇所に偏ったままである。
その日の午、雪原の北辺から、流民が三家族、朔北の門にたどり着いた。
楡関の北、駱駝坡の手前で、北狄の一隊に襲われたという。煌は門楼に立ち、流民の頭である老人に話を聞いた。老人の頬は霜焼けで赤黒く割れ、息を吐くたびに、白い湯気が髭の先で凍っていた。袖口に、北狄が落としたらしい矢柄が一本、布に巻いてあった。煌はそれを受け取り、矢羽の根を撫でた。鵰の風切に、まだ霜の粒が残っている。指の腹で潰すと、ぴしり、と鋭い音を立てて折れた。
(——阿頭山系のものだ)
矢柄の節には、削りの粗い焼印が三つ並んでいる。煌は一つずつ指で押さえ、地図の上に視線を返した。焼印の深さは均一でなく、二つ目だけが浅い。鉄が冷えるのを待たず、急いで押した跡だ——煌は唇の端を、ごく僅かに引いた。
「程碩」
「は」
「やはり、二群ではない。一群だ」
副官は驚いて、矢柄に身を寄せた。
「一群、と」
「呼延赫連の麾下、孛吉部の印だ。先の二箇所の略奪痕は、同じ部族が二度通ったあとに過ぎぬ。冬の間、この一群だけが、谷の出口を二度三度往復している」
「なぜ、二度も」
「飢えているからだ。一度目で奪った麦が足りず、二度目に塩を取りにきた。三度目は、もう間もなくだ。だが——」
煌は地図に指を立てた。指先の腹が、阿頭山系の南麓を撫でる。
「呼延赫連は、剣を抜きには来ぬ。あの男は、麦のために南へ来る。本陣を割って略奪に出た部族を、本国で叱責せねばならぬほど、内が傾いている」
「将軍は、面識はおありで」
「ない。地図で見た。系譜で読んだ。それで充分だ」
程碩はしばらく黙ったあと、地図の隅に置かれた糧秣帳を指した。
「将軍。この糧で、五月までは保ちまする。だが、敵を見るより先に、中央が動きませぬか」
煌は微かに笑った。笑うと、背の鞭痕がまた一寸、熱を持って疼いた。
「動く。動かざるをえぬ。兄上の宴は、もう四夜目だ」
程碩の眉が、わずかに寄った。煌は門楼の手摺に手をあて、北の地平を眺めた。雪原の彼方、谷地の影に、何ひとつ動くものはない。だが、煌の眼には、その先に、麦袋を背負う痩せた騎影が、何百騎も連なって見えていた。痩せた馬の鼻息までもが、雪原の冷気を裂いて、煌の耳の奥に届いてくるようだった。
その日の夕、巴坎が煌の傷を見舞いに来た。粗末な木椀に、温めた酪を一杯、両手で捧げ持ち、入り口で長く膝をついた。
「将軍。某のために、笞百を……」
「お前のためではない。軍のためだ」
「されど——」
煌は若兵の頭をひと撫でして、口を閉じさせた。革手袋を外した素手は、墨と艾油でまだ黒く、けれども、雪を踏み続けた掌の節は、巴坎の頭髪の冷たさをそのまま受け止めた。
「お前の老母には、この朔北から、塩を二斗送ってやる。生きて、もう一度郷里の門をくぐれ。それまでは、この三十騎の数を、減らすな」
巴坎は声を殺して泣いた。地に伏した若兵の肩が、寒い廃倉のなかで、震え続けた。煌はその背をしばらく眺めてから、燭を消した。
千里南、天嶺府。
劉峻は、五夜目の宴を開いていた。卓上には三万の北狄討伐軍の絵図が、もはや常設の家具のごとく広げられている。父・劉淵は、初めて卓に身を乗り出した。
「峻、北狄の宿将——呼延赫連と申したか。あの男の所在は」
「父上、所在を知る要はありませぬ。三万を発すれば、虫けらのごとく踏み潰すまで」
劉淵は盃を置いた。何かを言いかけて、やめた。卓の端に、朔北からの第二報が置かれている。竹簡の表に「異状なし」と一行。だがその下に、別の墨で、小さく「徴税帳、調査中」と添え書きがあった。
劉淵の指が、その四文字の上で、わずかに止まった。
風が、北から南へ流れていく。朔北の燭は、まだ消えずに揺れていた。