第2話
第2話
広場の噴水前、ログインと同時に誰かの背中にぶつかった。
「あ、すみ──」 「ハルさんですよね!」
相手の方が先に振り返った。満面の笑み。タグは【リニアソリューション/カトレア】。聞き覚えのあるクラン名だ。効率厨界隈で中堅どころ、レベリング解説動画で再生数を稼いでいる連中。
視界左下で、カウンターが静かに進む。
【連続ログイン:1000日】
おや、と一瞬だけ思う。今朝は「999」のままだと思っていた。ログイン瞬間のカウントが、昨日の表示を一段遅れて追い抜いている。珍しい。珍しいが、今は、この満面の笑顔の方が、ずっと気になる。
「ごめんなさい、待ち伏せっぽくなっちゃって。掲示板からずっと探してて」
声の温度が、噴水から上がる水煙よりも二度だけ高い。訓練で押し上げた親しみの温度だ。掲示板で俺を探す、という動詞の組み合わせは、経験上、九割が罠だ。俺は肩をすくめて、笑わずに続きを待った。
「うちのクラン長から、ハルさんにぜひ会ってほしいって。ナギさん、知ってます?」 「wikiの辺境欄に『来るな』って書いてる人」 「さすが詳しい。ナギさん、ハルさんの千日のこと、すごく評価してるんです。逆張りで千日続けられるのは、むしろ才能だって」
才能、という単語の発音が、少しだけ速い。練習した言葉の典型的なリズムだ。
「……で、用件は?」 「うちのクラン、今ちょうど新人支援枠が空いてて。提案させてもらえませんか」
カトレアは歩調を合わせて、門の方向へ俺と並んだ。俺は止まらず歩き続ける。止まらない方が、向こうに喋らせやすい。歩く俺の横で、カトレアの草履の鳴らし方が、微妙に半拍遅れてついてくる。急いで並びたいが、並んだ後で追い抜きたくない、という足運び。門の衛兵NPCが、見慣れた角度で槍を担ぎ直す。石畳が終わり、土の感触に変わる。草履の底を通して、昨夜の雨の重みが、わずかに残っていた。
「支援装備、フルセットお貸しします。【鋼鉄の鎧+5】【風斬りの剣+3】、回復薬200本、バフ巻物30。一週間の同行狩りだけで、ぜんぶ無料」 「無料」 「ハルさんの取り分は、経験値100%、ドロップ折半」
──なるほど。手口が綺麗だ。手馴れた料理人の包丁さばきみたいに、工程の継ぎ目が、どこにも無い。ここまで継ぎ目が無い勧誘は、逆に聞き飽きた台本の証拠だ。
「一つだけ聞いていい?」 「なんでも」 「その貸出、システム上のレンタル契約?」 「いえ、トレード経由で一旦、所有権は移ります。そうしないと装備の性能制限解除が効かなくて」 「担保は?」 「信頼です」
胸の前で、両手を握って見せる。綺麗な仕草だった。綺麗すぎた。
俺は視線を、彼女の右手薬指に落とす。【誓約の翡翠】。指輪の上に、半透明のアイコンが一つ、重なっている。
(──見えるな、これ)
「契約破棄時ペナルティ免除」の刻印。個人販売所で出回っている改造アクセの印。公式には存在しないはずの効果。一週間後、彼女が約束を「忘れた」としても、罰金もカルマ減少も発動しない。当然、装備は戻ってこない。千日、雑草だけ抜いてきた男に、フル装備を貸し出す善意。そんなものが野良で歩いているわけがない。獣道に落ちている大金を拾う前に、まず紐の存在を疑う。それだけの話だ。
そしてこのアイコン、本来、相手側には不可視のはずだった。
なのに、俺には、はっきり見えている。なぜ見えているのか、今は考えない。見えている事実だけ、使う。
「カトレアさん」 「はい!」 「装備、要りません」
笑顔のまま、彼女の瞼が、二回瞬いた。想定外の台詞を受け取ったときの、処理ラグ。
「……報酬にご不満なら」 「不満じゃないです。要らないんです」 「でも、そのローブと木の枝じゃ、効率が」 「効率、求めてないので」
風が一度、強く吹いた。彼女の前髪が乱れて、笑顔の角度が、わずかに下に落ちた。戻るまで、一拍、時間がかかる。二度目の笑顔は、最初のより、固かった。
「……じゃあ、気が変わったら、フレンドに」 「はい、じゃあ」
会釈して、踵を返す。背中で、カトレアが耳元のボイチャに何か呟くのが、口の動きで読めた。「無理。次行く」。たぶん、そう読めた。
肩の力が抜ける。指先だけ、軽く震えている。怒りじゃない。もっと浅い、擦り傷みたいな痛み。そういう目で見られることには慣れたつもりでも、慣れた分だけ、薄い皮が一枚、毎回剥がれていく。
まあ、いい。森なら、勝手に肉が戻る。
辺境東森、いつもの切り株。装備を置く位置は、三年前から変わらない。折れた木の枝と初期ローブを並べ、しゃがみ込もうとした、その瞬間。
視線が、三十センチだけ、右に逸れた。
地面に、色の違う一点がある。
苔の剥げ跡。楕円形、差し渡し二十センチ弱。縁の苔が、ぎざぎざに千切れている。千切れ口が、まだ、白い。切断面が乾ききっていない。
昨日、俺はこの場所に、十時間近く居た。こんな跡、無かった。十時間というのは控えめな申告で、実際には昼の入力停止ペナルティを避けるための定期操作を差し引いても、視線は常にこの半径三メートルの地面にあった。その視線を、正確に外して剥がされている。
指で触れる。土の表面は、ひんやり冷たい。でも中央だけ、体温より一段低い程度に、温い。手袋も無しに直接触れているのに、触覚フィードバックの解像度が、普段より一段細かい気がする。粒子の一つ一つが、指紋の渦に引っかかる感触。つい、さっき、何か重たいものが、ここに据えられて、持ち上げられた──そういう温度の残り方。
周囲を見回す。雑草の倒れ方が、いつもと違う。俺が踏み固めた方向は、東西に走る獣道。だが、北北西から南南東へ、茎が二本だけ、斜めに倒れている。短い、しかし確かな、別ベクトルの通過痕。
(俺以外の、誰かが、ここに来た)
千日近くここに通って、他プレイヤーを見たのは三人だけ。全員、道に迷った初心者で、全員、苔を剥がす理由は無かった。
しかも、この楕円。形が、変だ。
靴底の模様も、爪痕も、獣毛の抜けも、一切ない。野ネズミやスライムが均一に剥がす理屈もない。重くて、平らで、でも温かい──まるで、何かが、ここにしゃがんでいた跡。俺と同じ姿勢で、俺の見ていた雑草を、俺の代わりに見ていた誰か。
こめかみの内側で、鼓動が一度、鈍く鳴る。
指先で、剥げ跡の縁をなぞる。千切れた苔の断面に触れる。ぴりっ、と、静電気のような痺れが、爪の先から肘まで走った。痺れの余韻が、肘の裏の関節で一度跳ねて、肩まで上ってから消える。感覚神経を一瞬だけ誰かが手で撫でた、そんな触り方。
ゲームの中で、静電気。聞いたことがない。
視界の右下に、小さなポップアップが立ち上がる。
【未解析の痕跡を発見しました】 【観察カウント:1/???】
観察カウント。そんなスキル、俺、持ってない。ステータスを開く。ALL 10、スキル欄、空欄のまま。閉じて、地面に視線を戻すと、剥げ跡の輪郭が、ごく薄く、青みがかって縁取られている。昨日までの森に、絶対に無かった色だ。スキル欄は空欄のまま、けれどポップアップは確かに視界に立ち上がっている。システムが嘘をついているのか、俺のクライアントが嘘をついているのか、あるいはその両方か。三つ目の選択肢──嘘をついていない、という可能性だけを、しばらく認めたくなかった。
しゃがんだまま、しばらく動けなかった。雑草を抜く千日の手順が、一瞬だけ、頭から抜け落ちる。次に何をするべきか、千日続けて、初めて、わからなくなった。
視界左下で、カウンターが、また静かに動く。
【連続ログイン:1000日 ──残り 00:03:47】
残り。日数じゃなく、時刻が表示されている。こんな仕様、公式のどこにも載っていない。
誰かが、俺のゲームだけ、時計の針を、ひっそり進めている。
明日、千と一日目の朝に、何が待っているのか。
俺は、剥げ跡の真ん中を、もう一度だけ、掌でなぞった。青い輪郭が、指先の下で、わずかに、脈を打った気がした。