第1話
第1話
「パーティ募集、今日も満員御礼ですねえ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、俺──ハルは掲示板を閉じた。VRMMO『アルカディア・オンライン』、ログインから三分。募集スレッドに投げた文面はこうだ。『辺境東森で草むしり。装備貸与不要、回復薬こちらで用意、報酬折半』。五分で返信ゼロ。十分で既読だけ付く。三十分後には誰かが引用して「縛りキッズまた出没w」と添えてくれる。そこまでがテンプレ。
視界の左下でカウンターが、かちり、と進む。
【連続ログイン:998日】
明日で千日だ。知ってる。誰も興味ない。俺も興味ない──と、言いたいところだけど、まあ、ちょっとは意識してる。
広場の噴水前を横切ると、ピカピカの白銀プレートを着た新人PTが、効率厨クランの勧誘員にレベリングプランを説明されていた。「最速で40までは本街道の北ルート固定です、脇道には絶対逸れないで」「寄り道したほうが強くなりませんか?」「強さと楽しさを混同しないでください。強さは、手順です」。
なるほど。手順ね。
俺は笑いを噛み殺して、門の向こうへ歩き出した。すれ違いざま、勧誘員の目がちらりと俺の装備欄を舐めた。折れた木の枝と初期ローブ。その視線は、値踏みというより、ゴミ箱の中身をちょっとだけ覗いたときの、あの無関心に近い嫌悪に寄っていた。鼻で笑う音が、耳元のボイチャ越しに、わざとらしく拾える音量で鳴った。別に、気にしない。気にしない、と自分に言い聞かせる分だけは、たぶん、まだちょっと気にしている。
ワールドマップの東端、辺境の森。ワープポイントは無い。徒歩四十分。道中のモンスターは【腐り始めのスライム】と【疲れた野ネズミ】だけ。得られる経験値は、1ログイン分でポーション一本にも届かない。攻略wikiの辺境欄には、もう半年前から『更新なし』とだけ書かれている。
森の匂いがした。
嘘だ。VRMMOに匂いなんかない。ただ、フルダイブの視覚と触覚が「木漏れ日」を合成した瞬間、脳が勝手に匂いまでおまけしてくれる。効率厨はこれを「脳のバグ」と呼ぶ。俺は「ボーナスステージ」と呼ぶ。どっちの呼び方が楽しいかで、たぶん、向いてるプレイが変わる。
森の手前の切り株に、装備を全部置く。
【初期支給ローブ】【折れた木の枝】──それだけ。ステータス画面を開く。ALL 10。ステ振り、ゼロ。所持品、回復薬ゼロ。バフ、ゼロ。友達、ゼロ……は、自分で言って、ちょっと胸が痛い。
しゃがんで、足元の雑草を掴む。指先に、繊維の、ちゃんとした抵抗がある。根元をこう、ゆっくり、ねじりながら引き抜くと、ぷちっ、と水気のある音がした。青い匂い──いや、青い匂い「っぽい脳内補完」が、鼻の奥をくすぐる。葉の裏の、微妙にざらついた産毛。根に絡んだ土の粒が、爪の隙間をこすっていく。軽い、でも確かな重みが、手のひらの真ん中にだけ残る。千日分の掌の皮が、この一本の重さを、ちゃんと知っている。
【雑草×1】を入手。経験値1。
「……よし」
声に出して、次の一本。さらにその次。リズムが、肩から肘、肘から手首へと降りてくる。吸って、引いて、置く。吸って、引いて、置く。呼吸と動作が、ほんの少しずつ、同じ周期にそろっていく感覚──これは、効率厨のスプレッドシートには絶対に載らないやつだ。
遠くでモブの足音。顔を上げずに、気配だけで位置を測る。左後方、七メートル、一体、疲れた野ネズミ。放置しても寄ってくるタイプじゃない。脚を引きずる音の間隔、呼吸らしきノイズの粗さ、それだけで種類が分かるくらいには、俺はここの住人に詳しい。向こうも、たぶん、俺のことを「いつもの雑草を抜く生き物」くらいに認識している。俺は手を止めない。
草むしりは、千日続けると気づくことがある。
まず、地面が喋る。ここは柔らかい、ここは根が深い、ここは昨日俺がしゃがんだ膝の跡。地面の記憶は、思ったより、細かい。雨が降った翌日は泥が指にまとわりつく、前日のプレイヤーの足跡が斜めに残っている、昨日は無かった小さな芽がぴょんと顔を出している──ログから消されたはずの時間が、地面の側にだけ、ちゃんと残っている。次に、腕がタイマーを覚える。三千本抜くと肩甲骨が軽く鳴る、五千本で手首が一度だけ痺れる、七千本を越えると視界がほんの少しクリアになる──これは、脳が「集中」のバフをかけ始める合図。数値には絶対出ない。ステータスにも乗らない。
でも、確かに、強くなっている。
……と、思いたいだけ、かもしれない。でも、思いたいだけの強さを、千日積み上げたら、それは本当の強さとどう違うんだろう。俺には、もう、その区別がつかない。つかないまま、指はまた次の一本へ伸びていく。
指先が土の冷たさを拾う。膝の裏に、さっき踏まれた小石の感触がまだ残っている。舌先が、さっき噛んだ頬の内側で、微かに鉄の味を感じる──フルダイブの痛覚はデフォルト30%。俺はわざと100%で回している。痛いほうが、生きてる感じがする。効率厨に言わせれば最悪の縛りだ。俺に言わせれば、最高の縛りだ。
視界の右上で通知が弾ける。フレンド申請:なし。パーティ招待:なし。今日のおすすめイベント:【新人限定・初回無料ガチャ】。俺は新人じゃないし、ガチャは引かない方が楽しい。理由は単純で、誰かが並べた確率の階段を登るのと、自分で一段ずつ積むのとじゃ、指の覚え方が違うから。
掲示板の通知が一件。タップすると、知らないIDが俺のスクショを上げていた。『縛りキッズ、今日も東森。ログイン時間の無駄遣い殿堂入り』。七十八いいね。コメント欄は、雑な煽りの見本市。
ただ一つだけ、ぽつんと真面目なレスが混ざっていた。
『でも、こいつ千日近く同じ場所で同じことやってるぞ。そろそろ何か起きてもおかしくなくないか?』
即座に別のIDが被せる。『起きないから縛りなんだよw』
俺はそっと掲示板を閉じて、次の一本を掴んだ。指先に残る土の冷たさだけが、今の俺の本当のステータスだ。
起きなくていい。 起きないからこそ、自分で勝手に始まる。それが、俺のゲームだ。
日が傾き始める頃、切り株の隣に腰を下ろして、水を飲むフリをした。飲めない。VRMMOに渇きのバフ管理はあるけど、俺は味覚のリアルタイム合成をオフにしている。飲んだ気になるだけ。それでも、喉元をひんやりした空気が通っていく感覚は、勝手に脳が作ってくれる。たぶん、これも「バグ」と呼ばれる側の体験だ。夕日が木々の隙間から斜めに差し込んで、俺の手の甲を、ほんの少しだけ橙色に染めた。その色の濃淡まで、俺はちゃんと覚えている。昨日の夕日は、もうちょっと赤かった。たまに風が吹いて、髪のもつれに指が引っかかる。そのぴりっとした痛みで、今日も俺がここに居ることを確認する。
ログアウト直前、恒例の儀式。 メニューを開き、カウンターを見る。
【連続ログイン:999日】
……ん?
数字が、変だ。
「999」の、右隣のスロット。普段なら何も無い場所。そこに、ごく薄く、桁がもう一つ浮かびかけている。最初は見間違いかと思った。瞬きをしても、視線を逸らしてから戻しても、その薄い影は消えない。むしろ、見つめるほど、ゆっくりと、にじむように濃くなる気配がある。表示バグ? アップデート予告? ──違う。バグなら点滅する。予告なら派手に光る。これは、どちらでもない。視界の端、ウィンドウの枠そのものが、ほんの一拍、水面みたいに撓んだ。
心臓が一度、はっきり跳ねる。
耳の奥で、自分の鼓動が、やけに遠く聞こえる。VRMMOの中では鼓動なんて再現されない。されないはずなのに、こめかみの内側で、誰かが小さく太鼓を打っている。画面の端がもう一度、小さく、しかし確かに歪む。歪んだ向こう側で、誰かが、俺を見ている気がした。視線の主は、この森の向こうでもなく、このゲームの中でもなく、もっと、ずっと遠いどこかから、ただまっすぐに、俺の手元の「1」を数えているようだった。
【連続ログイン:999日 ──明日、何かを解放可能】
ポップアップが一行だけ出て、すぐ消える。システムメッセージ履歴を開いても、もう残っていない。フレンドリスト、ログ、チャット──全部、いつも通り空っぽで、いつも通り静かで、いつも通り俺しかいない。いつも通りのはずなのに、今だけ、その「いつも通り」の表面に、ほんの一点だけ、違う色の水滴が落ちた気がした。
俺はその場に立ち尽くして、静かに、ふっ、と息を吐いた。
「……明日も、草むしりに来るしかないな」
千日目の朝に、何が起きるのか。 知っているのは、たぶん、この世界の誰でもない。