Novelis
← 目次

覆天策――灰燼より征く将軍の遺児

第2話 第2話

第2話

第2話

足が地を蹴った瞬間、思考は消えていた。

三年かけて封じた身体が、鎖を断ち切るように動いている。焔赫の意識が追いついたときには、もう群衆の壁を抜け、子供を抱えた護衛兵の背後三歩にまで迫っていた。

止まれ。止まれ。——止まらない。

護衛兵が気配を察して振り向く。その手が腰の刀に伸びるより先に、焔赫の掌底が兵士の肘の内側を打ち抜いていた。肘関節が外れる鈍い音。兵士は悲鳴を上げ、子供を取り落とす。焔赫は落ちかけた小さな体を片腕で受け止めながら、もう片方の手で兵士の胸を押し、地面に転がした。

速い。あまりに速い。群衆の誰もが、何が起きたのか理解できずに立ち尽くしていた。

もう一人の護衛兵が抜刀した。刃が鈍い光を引きながら横薙ぎに振るわれる。風を裂く音が鼓膜を叩いた。焔赫は子供を背に庇いながら半歩だけ下がり、刀が空を切った刹那に踏み込んだ。手刀が兵士の手首を打つ。刀が宙を舞い、砂利の上で乾いた音を立てた。返す腕で襟首を掴み、体勢を崩して地に伏せさせる。

二人。六呼吸。刃すら使わず、素手で制圧した。

残る騎兵二騎が馬上で刀を抜きかけたが、焔赫は動かなかった。動く必要がなかった。子供を背に庇い、倒した二人の兵士の間に立つその姿勢——それ自体が、踏み込めば次はお前だという宣言になっていた。

騎兵たちの手が止まる。焔赫の目を見たからだ。炭塵にまみれた顔の奥で、その瞳だけが異質な光を湛えていた。坑夫のものではなかった。戦場で人を斬ってきた者の、あるいは戦場で人を率いてきた者の、底の知れぬ静けさだった。

「——何をしている!」

馬上の徴税官が金切り声を上げた。「たかが坑夫風情が王朝の兵に手を上げるとは! 反逆罪だぞ、九族皆殺しになりたいか!」

焔赫は子供を抱えたまま、徴税官を見上げた。その声は、坑道の中で揉め事を仲裁した時と同じ静けさだった。

「勅令第七十二条は、成年の労役代替を定めたものだ。八つの子供には適用されない。条文を読み違えているのはそちらの方だろう」

徴税官の目が見開かれた。辺境の坑夫が勅令の条文番号を諳んじるなど、あり得るはずがない。

「き、貴様、何者——」

「丙七番。坑夫だ」

焔赫は子供を地面に下ろし、背を軽く叩いた。「父のところへ戻れ」

子供は泣きながら駆け出し、地面に伏したままの老坑夫にしがみついた。老人が震える腕で孫を抱きしめる。その光景から目を逸らし、焔赫は一歩退いた。

「護衛の負傷は軽い。肘は嵌め直せば動く。手首も折ってはいない」

それだけ言って、群衆の中に戻ろうとした。背を向けた瞬間。

「将軍府の型だ」

低い声が背中を刺した。

群衆の中から出たその声に、焔赫の足が凍りついた。振り向くと、壮年の男が目を見開いてこちらを見ている。片足を引きずっている——古傷だ。元は兵だったのかもしれない。

「間違いねえ。肘を抜いて、崩して、制する。あれは燎原将軍の直伝だ。軍にいた頃に一度だけ見たことがある」

ざわめきが波のように広がった。

「燎原将軍? あの、謀反で処刑された——」

「まさか、あの坑夫が……」

焔赫の背筋を冷たいものが這い上がる。三年かけて塗り固めた殻に、修復不能の亀裂が走った。心臓が耳の奥で鳴っている。指先が痺れていた。それが戦の後の高揚なのか、露見の恐怖なのか、自分でも区別がつかなかった。

「馬鹿な」焔赫は低く言った。「俺は坑夫だ。喧嘩の仕方など誰でも——」

「喧嘩であんな動きはしねえよ」

男の目は確信に満ちていた。周囲の坑夫たちの視線が変わっていく。恐怖、疑念、そして——かすかな期待。その期待が何より恐ろしかった。

徴税官は馬上から一連のやり取りを聞いていた。顔が蒼白から朱に変わる。

「燎原の残党だと……? これは重大な案件だ。王都に報告する」

負傷した護衛兵を引きずるように馬に乗せ、徴税官の一行は慌ただしく去っていった。去り際に徴税官が振り返り、焔赫を指差した。

「覚えていろ。次は兵ではなく軍が来る」

蹄の音が遠ざかり、土煙が灰色の空に溶けた。

広場に重い沈黙が降りた。群衆は焔赫を遠巻きに見ている。感謝と恐怖が入り混じった目だった。子供を救った英雄か、災厄を呼ぶ疫病神か。その判断がつかず、誰も近づけないでいる。

焔赫は人垣に背を向け、坑口へ歩き出した。一歩ごとに後悔が重くなる。やってしまった。三年の偽りが、たった六呼吸で崩れた。

——あの時、目を伏せていれば。

だが脳裏に焼きついて離れないのは、子供の叫び声だった。「父ちゃん」という、あの声。将軍の遺児としてではなく、ただの人間として、あの声を聞いて動かずにいられる者がいるのか。

いる。いるから、群衆は誰も動かなかったのだ。

そして三年前の自分も、何も出来ずに父の処刑を見ていた。あの日、刑場を囲む群衆の一人として立ち尽くし、父の最期を見届けることさえ叶わなかった。今日と同じだ。群衆は動かない。動けないのではない。動かないのだ。

坑口の手前で、影が焔赫の前に立ちはだかった。

痩せた老人だった。白髪を後ろで束ね、背は曲がっているが目だけが鋭い。灰燼鎮で最も古くからいる住人——鉱夫たちが「爺」とだけ呼ぶ人物だ。焔赫もこの三年、言葉を交わしたことは数えるほどしかない。

「ついてこい」

老人はそれだけ言って、坑口を避け、裏手の細い獣道に入った。焔赫は一瞬躊躇し、しかし老人の足取りに有無を言わせぬものを感じて従った。

獣道は炭鉱の廃坑口へと続いていた。崩落で封鎖された古い坑道の入口に、板で作った粗末な小屋が建っている。老人の住処だった。

中は薄暗く、火鉢一つと粗末な寝台、それに壁を埋め尽くすほどの古い書物があった。炭鉱の爺が、なぜこれほどの書を持っているのか。焔赫の目が細くなる。

「座れ」

老人は火鉢に炭を足しながら言った。炭がはぜる小さな音が、静寂の中でやけに響いた。焔赫は黙って腰を下ろした。

「最初から知っていたのか」

「お前が町に来た日からな」

老人の声に感傷はなかった。ただ事実を述べている。

「燎原将軍の嫡男。焔赫。十七で将軍府を失い、東へ逃げた。炭鉱に潜って三年。隠し通せると思ったか」

焔赫は答えなかった。答える必要もなかった。

「だがお前がひた隠す気なら、儂も墓まで黙っているつもりだった」老人は火鉢の炎を見つめた。「今日まではな」

「今日、俺が動いたから話す気になった、と」

「違う」

老人の目が焔赫を射抜いた。

「お前が動いた理由を見たから話す気になった。策でもなく、打算でもなく、身体が動いた。あれは燎原と同じだ。あの男も——お前の父も、そういう人間だった」

焔赫の喉が詰まった。父を知る者の言葉を聞くのは三年ぶりだった。記憶の中の父は、いつも背中だった。広い背中。書斎に向かう背中。兵を率いて出陣する背中。そして最後に見た——刑場で膝をついた、小さく見えた背中。

沈黙の中で、老人がゆっくりと立ち上がった。壁の書物の裏に手を伸ばし、板壁の一枚を外す。隠し棚の奥から、油紙に包まれた細長い包みを取り出した。

「燎原は処刑の七日前に、行商人を通じて二つのものを儂に託した。一つはお前自身だ。行商人にお前を東へ逃がし、この町に辿り着くよう手配したのは儂だった」

焔赫が息を呑んだ。偶然流れ着いたと思っていたこの町が——最初から、父の手の中だったのか。あの夜、見知らぬ行商人に手を引かれて暗闇を走った記憶が蘇る。足が痛かった。息が切れても走った。振り返ることは許されなかった。あの道筋の全てが、父が死を覚悟した上で描いた一本の線だったのだ。

老人が油紙の包みを焔赫の前に置いた。

「もう一つが、これだ」

包みを開く老人の手が、わずかに震えていた。

「お前の父が遺したものがある。——処刑の前夜に、命と引き換えに守り抜いたものだ」

油紙の下から現れたのは、古びた革装の書だった。表紙に二文字が刻まれている。

焔赫の目が凍りついた。その二文字を、父の書斎で見たことがある。幼い頃、決して触れてはならぬと言われた、あの——。

老人が静かに言った。

「『覆天策』。読む覚悟があるなら、開け」

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ