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覆天策――灰燼より征く将軍の遺児

第1話 第1話

第1話

第1話

坑道の闇は、人の名を呑む。

灰燼鎮の炭鉱に名乗りは要らなかった。あるのは割り振られた坑番と、日暮れまでに掘り出すべき石炭の量だけだ。焔赫もまた、ここでは「丙七番」に過ぎない。

灰燼鎮は大陸の東の果て、万嶺山脈の裾野にしがみつくように在る炭鉱町だった。谷底に沿って掘立小屋が連なり、空は年中、炭塵に煙っている。冬は雪に閉ざされ、夏は粉塵が灰色の幕となって谷間を覆う。王都から百二十里、街道の終点からさらに山道を三日。王朝の精緻な地図にすら記されぬ辺境の末端——忘れ去られた土地だった。

焔赫がここに流れ着いて三年になる。

毎朝、谷間に靄が淀むうちに坑口を降りる。松明の灯りを頼りに鶴嘴を振るい、粉塵で肺を灰色に染めながら黒い壁を砕いていく。日暮れに地上へ這い出れば、煤けた粥をすすり、板張りの寝台で泥のように眠る。その繰り返しの中で、かつての自分は炭塵とともに少しずつ剥がれ落ちていった。

大陸最強と謳われた燎原将軍の嫡男——焔赫にはそういう過去がある。だが父は謀反の罪で斬首され、将軍府は灰と化し、母は自刃した。十七の夏に全てを奪われ、父に恩義を持つ行商人に匿われて三月、大陸を東へ東へと逃れた果てに辿り着いたのがこの灰燼鎮だった。

以来、剣にも兵書にも触れていない。将軍の血筋は、この坑道の底で枯らすと決めていた。

その日も変わらぬ一日のはずだった。坑口の番人が息を切らして駆けてきたのは、昼の休息が終わる頃だ。

「丙七番! 第三坑でまた揉め事だ。あんたが行かなきゃ血ィ見るぞ」

焔赫は鶴嘴を壁に立てかけ、小さく息を吐いた。

 

第三坑道の分岐点で、二つの掘削班が鶴嘴を構えて睨み合っていた。

「この鉱脈はうちが先に当てた。手を引け」

甲組の頭目が唾を飛ばす。赤ら顔の壮年で、腕は丸太のように太い。

「先もクソもあるか」と乙組の若い坑夫が吐き捨てた。「坑道の割り当ては先月替わっただろうが。ここはもう俺たちの区画だ」

「割り当てが替わろうが、脈を見つけたのはこっちだ。道理ってもんを知らねえのか」

「道理で飯が食えるかよ」

一触即発だった。鶴嘴が振り下ろされるのは時間の問題に見える。甲組の一人が焔赫に気づき、声を上げた。

「丙七番、頼む。このままじゃ本当に死人が出る」

焔赫は坑道の壁に背を預け、しばし双方を見た。

松明の薄い灯りの下、その目が追っていたのは怒声ではなく壁面だった。右奥の支脈は地盤が脆い。岩の色が変わり始めている——粘土層に近い証だ。甲組の鉱脈も、炭層の傾斜からして十日で石灰層にぶつかる。乙組の方角も同じだった。

双方とも、あと少しで掘り尽くす脈を命懸けで争っている。

「その鉱脈、十日持たんぞ」

焔赫が口を開いた。低い声だが狭い坑道によく響き、双方の怒声が止む。

「石灰に当たる。それより——」天井を指した。「この分岐の上、半間ほどのところに黒い筋が見えるか。炭層がもう一段ある。縦に掘り上げれば、両班に足りるだけの良炭が出る」

甲組の頭目が天井を仰いだ。煤に紛れてはいるが、確かに黒い脈が横に走っている。坑夫としての勘がそれを良質と判じたのだろう。頭目は舌打ちしつつ鶴嘴を下ろした。

「……お前、ただの坑夫にしちゃ妙に目がいいな」

「三年も潜ってれば、嫌でも覚える」

嘘だった。読んだのは炭層ではなく地勢だ。将軍府で幼い頃から叩き込まれた地勢判読術——山野に軍を展開する際、岩盤の走向から地形の弱点を割り出す技法が、そのまま炭鉱に適用できる。

だが悟られるわけにはいかない。焔赫は何食わぬ顔で坑道を引き返した。背後で二組の坑夫たちが天井に向けて鶴嘴を振り始める音が、坑道に反響する。

この町で必要とされるのは将軍の息子ではない。ちょっと勘のいい坑夫——それで十分だ。

地上に出た瞬間、異変を感じた。

坑口の広場に鉱夫たちが群れている。いつもの怠惰なざわめきではない。恐怖を含んだ沈黙だった。

大通りの先に見慣れぬ一団がいた。武装した騎兵が四騎、中央に絹衣の文官が一人。掲げられた旗を見た瞬間、焔赫の背筋に氷の指が這った。

金龍旗。王朝の徴税使の証だ。

「ありゃ王朝の役人だ」隣の坑夫が蒼い顔で囁いた。「また税が上がるぞ……」

焔赫は答えず、群衆の後方へ身を沈めた。煤にまみれた顔と身なりが、何よりの偽装になる。

「灰燼鎮の住民に告ぐ」

馬上の徴税官が巻物を広げ、甲高い声を張った。

「聖上の勅令により、本年度の炭税を従来の三倍に改定する。加えて、成年男子は三名につき一名の割で兵役に応ずること。期限は月末。以上だ」

三倍。

どよめきが広場を駆け抜けた。

「三倍だと……嬶も子供も食わせらんねえぞ」 「無体だ!」 「飢え死にしろってのか!」

怒号が弾ける。だが護衛の騎兵が刀の柄に手をかけた瞬間、声は嘘のように萎んだ。鉄の刃を前にして、素手の民はただ黙るしかない。

若い坑夫が一人、それでも食い下がった。「せめて分割にしてくれねえか。一度に三倍なんざ、どの家だって——」

「勅令に例外はない」徴税官は片手を振って遮った。「次」

焔赫は腕を組み、視線を落とした。

——関わるな。声を上げれば目をつけられる。お前は丙七番だ。ただの坑夫だ。

 

「即日、各戸の保有する銀銭を申告せよ。虚偽の申告は全財産没収をもって罰する」

護衛兵が台帳を広げ、名を呼び始めた。鉱夫たちは一人、また一人と俯いて列に並ぶ。抵抗すれば投獄、逃亡すれば一族連座。辺境であっても王朝の恐怖はすみずみまで浸透していた。

焔赫はその列を見つめながら、三年前の記憶と戦っていた。将軍府の庭。父の背中。最後に交わした言葉。

——赫よ。民を守れぬ将は、ただの人殺しだ。

三年経っても喉の奥から抜けない棘だった。だが動けば死ぬ。将軍の遺児だと知れれば、この町ごと灰になる。

だから焔赫は黙っていた。拳を握り、目を伏せたまま。

列の中から、一人の老坑夫がふらりと前に出た。色褪せた作業着、長年の採掘で節くれ立った手。痩せた体を震わせながら、老人は徴税官を真っ直ぐに見上げた。

「お役人様。うちにはもう銀がねえんです。先の税で残らず出しちまった。三倍なんぞ、とても……」

「ならば労役で償え」

徴税官は視線すら合わせなかった。台帳を覗き込み、指先で一行をなぞる。

「この者の家に八つの男児がいるな」

老坑夫の顔から、血の気が失せた。

「不足分の担保として王都に預けることができる。勅令第七十二条の正当な措置だ」

担保——人質だ。群衆の間から押し殺した呻きが漏れた。

「待ってくれ!」老坑夫が叫んだ。「あの子はまだ八つだ! 何もわからねえ子供なんだ!」

縋るように伸ばした手は、護衛兵に胸を突かれて空を掻いた。老人は地面に崩れ落ちる。

「お願いだ……せめて、あの子だけは……」

砂利に額をこすりつける老坑夫を、徴税官は一瞥もしなかった。

「連れてこい」

護衛兵が二人、鉱夫小屋の路地へ消えた。整然とした足取りだった。慣れているのだ——こんなことには。

群衆が息を殺した。拳を握り、歯を食いしばりながら、しかし誰も前に出ない。動けば我が身が。動けば家族が。その恐怖が全員の足を地面に縫いつけていた。

焔赫の爪が掌に食い込んでいた。

——動くな。お前が動けば全てが露見する。三年かけて塗り固めた偽りが崩れる。

頭では分かっている。だが視界の端で、老坑夫が砂利の上を這っている。去りゆく兵士の背に向けて、届かぬ手を伸ばし続けている。

 

兵が戻ってきた。

その腕に、一人の子供が抱えられていた。汚れた麻の衣。炭塵にまみれた頬。八つにしては小さすぎる体が、兵士の太い腕の中で懸命にもがいている。

「父ちゃん!」

子供の叫びが、灰色の空を裂いた。

「嫌だ、父ちゃん! 行きたくねえ!」

地面に伏した老坑夫が、最後の力で手を伸ばす。だがその指先は、兵士の靴にすら届かない。

群衆が目を逸らした。唇を噛む者、涙をこらえる者。しかし——誰も、前に出ない。

焔赫の全身が灼けるように熱かった。

三年かけて塗り固めた「丙七番」の殻に亀裂が走っている。封じたはずの血が脈を打ち、鼓動が耳の奥で轟いていた。

——動くな。

身体が、言うことを聞かない。

焔赫の右足が、一歩、前に出ていた。

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