第3話
第3話
執務室の空気は、刃物のように張り詰めていた。
窓の外では風が唸りを上げているはずだが、厚い石壁がそれを遮断し、室内には燭台の炎が揺れる微かな音と、人間の呼吸だけが残されていた。蝋の焦げる匂いが鼻の奥に貼りつく。
卓の上に広げられた大地図を囲んで、四人の士官が立っている。司令官・厳道が上座に座り、その顔には烈士がこれまで見たことのない色が浮かんでいた。疲労でも焦燥でもない。もっと根深い、土台そのものが崩れ落ちる手前の、あの種の蒼白さだった。頬の肉が一晩で削げたように見え、目の下には紫がかった影が刻まれている。厳道の右手が地図の端を握ったまま微かに震えているのを、烈士は入室の一歩目で見て取った。指の関節が白くなるほど地図を握りしめている。あの手は昨日まで、書類を捌く以上の重みを持たない男の手だった。
「来たか。入れ」
厳道の声は平静を装っていたが、喉の奥が乾いている音がした。烈士は一礼して卓に近づいた。士官たちの視線が一瞬だけ烈士に触れ、すぐに地図に戻る。ここに烈士がいること自体を気にかける余裕は、もう誰にも残っていなかった。
大地図の上に、赤い墨で三本の矢が描き込まれていた。
墨はまだ完全には乾いておらず、燭台の光を受けてぬらりと濡れた光を放っている。今朝方、震える手で引かれた線だと分かった。
西——大河沿いの穀倉地帯を貫く一矢。東——海岸沿いの交易路を遡る一矢。そして南——虎牙関へ真っ直ぐ向かう一矢。三本が国の心臓部を三方から囲むように伸び、その根元には同じ文字が記されている。蒼覇。
「今朝までに入った続報をまとめる」
厳道が地図の西を指した。指先が微かに震えていたが、声だけは軍人のそれを保っていた。
「西方面。蒼覇帝国の右翼軍、推定三万。蘆河を渡河し、穀倉地帯の重鎮・麦城に迫っている。守備隊は八千。麦城が落ちれば、国の食糧の四割が敵の手に渡る」
指が東に移る。
「東方面。帝国海軍と連動した沿岸侵攻軍、推定一万五千。港湾都市・潮嶺を包囲しつつある。交易路が断たれれば、鉄と塩の供給が止まる」
そして指が、虎牙関の位置で止まった。爪が地図の表面に食い込み、紙の繊維が毛羽立つ小さな音がした。
「南方面——我々の正面だ。帝国の左翼軍、先鋒二万。虎牙関を抜いて内陸部へ突入する構えと見られる。到達まで早ければ五日」
室内を沈黙が満たした。壁にかけられた古い軍旗が、窓から入る風にわずかに揺れた。旗の端はほつれ、色褪せている。何十年も前の戦勝を記念したものだが、今この部屋にその栄光を信じる者はいなかった。旗に縫い取られた獅子の紋章が、燭台の光の明滅に合わせて生き物のように歪んで見えた。
「中央軍は」と、年嵩の士官が口を開いた。声が硬い。「王都の中央軍は動かないのですか」
厳道が首を振った。
「北方軍の壊滅で、中央軍は国境の穴を塞ぐために北へ向かった。西と東にも予備兵力を割かねばならん。虎牙関への増援は——当面、ない」
「当面とは」
「分からん。一月か。それ以上か。王都の軍議次第だ」
厳道の声が途切れた後、年嵩の士官が唇を噛んだ。歯が下唇の皮を破り、薄い血の筋が顎を伝ったが、本人はそれに気づいていなかった。隣の若い士官が目を伏せ、拳を太腿に押し当てている。爪が軍袴の布地を貫きそうなほど握りしめていた。
言葉の裏にある意味を、全員が理解していた。虎牙関は見捨てられたのだ。三方面を同時に支えるだけの兵力が国にはなく、優先順位をつけるならば、穀倉地帯と交易路を守る方が戦略的に正しい。辺境の関所一つに援軍を回す余裕はない。
烈士は黙って地図を見つめていた。三本の赤い矢が描く包囲の形が、頭の中で立体に変わっていく。西の三万は穀倉を、東の一万五千は物流を断つ。そして南の二万が内陸への楔を打ち込む。三つの力が別々に動いているようで、実は一つの意思が統べている。穀倉を落とせば兵糧が尽き、港を封じれば鉄が枯れ、内陸を突かれれば王都が動揺する。どれか一つでも成功すれば、残る二方面の攻略が容易になる構造だった。
——これを設計した者がいる。
烈士の背筋を、昨日と同じ冷たいものが走った。北方の雷虎を討ち、間髪入れずに三方面同時侵攻。偶然ではない。雷虎の敗北を織り込んだ上で、この攻勢は計画されている。父を嵌めた者と、この侵攻を設計した者は——同じなのか。
地図の上の赤い矢を見つめるうちに、父が盤上で駒を動かしていた夜の光景が脳裏をよぎった。あの手つき。一手ずつが全体の構図の中に収まっていく、あの静かな精密さ。目の前の三方面侵攻にも、同じ匂いがする。だがこれは父の手ではない。父の手を知り尽くした上で、それを上回ろうとする者の手だった。
思考を遮るように、執務室の扉が乱暴に開いた。
軍医官が駆け込んできた。白衣の裾が乱れ、額に脂汗が浮いている。息を整える間もなく厳道に駆け寄り、何事かを耳打ちした。薬草の匂いが室内に流れ込み、烈士の鼻腔を刺した。一瞬、司令官の顔から色が消えた。唇が薄く開き、閉じ、また開いた。
「……確かか」
「はい。先刻、吐血されました。意識はございますが、起き上がることもかないません。数日で快復する見込みは——」
「分かった」
厳道が軍医官を下がらせ、室内の士官たちを見回した。目の焦点が揺れている。数秒の沈黙ののち、司令官はかすれた声で告げた。
「虎牙関守備隊指揮官・鄭嶽どのが倒れた。持病の発作だそうだ」
室内の空気が凍りついた。誰かが息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。鄭嶽は虎牙関に駐留する守備隊千五百の指揮官であり、この砦における実質的な最高指揮官だった。厳道は砦の管理を統括する司令官ではあるが、軍の指揮権は別だ。守備隊の戦闘指揮は鄭嶽の管轄であり、その鄭嶽が倒れたということは——。
「代理指揮は」と士官の一人が声を上げた。声が裏返りかけていた。「副官の趙成どのが」
厳道が首を横に振った。その動きには、信じたくないものを信じざるを得ない者特有の緩慢さがあった。
「趙成は先月、西方の巡回任務で砦を離れている。戻りは早くて十日後だ」
「では参謀の——」
「林甫は北方軍に随行していた。雷虎どのと共に」
その言葉の意味を、室内の全員が理解するのに数秒を要した。林甫は戻らない。北方軍と共に失われた。指揮系統の上位が、まるで狙い澄ましたように欠けている。偶然と呼ぶにはあまりにも正確に、一人ずつ消えている。烈士の脳裏を、先ほどの思考が再び貫いた。これを設計した者がいる——と。
厳道の視線が、卓の隅に立つ烈士に向けられた。
「砦に残る士官の名簿を確認した」
司令官の声には感情がなかった。事実を読み上げるだけの、乾いた声だった。だが目だけが何かを訴えている。すまない、と。あるいは、頼む、と。
「守備隊において現在砦に在籍する最上位の任官者は——兵站担当士官・烈士。雷虎どのの子息だ」
静寂が、音を持って室内を圧した。
燭台の一つが、蝋が尽きかけて激しく明滅した。影が壁を這い、四人の士官の顔を交互に照らしては闇に沈める。その断続的な光の中で、全員の視線が烈士に集まっていた。
烈士自身が、最初の一瞬、何を言われたのか理解できなかった。兵站担当の末席士官。帳簿を捌き、穀物の在庫を数えることだけを任された男。その男が、千五百の守備隊の指揮権を継承する最上位者だと——。
「……冗談だろう」
声を発したのは、厳道の隣に立つ副官だった。四十を過ぎた歴戦の男で、顔の左半分に古い刀傷がある。その男が、烈士を見つめていた。侮りではなかった。もっと切実な、この男に自分たちの命を預けるのかという、剥き出しの恐怖だった。刀傷が走る頬の筋肉が小刻みに痙攣している。戦場で受けた傷よりも、今この瞬間の方がこの男を震わせていた。
烈士は答えなかった。答える言葉を持たなかった。卓の上の大地図に描かれた赤い矢が、燭台の光の中で血のように光っている。南からの一矢——先鋒二万。それが、五日後にこの砦の前に現れる。
懐に抱えた父の地図盤の重みが、急に増した気がした。木の角が肋骨に食い込んでいる。演武場で打たれた箇所と同じ場所だった。痛みが、思考を現実に引き戻す。
千五百対二万。援軍の見込みはない。指揮官は帳簿しか捌けぬ男。
これが、烈士に与えられた盤面だった。