第2話
第2話
「内部状態:待機→感応」
あの一行が、まだ視界に焼きついている。
ログアウトしてから六時間。現実の自室でベッドに横たわったまま、天井の染みを数えるふりをして、頭の中ではずっと紋様の動きを再生していた。三角形の回転、青白い光脈、空気越しの振動。どれも通常のオブジェクトにはない挙動だ。だが「感応」という状態が何を意味するのか、手がかりが足りない。
焦るな。データを積め。
翌日、いつもより二時間早くログインした。転移門からフォルグ廃墟群の第三区画へ直行し、半壊した神殿の内壁の前に陣取る。今日から本格的な定点観測を始める。
「まず基準点を決める」
壁面の三十二個の紋様それぞれにナンバリングした。左上からA1〜A8、B1〜B8、C1〜C8、D1〜D8。四つの群の中心にある大型紋様にはそれぞれα、β、γ、δと名前をつけた。我ながら味気ない命名だが、観測に浪漫は要らない。精度が要る。
観察眼を常時展開しながら、十五分おきにスクリーンショットを撮る。各紋様の位置座標、回転角度、タイムスタンプ、内部状態をスプレッドシートに記録していく。ゲーム内メモ帳では限界があるから、VRインターフェースのサブウィンドウにテキストエディタを開いて併用する。廃プレイヤーの利点だ。こういう外部ツール連携のノウハウだけは無駄に蓄積されている。
初日──変化は穏やかだった。前日の「感応」状態は消え、全紋様が「待機」に戻っている。ゲーム内時刻の午前六時から正午にかけて、紋様の微細な位置変化が加速し、午後から減速、深夜帯はほぼ静止。先週までの観測と一致する正弦波パターンだ。
二日目。同じ。三日目も同じ。
四日目。異変が起きた。
ゲーム内時刻の17:00ちょうど。α紋様の内部状態が「待機」から「受容」に切り替わった。「感応」とも違う、初めて見るステータスだ。持続時間は三十秒。その間、α紋様を中心にA群の八つの紋様が同時に脈動した。
「受容……入力を受け付けるってことか?」
慌ててα紋様に触れようとした。だが指が届く前に、状態は「待機」に戻った。三十秒は短い。しかも予兆がなかった。いきなり切り替わり、いきなり戻る。事前に変化の兆候を読み取れなければ、反応が間に合わない。
俺はスプレッドシートに太字で記入した。「Day4 17:00:00 α→受容 30sec」。
ここから観測の解像度を上げた。十五分間隔を五分に。各紋様の微振動波形もログに追加。探索士のパッシブスキルをフルに回して、壁面から得られる情報を可能な限り吸い上げる。ログインしていない時間帯のデータが取れないのがもどかしい。
「録画BOTでも置ければいいんだが」
さすがに規約違反だ。自分の目で観て、自分の手で記録するしかない。
五日目、ゲーム内時刻17:00──何も起きない。六日目も。
七日目の17:03に、今度はβ紋様が「受容」になった。持続時間は二十二秒。
パターンが見えない。いや、まだデータが足りないだけだ。
観測を始めて十日目の夜。蓄積したデータをオフラインで整理していた時、ふと思いついて別の作業を始めた。『アストラル・クロニクル』の公式アップデート履歴を、サービス開始から全件洗い直す。
理由は単純だ。あの紋様が最初から存在していたのか、それとも後から追加されたのかを確認したい。
アップデートログは公式サイトにアーカイブされている。四年分、計百七十三回。大型アップデートには詳細な変更リストが付くが、小規模パッチは「各種不具合の修正」の一行で片付けられていることが多い。フォルグ廃墟群は不人気エリアだ。パッチノートで名指しされた回数はゼロ──と思っていた。
だが、一件だけあった。
パッチ2.3.7。サービス開始から十四ヶ月目の小規模アップデート。変更内容は「一部エリアの環境オブジェクト調整」。対象エリアのリストにフォルグ廃墟群の名前がある。それだけだ。何を調整したかの説明はない。同パッチの他の修正はバグ修正やバランス調整で、いずれも具体的な内容が書かれている。フォルグ廃墟群の項目だけが異質に曖昧だった。
「環境オブジェクト調整、ね」
コミュニティの過去ログも漁った。当時のフォーラム、攻略wiki、SNS。パッチ2.3.7に関する言及は多数あるが、フォルグ廃墟群について触れたプレイヤーは一人もいない。そもそも誰も行かないエリアの「環境オブジェクト調整」に注目する物好きがいるわけない。
──いた。俺以外には、いなかっただけで。
十四ヶ月目。あの壁面は最初から存在したのではなく、ある時点で意図的に手を加えられた。「調整」という言葉が気になる。追加でも削除でもなく、調整。既存のオブジェクトに何かを仕込んだのだとしたら。
観測十二日目。データを時系列に並べて、ゲーム内時刻との相関を総当たりで検証した。正弦波の周期は二十四時間で確定。変化量のピークは正午付近。ここまでは既知だ。
だが「受容」状態の出現タイミングには、もう一つの変数が絡んでいた。
ゲーム内天候だ。
廃墟群の天候は五種類──晴れ、曇り、霧、小雨、嵐。天候ごとに「受容」の出現確率が異なる。霧の日にだけ、出現頻度が跳ね上がっていた。しかも霧の発生はランダムではなく、ゲーム内の月齢と連動している。月齢、天候、時刻──三つの変数が特定の組み合わせになった時、紋様が「受容」に切り替わる。
十三日目。霧が出た。月齢は十三夜。ゲーム内時刻16:55、壁の前で観察眼をフル展開して待機する。指先が冷たい。VRの中の神殿は底冷えがするほど静かで、霧が足元を這っている。壁面の紋様が、霧を通した光を受けてぼんやりと発光していた。
16:59。微振動感知が反応する。波形が変わった。低周波の、規則的な脈動。
17:00:00。
α、β、γ、δ──四つの大型紋様が同時に「受容」に切り替わった。今までは一つずつだったのに、四つ同時は初めてだ。壁全体が青白い光を帯びる。あの日と同じ光脈が、石の表面を血管のように走る。
持続時間をカウントする。十秒、二十秒、三十秒──消えない。四十秒。五十秒。
一分を超えた。
これまでの最長は三十二秒だった。紋様は脈動を続け、壁面全体がかすかに震えている。触覚フィードバックが壁に触れていない俺の手にまで届く。
観察眼のログが矢継ぎ早に更新される。
「内部状態:受容(全群同期)」 「遷移条件:入力待機中」 「残り時間:██████」
──残り時間。
初めて表示されたパラメータだ。数値部分は文字化けしている。だが「残り時間」という項目が存在すること自体が、決定的な意味を持つ。
この壁は、特定のタイミングで「入力」を待っている。
入力の内容はまだわからない。入力の順序も。だが条件の一端が見えた。霧。十三夜。17:00。この三条件が揃った時、壁は最も長く「受容」を維持する。次にこの組み合わせが来るのは──ゲーム内カレンダーを逆算する。
十九日後。
十九日分の準備期間がある。その間に、入力方法を特定する。
俺はスプレッドシートを保存し、立ち上がった。膝が少し痺れている。座り込んで観測を続けること数時間、現実の体感時間を忘れていた。壁の光は既に消えている。紋様は「待機」に戻り、何事もなかったかのように沈黙している。
だが俺のメモ帳には、十三日分のデータが整然と並んでいる。
「十九日後に、答え合わせだ」
ログアウト操作をしようとして、ふと手を止めた。念のため、パッチ2.3.7のアップデート日時をもう一度確認する。サービス開始から十四ヶ月目──西暦に直すと、ちょうど三年前の今月。
三年間。この壁は三年間、誰にも気づかれず、毎日律儀に紋様を動かし続けていたのか。
開発者が──あるいは開発者の中の誰かが──三年前にここに何かを仕込んだ。見つけられるかどうかもわからないまま。見つけてほしいと思ったのかすらわからないまま。ただ、壁は動いている。入力を待っている。三年間、ずっと。
似ている、と思った。四年間ログインし続けている俺と。
ログアウトした現実の部屋で、俺はすぐにノートPCを開いた。オフラインで使っている個人用の解析シートに、今日の全データを転記する。十三日分の観測データが一つの法則を形作り始めていた。霧、月齢、時刻。三変数の同期条件。そして「受容」状態の出現マップ。
次の霧×十三夜は十九日後。だがその前に、もう一つ調べることがある。
「受容」中に紋様が求めている「入力」とは何か。触れるのか、スキルを使うのか、特定のアイテムを翳すのか。三十二個の紋様のうち、どれに、どの順序で。
変数は膨大だ。だが、ゼロから総当たりする必要はない。紋様の変化パターンそのものが、手順を示唆しているはずだ。でなければ、この精密な時間連動の仕組みに意味がない。設計者は「観察すれば解ける」ように作っている。そうでなければ、観察でしか見つからない場所に置く理由がない。
十九日。
それだけあれば、十分だ。