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観察眼のレン 誰も見ていない場所

第1話 第1話

第1話

第1話

──フレンドリスト、オンライン:0/127。

毎日見ている数字だ。もう驚きもしない。だが、ゼロという数字を見つめる一瞬だけ、指が止まる癖はいまだに抜けない。俺はウィンドウを閉じて、霧がかった街道を歩き始めた。

VRMMO『アストラル・クロニクル』。サービス開始からもう四年になる。かつてはログインキューが三十分待ちだったこの世界も、今は街の中央広場にNPCの方が多い。噴水の水音、鍛冶屋のハンマーの反響、パン屋から漂う焼きたての匂い──全部プログラムが律儀に再生し続けている演出だ。受け取る人間がほとんどいなくなっても。風が吹くと露店の看板がきしむ音がやけに響く。人がいないと、こんな細かい環境音まで聞こえるものだな。

四年前、この広場は色で溢れていた。派手な装備を見せびらかすプレイヤー、露店で値切り交渉する声、ギルド勧誘の看板を掲げて叫ぶやつ。あの喧騒が懐かしいかと聞かれれば──正直、わからない。

「おかえりなさいませ、冒険者様」

門番NPCが定型文を投げてくる。こいつとも長い付き合いだ。鉄兜の下の顔は四年間一度も変わらない。雨の日も、サーバーメンテ明けの深夜も、同じ笑顔で同じ言葉を繰り返す。ある意味、このゲームで一番の古参プレイヤーかもしれない。俺は軽く手を上げて応え、転移門に向かった。行き先はフォルグ廃墟群──メインストーリーにもサブクエストにも絡まない、報酬も渋い辺境エリア。攻略サイトには「行く価値なし」とまで書かれている。

だからいい。

誰も来ない場所にしか、誰も見つけていないものは残っていない。

転移の光が収まると、灰色の空が広がった。崩れかけた石柱が並ぶ荒野。足元の砂利を踏む感触が、街道の石畳とはまるで違う。乾いて、脆くて、一歩ごとに崩れるような頼りなさがある。BGMすら設定されていないのか、風切り音だけが耳を撫でる。空気には錆びた金属と乾いた土の匂いが混じっていた。この匂いのテクスチャを作った開発者は、よほどこだわりがあったのだろう。誰にも気づかれない場所に、こんな繊細な演出を仕込むくらいには。俺はいつものルートを歩き始めた。

レン。レベル247。職業は探索士──最前線では火力もヒール量も足りない中途半端な上級職。だが索敵範囲とオブジェクトの解析精度は全職業中トップだ。かつてはこのビルドで、レイド攻略の偵察役として重宝された。ボスの行動パターンを読み、安全地帯を割り出し、最適なルートを仲間に伝える。俺の報告ひとつで攻略の成否が変わることもあった。あの頃はチャット欄に「レン、偵察頼む」の文字が並ぶだけで、背筋が伸びたものだ。

かつて、の話だ。

トッププレイヤーは引退し、中堅層は新作に流れ、残っているのは無言でデイリーを回すソロ勢がちらほら。ギルド『星読みの塔』も実質解散状態。マスターのシュウは一年以上ログインしていない。ヒーラーのミコトも。情報屋のガクも。

フレンドリストを開くたびに、灰色の名前が並ぶ。最終ログイン日時だけが、かろうじて彼らが存在した証拠になっている。シュウの最終ログインは去年の三月。ミコトは一昨年の十二月。ガクに至っては、もう日付を覚えていない。

「……寂しいとか、そういうんじゃねえんだよな」

独り言が癖になったのはいつからだろう。たぶん、チャット欄に書き込む相手がいなくなった頃からだ。声に出すのは、自分の思考を整理するため。そう自分に言い訳している。

俺がログインし続けている理由は単純だ。このゲームは、まだ全部見せていない。四年間の探索で確信している。開発チームが仕込んだ未発見要素が、まだどこかに眠っている。攻略サイトの「全クエスト一覧」は完全じゃない。解析勢が吐き出したデータベースにも穴がある。

その穴を見つけるのが、俺の遊び方だ。

廃墟群の北東、第三区画。半壊した神殿の内壁に、幾何学的な紋様が刻まれている。天井の半分は崩落しており、灰色の空から降り注ぐ薄い光が、壁面を斜めに照らしている。最初にここを訪れたのは二年前。当時は「ただの背景テクスチャ」として素通りした。他の誰だってそうするだろう。壁の装飾なんて、いちいち調べるプレイヤーはいない。

だが先週、妙なことに気づいた。

紋様の配置が、前回来た時と微妙に違う。

最初は見間違いかと思った。スクリーンショットを撮って比較しても、差異は数ピクセル程度。気のせいだと片付けるのが普通だ。実際、過去にも似たような「発見」を何十回としてきた。岩壁の影が動いた気がした、水面の反射パターンが変わった気がした──全部、気のせいだった。だが今回だけは引っかかりが消えなかった。だが探索士の『精密解析』スキルでオブジェクト情報を読み取ると、テクスチャのタイムスタンプが更新されている。背景オブジェクトのタイムスタンプが変わる──これは通常ありえない。

それから毎日、同じ時間にこの壁の前に立っている。

今日で七日目。記録した紋様の変化パターンをメモ帳に並べると、法則性の欠片が見えてきた。紋様は二十四時間周期で微細に動いている。しかもゲーム内時刻と連動しているようだ。サーバー時刻の正午付近で変化量が最大になり、深夜帯はほぼ静止する。七日分のデータを折れ線グラフにすると、正弦波に近い曲線が浮かび上がった。ノイズではない。明らかに設計された挙動だ。

「偶然じゃないな」

壁に手を触れる。指先に、石材の冷たさとかすかな振動が伝わった。冷たさの中に、微かな熱の脈動が混じっている。まるで石の奥で何かが呼吸しているような。普通のオブジェクトにはない触覚フィードバック。探索士のパッシブスキル『微振動感知』が反応している。スキルアイコンが視界の隅で淡く明滅し、振動の波形データがログに流れ始めた。

俺はその場に座り込み、スキル『観察眼』を最大出力で発動した。視界の端に、通常では表示されない薄い情報レイヤーが重なる。紋様の各パーツに、かろうじて読み取れるパラメータが浮かび上がった。文字は半透明で、角度を変えないと読めないほど淡い。まるで見つけられることを想定していないかのような、隠し方だった。

内部状態:待機。 遷移条件:未達成。 関連フラグ:不明。

──フラグ。

背景テクスチャにフラグ管理が設定されている。これはデコレーションオブジェクトの仕様じゃない。クエストトリガーの構造だ。

心臓が跳ねた。

呼吸が浅くなっているのを自覚する。VRの中だというのに、こめかみに汗が滲む感覚がある。四年間、数えきれないほどの「空振り」を繰り返してきた。怪しいオブジェクトを片っ端から調べ、結局ただの見間違いだったことは百回じゃきかない。期待して、裏切られて、それでも次の「怪しいもの」に手を伸ばす。その繰り返しに慣れたはずだった。だが今回は違う。データが嘘をつかない。この紋様は、何かの入力を待っている。

俺は壁から手を離し、一歩下がって全体を見渡した。紋様の総数は三十二。配置は不規則に見えるが、今日の変化パターンを重ねると──いくつかのグループに分類できそうだ。八つずつ、四つの群。各群の中心には、他より一回り大きい紋様がある。そこを起点に変化が波及しているように見えなくもない。

問題は「何を」「どの順番で」「いつ」入力するか。

変数が多すぎる。ゲーム内時刻との連動パターンをもっと精密に記録する必要がある。最低でもあと二週間分のデータが要る。

「急ぐな。焦って雑に触れば、フラグが壊れる可能性もある」

自分に言い聞かせる。だが指先がわずかに震えていた。四年だ。四年間、この瞬間を待っていた。誰もが去ったこの世界で、俺だけが信じ続けた「まだ何かある」という直感。それが今、データという裏付けを得ようとしている。

ログアウト時刻が近い。最後にもう一度だけ、壁の全景をスクリーンショットに収めようとした──その時だった。

紋様の一つが、動いた。

タイムスタンプの更新ではない。リアルタイムで、目の前で。三角形を組み合わせた幾何学模様が、ゆっくりと回転し、隣接する紋様と位置を入れ替えた。その動きに合わせて、壁全体にかすかな光の脈動が走る。青白い光だった。石の表面を血管のように這い、一瞬だけ壁全体を浮かび上がらせて消えた。指先にさっきよりも強い振動が伝わってくる。壁に触れていないのに。空気を通じて、肌が直接震えを拾っている。

観察眼のログが一行、追加された。

「内部状態:待機→感応」

──これは、装飾じゃない。

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