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追放された荷物持ちは、一歩ずつ最深部へ

第2話 第2話

第2話

第2話

十一層の魔物は、岩蜥蜴とは別の生き物だった。

 壁の隙間から滲み出るように現れたそれは、影蟲と呼ばれる節足の魔物だった。体長は膝丈ほど。光沢のない黒い殻が松明の光を吸い込み、輪郭すら掴みにくい。六本の脚が石床を叩く音だけが、かさかさと乾いた通路に反響する。

 カイは短剣を構えたまま、呼吸を整えた。影蟲の情報は頭にある。荷物持ちをしていた頃、ヴェルクが仲間に注意を促していたのを何度も聞いた。殻は硬いが腹は柔い。単体では脅威にならないが、群れると厄介。そして——光を嫌う。

 松明を前に突き出すと、影蟲が一瞬ひるんだ。その隙に踏み込み、短剣を突き上げる。腹を捉えた。体液が刃を伝い、酸っぱい匂いが鼻を衝く。影蟲の脚が痙攣し、やがて止まった。

 一匹。問題はここからだった。

 通路の奥から、同じ足音が重なって聞こえてきた。三匹、いや五匹。松明の光が届く範囲の外に、黒い殻の群れがうごめいている。

 カイは退いた。無理をする場面ではない。十一層の探索は切り上げ、十層まで戻って帰還路を取る。脇腹の傷が歩くたびに軋んだが、足は止めなかった。

 東門を出たとき、朝の光がまぶしかった。

  *

 翌日から、カイの日課が始まった。

 夜明け前に宿を出て、東門からダンジョンに潜る。人の少ない時間帯に低層を抜け、十層から十一層を往復する。魔物を一匹ずつ片付け、素材を回収し、傷が深くなる前に撤退する。宿に戻り、素材をギルドで換金し、消耗品を補充する。そしてまた翌朝。

 三日目には十一層の影蟲の巣穴の位置を把握した。五日目には十二層の入口まで到達した。一週間で十二層の通路構造をほぼ暗記した。

 体力が追いつかなかった。ソロで十二層を歩くだけで体が消耗する。回復薬は安物しか買えず、傷の治りが遅い。宿代と装備の維持費を差し引くと、手元に残る金貨はほとんどなかった。

 それでも、十日目には十三層に足を踏み入れた。

 追放されたあの通路だった。壁の紋様に見覚えがあった。松明の光に浮かぶ橙色の模様。ここでヴェルクに背を向けられた。ここで荷袋を降ろした。

 感傷に浸っている余裕はなかった。十三層の魔物は岩蜥蜴の上位種、鉄鱗蜥蜴だ。鱗が硬く、カイの安物の短剣では刃が通らない箇所が多い。目の周りと脚の付け根だけが弱点だった。それを知っていたのも、荷物持ちとして何十回もこの階層を歩いたからだ。

 二週間が経った頃、冒険者街の空気が変わっていることに気づいた。

 きっかけは昼の酒場だった。素材の換金を終えて安い麦粥を食べていると、隣の卓の冒険者たちの声が聞こえてきた。

「銀狼の牙、マジでAランクだってよ。先月の昇格試験、歴代最速突破だったらしい」

「あそこ四人だったよな。一人減ったんだっけ」

「荷物持ちの奴だろ。まあ、あれは最初から数に入ってなかったって話じゃん」

 匙を持つ手が止まった。止まったことに気づいて、意識して動かした。麦粥の味がしなくなっていたが、口に運び続けた。

 噂は思った以上に広まっていた。酒場だけではない。ギルドのロビーですれ違う冒険者たちの視線に、それが混ざるようになった。哀れみ、嘲笑、あるいは無関心。どれも同じ意味だった。あいつはもう終わった、という意味だ。

 パーティ募集の掲示板に足を運んだことが一度だけあった。十四層以上を目指すパーティの募集用紙がいくつも貼り出されていた。条件を満たすものに名前を書こうとして、やめた。隣に立っていた冒険者がカイの顔を見て、小さく首を横に振ったからだ。

「悪いけど、うちは銀狼に睨まれたくないんだ」

 それだけ言って、その男は去った。

 カイは掲示板の前に少しだけ立ち、それから静かにその場を離れた。

  *

 三週間目。カイは十五層に到達した。

 ここがソロ探索の限界だと、頭では理解していた。十五層は中層の入口とされる境界線だ。魔物の強度が一段上がり、罠の密度が増す。パーティで来ていた頃でもヴェルクが慎重になる階層だった。

 最初の踏破には丸一日かかった。

 十五層の主は甲鎧蟹。全長は人の胸の高さほどで、石灰質の殻が全身を覆っている。鋏は鉄を断ち、脚は石床を砕く。正面から向かえば短剣など弾かれる。

 カイは正面から向かわなかった。

 甲鎧蟹の動きを観察した。三年間、後ろから見ていた戦闘の記憶を引き出す。ヴェルクはいつもこの蟹の右側に回り込んでいた。右の鋏の振りが左より僅かに遅い。そこが斬り込みの間合いだった。

 だが、カイにはヴェルクほどの剣速がない。だから別の方法を使った。

 天井から垂れ下がる鍾乳石の位置を確認する。通路の幅と蟹の旋回半径を計算する。退路を二つ確保してから、松明を投げて注意を引く。蟹が松明に反応した隙に横から駆け、鋏の関節部に短剣を差し込む。一撃では倒れない。だが動きが鈍る。二撃目、三撃目と同じ箇所を狙い、四撃目でようやく鋏が落ちた。

 残った鋏と六本の脚を相手に、さらに十分以上の格闘が続いた。壁に追い詰められ、肩を殻の縁で裂かれ、腿を脚で打たれた。意識が白く飛びかける瞬間が二度あった。

 それでも倒した。蟹が動かなくなった後、カイは通路の壁に背をつけて座り込み、長い間動けなかった。全身が痛んだ。血が止まらない箇所が三つあった。安物の回復薬を傷口に垂らしながら、天井を見上げた。鍾乳石の先端から水滴が落ち、額を打った。冷たかった。

 十五層を周回するようになって数日、カイはひとつの習慣を身につけていた。

 地形を歩いて覚える。壁の傷、床の段差、天井の高さ、空気の流れ。それらを足の裏と肌で記憶する。地図は描かない。描くよりも歩いた方が早いと気づいたからだ。一度通った道は、二度目には迷わない。三度目には目を閉じても歩ける。四度目には、その道にどんな魔物がいて、どこに隠れているかまで分かるようになる。

 これが自分の戦い方なのだと、カイは理解し始めていた。

 剣の腕は凡庸だ。魔術は使えない。身体能力も平均以下。けれど、歩いた分だけ体が覚える。一歩ずつ、一層ずつ。華やかさも効率もないが、それだけは誰にも否定できない。

 ギルドの掲示板は、もう見なくなっていた。

  *

 四週間目の朝。

 いつものように夜明け前に東門をくぐると、門番の老兵が声をかけてきた。

「また十五層か」

「ああ」

 もう五層とは言わなかった。門番も聞かなくなっていた。毎朝同じ時間に来て、夕方に傷だらけで帰ってくる冒険者を、老兵は黙って見送り、黙って迎え入れた。それだけの関係だった。けれどカイにとっては、毎日言葉を交わす唯一の人間だった。

「気をつけてな」

「……ああ」

 階段を降りる。松明に火をつける。一層の湿った空気を吸い込む。苔の匂い。水滴の音。もう何百回と繰り返した手順だった。

 十五層までの道を、カイは駆け抜けた。一層目から十四層目までは通過するだけだ。魔物の位置も罠の場所も、体が全部知っている。かつて一日がかりだった道のりが、今は二時間で済む。

 十五層に着くと、いつもの周回ルートに入った。甲鎧蟹の巣を避け、素材の採集ポイントを回り、中型の魔物を一匹ずつ処理する。効率は悪い。パーティならこの三倍の速度で回せるだろう。だが効率を求める相手はもういない。自分のペースで歩き、自分の間合いで戦い、自分の判断で退く。

 それは孤独だった。紛れもなく孤独だった。

 けれど、惨めではなかった。

 十五層の最深部。行き止まりの壁に背を預け、カイは短い休息を取った。松明の残りが少ない。そろそろ帰る時間だ。明日もここに来る。明後日も。同じ道を歩き、同じ階層を踏み、少しずつ体に刻んでいく。

 ——足を止めたら終わる。

 それだけが確かなことだった。誰かに認められたいわけではない。追いつきたい背中ももうない。ただ、止まったら自分が自分でなくなる。その感覚だけが、毎朝暗いうちに体を起こし、ダンジョンへ向かわせる。

 立ち上がり、帰路につこうとしたとき。

 足元の石床に、僅かな違和感があった。踏み慣れたはずの地面が、ほんの一瞬だけ沈んだ気がした。何百回と歩いた十五層の最深部で、初めて感じる床の軋み。

 カイは足を止め、もう一度同じ場所を踏んだ。

 ——沈む。

 松明を近づけ、床を照らした。石板の継ぎ目に、肉眼ではほとんど見えない細い線が走っている。他の冒険者なら見逃す。だがカイはこの石板を何百回も踏んでいた。昨日までなかった線だ。

 何かが、この下にある。

 松明の炎が揺れた。十五層の奥から、微かに——これまで一度も感じたことのない、冷たい風が吹き上がってきていた。

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