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追放された荷物持ちは、一歩ずつ最深部へ

第1話 第1話

第1話

第1話

「お前がいると経験値効率が落ちる」

 その言葉は、十三層の薄暗い通路に反響して消えた。

 カイは足を止め、背負った荷袋の紐を握りしめた。松明の炎が揺れ、壁面に刻まれた古い紋様が橙色に浮かんでは沈む。湿った石壁の匂いが鼻腔を刺す。この匂いはもう三年も嗅ぎ続けてきたものだった。冷たい空気が喉の奥まで沁み込み、肺の底に溜まるような感覚がした。

 振り返ると、パーティリーダーのヴェルクが腕を組んでいた。その後ろにはサラとドーグ。三人とも、カイの方を見ていなかった。正確には、カイの少し横——壁の紋様あたりに視線を逸らしていた。

「聞こえなかったか?」ヴェルクが言った。「銀狼の牙は来月Aランク昇格試験を受ける。お前を連れていく余裕はない」

 銀狼の牙。四人パーティ。カイの役割は荷物持ちと囮。三年間、そう紹介されてきた。ダンジョン入口で他のパーティと顔を合わせるたび、ヴェルクは笑いながら言った。「うちの荷物番だよ」と。

 カイはそれを肩書きだと思っていた。いつか変わる、途中経過の肩書きだと。

「……理由を聞いていいか」

「今言っただろう。効率だ」

 ヴェルクの声に苛立ちはなかった。感情そのものがなかった。不要な装備を処分するときと同じ口調だった。松明の光がヴェルクの顎の線を照らし、その表情が完全に乾いていることをカイに見せつけた。怒りならまだよかった。怒りには関係がある。無関心には何もない。

「お前の火力じゃ十三層の魔物に傷ひとつつけられない。囮としても最近は魔物の方がお前を無視し始めてる。サラの回復魔術をお前に使うたびに、前衛へのリソースが削られる」

 事実だった。反論できる材料をカイは持っていなかった。指先が冷えていくのを感じながら、それでも何か言葉を探した。三年分の日々が、たった数行の戦績報告で否定されていく。

 サラが一瞬だけカイを見た。何か言いかけて、唇を閉じた。その目には微かな憐憫があった。けれどそれは、カイを引き留めるほどの力を持っていなかった。ドーグは最後まで壁を見ていた。

「荷物はそこに置いていけ。帰り道くらいは一人で歩けるだろう」

 カイは背中の荷袋を降ろした。革紐が肩に食い込んだ跡が、じんわりと熱を持っていた。三年間、毎日同じ場所にできた痕だった。荷袋が石床に当たって鈍い音を立てた。中には四人分の回復薬と携帯食料が詰まっている。それを詰めたのもカイだった。毎朝、誰よりも早く起きて。

 通路の先へ歩いていく三つの背中を、カイは黙って見送った。松明の光が遠ざかり、闇が足元から這い上がってくる。残されたのは自分の予備の灯り一つと、空になった肩の痛みだけだった。

  *

 冒険者ギルド本部の再査定窓口は、朝一番だというのに混んでいた。

 カイは木製のベンチに座り、順番を待った。隣に座った若い女性冒険者が仲間と笑い合っている。「昨日の十層、やばかったよね」「でもレアドロップ出たし」——そんな会話が耳に入るたび、カイは視線を膝の上の手に落とした。自分の手は傷だらけだった。剣を振った傷ではない。荷紐で擦れ、岩角にぶつけ、重い荷物を支え続けてできた傷だ。戦士の手ではなく、人足の手だった。

 窓口の担当官は、カイの冒険者証を確認しながら淡々と告げた。

「パーティ離脱によるランク再査定の結果をお伝えします。現在のBランク維持には、ソロでの十層以上の継続踏破実績が必要ですが、カイ殿の個人戦闘記録では——」

「足りない、ということですか」

「はい。ソロでのBランクダンジョン攻略は不適格と判定されました。ランクはBのまま据え置きますが、パーティなしでの中層以上への入場は推奨しません」

 推奨しない。禁止ではない。けれど実質、十層以下を一人で回るしかないということだった。担当官の声には同情も侮蔑もなく、ただ規定通りの事実があるだけだった。それがかえってカイの胸を締めつけた。

 査定書類を受け取り、ギルドのロビーに戻ると、正面の掲示板が目に入った。昇格通知の羊皮紙が何枚も貼り出されている。その中に、見覚えのある名前があった。

『銀狼の牙——Aランク昇格試験 合格内定』

 足が止まった。日付を見る。来月ではなく、先月の時点で内定が出ていた。つまりヴェルクは、昇格が決まってからカイを切ったのではない。カイを切ることが、昇格の条件だったのだ。

 息を吸おうとして、うまく吸えなかった。三年間、自分はパーティの足手まといだと薄々分かっていた。けれど「いつか追いつく」と信じていた。その「いつか」が来る前に、自分の存在そのものが昇格の障害として数値化されていた。

 掲示板の前を通り過ぎる冒険者たちの視線が、ちらちらとカイに向けられていた。噂はもう回っているのだろう。銀狼の牙の荷物持ちが捨てられた、と。

 カイは掲示板に背を向け、ギルドの出口へ歩いた。

  *

 冒険者街の大通りを抜け、東門のダンジョン入口に着いたのは、まだ陽が昇りきらない時刻だった。

 門番の老兵が怪訝な顔をした。

「こんな早くにソロか。どこまで潜る」

「五層まで」

 嘘だった。五層で得られる報酬では宿代にもならない。だが、ソロ不適格の烙印を押されたばかりの冒険者が「十層まで」と言えば、余計な忠告が飛んでくる。

 カイは入口の階段を降り始めた。松明に火をつけると、見慣れた石壁が照らされる。湿った空気、苔の匂い、遠くで水が滴る音。一層目は何百回と通った道だった。壁の罅の位置も、天井が低くなる場所も、全部覚えている。

 足音だけが通路に響く。隣にはもう誰もいない。荷袋もない。背中が妙に軽くて、それが逆に心許なかった。三年間ずっとあった重みが消えると、自分の輪郭まで曖昧になる気がした。

 二層への階段を降りる。空気が少し冷たくなる。壁の苔が緑から青みがかった色に変わる。魔物の気配はまだない。この時間帯、低層の魔物は活性が低い。だからカイは早朝を選んだ。実力が足りないなら、条件で補うしかない。

 三層、四層、五層。門番に告げた階層を過ぎても、カイの足は止まらなかった。六層の分岐路を右に折れ、七層への隠し通路を抜ける。この辺りから空気が変わる。苔の匂いに混じって、鉱石の乾いた香りがし始める。壁面に薄く光る鉱脈が走り、松明がなくても足元がぼんやりと見える。

 三年間、荷物持ちとして何度も通った道だ。自分で戦ったわけではない。ヴェルクたちの後ろを歩き、荷物を運び、言われた場所に立って魔物の注意を引いた。それだけの三年間。

 けれど足だけは覚えていた。どこで段差があるか。どの角を曲がれば罠があるか。壁の染みがどう変わったら次の階層が近いか。荷物持ちにしかできないことなど何もなかったが、荷物持ちだからこそ見てきたものはあった。

 十層。ここまで来ると、魔物が動き始める時間帯に差し掛かる。カイは腰の短剣を抜いた。安物の鉄剣。パーティにいた頃から自分の武器だけは支給されなかったから、冒険者になった初日に買ったものをずっと使っている。刃こぼれだらけの刀身が松明の光を鈍く跳ね返した。柄に巻いた革紐は汗と摩擦で黒ずみ、手の形に馴染んでいた。

 通路の先で、岩蜥蜴が一匹、こちらに首を向けた。全長は腕二本分ほど。鱗が松明の光を反射して、鈍い銅色に光っている。尾を振り、低い唸り声を上げた。地面を伝って腹の底に響くような、重い振動だった。

 カイは構えた。パーティにいた頃なら、ここで囮として前に出る場面だ。魔物の注意を引き、ヴェルクが横から斬る。サラが回復し、ドーグが止めを刺す。自分はただ立っているだけ。

 今は違う。斬るのも、避けるのも、全部自分だ。

 岩蜥蜴が跳んだ。カイは半歩だけ横に動き、鉄剣を振り下ろした。刃が鱗の隙間を捉え、浅く肉を裂く。致命傷には遠い。岩蜥蜴が身を捩り、尾で薙ぎ払ってくる。脇腹に鈍い衝撃。息が詰まったが、倒れなかった。歯を食いしばり、痛みを奥に押し込む。二撃目を叩き込み、三撃目でようやく動きが止まる。

 荒い息を吐きながら、カイは通路の壁にもたれた。たった一匹の岩蜥蜴を倒すのに三撃。パーティなら一瞬で片付く相手だ。脇腹を押さえると、掌に生温かい血が滲んでいた。浅い傷だ。サラがいれば一瞬で治る。けれどサラはもういない。

 それでも、倒したのは自分だった。

 十一層への階段を見つけ、降りる。この先はパーティで来ていた頃でも緊張した領域だ。ソロでは無謀だと分かっている。分かっていて、足が動く。

 止めたら終わりだ。追放された冒険者が足を止めたら、それは引退と同義だ。ギルドの端で受付仕事でも探すか、街を出て別の生業を見つけるか。どちらにしても、もうダンジョンには戻れない。

 カイは階段を降りた。一段、また一段。暗闇の中に、自分の足音だけが落ちていく。

 ——明日も来よう。明後日も。何度でも。

 自分にはこれしかないと、三年かけて思い知らされた。ならば、これだけは手放さない。たとえ誰にも認められなくても、この足だけは止めない。

 十一層の冷たい空気が頬を撫でた。遠くで、聞いたことのない魔物の鳴き声がした。

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