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断脈の軍師

第2話 第2話「三日目の稜線」

第2話

第2話「三日目の稜線」

山を越えるのに、三日かかった。

燕赫の記憶にある地図では二日の行程だった。だが地図は、追放された軍師が外套もなく、食糧もなく、凍傷の足を引きずって歩くことを想定していない。三日目の朝、意識が朦朧とする中で稜線を越えたとき、眼下に広がったのは帝国の北辺とは異なる風景だった。

切り立った峰々の間を縫うように谷が走り、痩せた針葉樹が斜面にしがみついている。雪は稜線の北側にだけ厚く残り、南面には灰色の岩肌が剥き出しになっていた。空気が乾いて薄い。帝国領の湿った冬とは違う、骨まで突き刺すような寒さだった。

谷筋に沿って獣道を下った。水を求めて沢の音を追い、苔むした岩の間から湧く細流を見つけて口をつけた。氷のように冷たい水が喉を焼き、空の腹が痙攣した。立ち上がろうとして膝が折れた。視界の端が暗く滲む。

このまま死ぬのか、と思った。追放された軍師が、敵地に辿り着く前に行き倒れる。厳虎が聞けば腹を抱えて笑うだろう。

——だが死ぬわけにはいかない。

歯を食いしばり、岩に手をかけて体を引き上げた。そのとき、前方の木立の間に人影を見た。

いや、人影ではない。六つの影だ。獣道の両側から、音もなく現れた。粗末な毛皮の外套に身を包み、手には山刀と短弓。目つきは飢えた獣そのもので、燕赫を見る眼に人間としての感情はなかった。

野盗だ。国境の山岳地帯には、帝国からも翠嶺衆からも弾かれた無法者が巣食うと聞いていた。

「金目のものを出せ」

先頭の男が山刀を突きつけた。燕赫は両手を広げて見せた。

「見ての通りだ。外套すらない」

男の目が細くなった。金品がなければ、この手の輩は別のものを求める。人身売買か、あるいは単なる殺しか。男の山刀が燕赫の喉元に向けられた瞬間——

風を切る音がした。

先頭の男の手首に矢が突き立ち、山刀が地面に落ちた。悲鳴を上げる暇もなく、二射目が背後の男の肩を貫いた。三射目、四射目。矢は正確に、しかし急所を外して野盗たちの四肢を射抜いていく。殺すためではなく、無力化するための射撃だった。

残った二人が逃げようとした。だが谷の上方から、影が降ってきた。

灰色の毛皮を纏った小柄な人影が、岩場を三歩で駆け下り、先頭の野盗の顎を蹴り上げた。もう一人が山刀を振るったが、人影は半歩で躱し、逆手に握った短刀の柄で側頭部を打った。鈍い音とともに、最後の野盗が崩れ落ちる。

六人。十数息。それだけで終わった。

燕赫の前に立ったのは、長い黒髪を粗く束ねた女だった。年の頃は二十代の半ば。鋭い目は山鷹のそれで、口元には古い刀傷が一筋走っている。右手の短刀からは血の一滴も垂れていない。峰で打ったのだ。

女が燕赫を見下ろした。

「帝国の官服だな」

声は低く、平坦だった。感情を削ぎ落とした声。だがその奥に、硬い石のような何かが潜んでいることを、燕赫は直感で察した。

「元、だ」燕赫は答えた。「三日前に追放された」

女の目が微かに動いた。背後の岩場から、さらに四つの影が降りてくる。いずれも女と同じ灰色の毛皮を纏い、短弓か山刀を手にしていた。統制の取れた動き。野盗とは比較にならない練度。

翠嶺衆だ。

燕赫はそう確信した。そして同時に、この女が何者であるかも。辺境民族の斥候部隊を率い、単身で野盗を制圧する身のこなし。報告書に記されていた名前が、記憶の底から浮かび上がった。

嵐華。翠嶺衆の女将。

嵐華は燕赫の顔を無表情に見つめたまま、背後の部下に顎で合図した。二人の斥候が燕赫の両腕を掴み、後ろ手に縛り上げた。麻縄が凍傷の手首に食い込み、鈍い痛みが走った。

「帝国の間者を一人、確保した。本拠へ連れて帰る」

「間者ではない」

「帝国の人間が、国境を越えてこの山に入る理由は二つしかない。間者か、侵略か。どちらにせよ、扱いは同じだ」

嵐華の声には、反論を受け付ける余地がなかった。燕赫は口を閉じた。ここで弁明を重ねても意味がない。この女は言葉ではなく、事実で判断する人間だ。軍師の目はそれを読み取っていた。

山道を半日歩かされた。斥候たちは燕赫を囲むようにして進み、一言も口を利かなかった。嵐華は常に先頭を歩き、一度も振り返らなかった。

翠嶺衆の本拠は、三方を断崖に囲まれた谷の奥にあった。天然の要塞だ。入口は狭い隘路が一本だけで、上方の岩棚には見張りが配置されている。燕赫は縛られたまま、軍師の目でその地形を読んでいた。攻め手から見れば悪夢のような地形だ。だが裏を返せば、退路も一本しかない。追い詰められれば逃げ場がなくなる。

本拠の中央に焚火があり、その周囲に粗末な天幕が並んでいた。燕赫は焚火の前に引き据えられ、膝をつかされた。周囲に集まってきた翠嶺衆の民たちが、敵意と好奇の入り混じった目で見つめている。女、子供、老人の姿もある。戦士だけの集団ではない。民族ごと、山に追われた人々だ。

嵐華が焚火の向こう側に腰を下ろした。炎が彼女の顔を照らし、頬の刀傷を深い影に変えた。

「名を聞こう」

「燕赫。元帝国宮廷軍師」

周囲にざわめきが走った。軍師という言葉に、何人かの戦士が腰の武器に手をかけた。嵐華は片手を上げてそれを制した。

「宮廷軍師が、なぜ一人で山を越えてくる」

「追放されたからだ」

「追放された軍師が、よりによって翠嶺衆の領域に来る。偶然とは思えんな」

燕赫は黙った。偶然ではないからだ。だが今それを言えば、間者の疑いが確信に変わるだけだ。

嵐華は燕赫の沈黙を見て、わずかに目を細めた。

「十二年前」

唐突に、嵐華は語り始めた。声の温度が一段下がっていた。

「帝国の征討軍がこの山に入った。焦土作戦と呼んでいたな、お前たちは。村を焼き、畑を焼き、逃げる民を追い立てた。私は八つだった。燃える家の中から弟を引きずり出して、二日二晩、山を越えた。背中の弟は泣き続けていたが、途中から泣き声が止んだ。衰弱していた。振り返る余裕はなかった。ただ歩いた」

焚火が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、闇に散った。

「一族の半分が死んだ。残りの半分で、この谷に辿り着いた。それから十二年、帝国に奪われたものを取り返すために牙を研いできた」

嵐華の目が、炎越しに燕赫を射抜いた。

「帝国の人間は全員、敵だ。軍師であろうと、追放された者であろうと。お前を生かしておく理由はない」

静かな宣告だった。周囲の戦士たちが頷き、幾人かは既に刃を抜いていた。処刑は決定事項であり、これは通告に過ぎないのだと、空気が告げていた。

燕赫は焚火の炎を見つめていた。揺れる炎の中に、嵐華の言葉が描いた光景が見えるようだった。燃える村。泣き叫ぶ子供たち。それを命じた帝国の将軍は、おそらく軍議の間で「蛮族を掃討した」と報告し、功を誇ったのだろう。燕赫がまだ白淵のもとで兵法を学んでいた頃の話だ。

殺されても仕方がない、と思った。帝国の軍師として七年を過ごした人間に、その資格がないとは言えない。

だが——仕方がないことと、ここで死ぬこととは別だ。

燕赫は顔を上げた。

「殺すのは構わない」

声は平坦だった。恐怖を押し殺しているのではなく、恐怖の先にある冷徹な計算が、声を支えていた。

「だが、俺を殺せば、帝国に勝つ機会も一緒に捨てることになる」

嵐華の目が、わずかに揺れた。それは怒りでも興味でもなく、不意を突かれた獣が一瞬だけ見せる、本能的な警戒の色だった。

周囲の空気が変わった。刃を抜いていた戦士たちの手が止まり、焚火の周囲に沈黙が落ちた。

嵐華は立ち上がらなかった。座ったまま、燕赫を見据えていた。炎が二人の間で揺れている。

「続けろ」

一言だった。だがその一言は、刃を止めた。

燕赫は嵐華の目を真っ直ぐに見返した。

「帝国全軍の配置、補給路、各将軍の用兵の癖——全てこの頭の中にある。追放された軍師ほど危険な存在はないと、帝国はまだ気づいていない。だが、あんたなら分かるはずだ。牙を研ぐだけでは、帝国は倒せない」

嵐華は答えなかった。ただ、わずかに目を細めた。その仕草の中に、燕赫は読み取った——拒絶ではなく、値踏みだ。この女は、感情で人を裁くように見えて、その奥では冷徹に利を量っている。

長い沈黙の後、嵐華は背後に控えていた白髪の老人に目を向けた。老人は腕を組んだまま、燕赫を観察していた。参謀格と見える。鋭いが穏やかな目。戦場ではなく、人を見てきた目だった。

「蒼梧」嵐華が呼んだ。「どう見る」

老人——蒼梧は、しばらく燕赫の顔を眺めてから、低く答えた。

「嘘は言っておらん。少なくとも、追放されたという部分はな。この痩せ方、凍傷、目の据わり方——芝居で作れるものではない」

「だが帝国の罠という可能性もある」

「ある。だが」蒼梧は顎髭を撫でた。「帝国が罠を仕掛けるなら、もう少し上手くやる。軍師を半死半生で送り込む手は、下策にもほどがある」

嵐華は再び燕赫に目を戻した。

「今夜は生かしておく。だが信用したわけではない。明日から試す。帝国の軍師を名乗るなら、それに見合うものを見せろ」

燕赫は小さく頷いた。それ以上の言葉は不要だった。

天幕の隅に押し込まれ、手足を縛られたまま横たえられた。見張りが二人ついている。逃げる気も、逃げる体力もなかった。

薄い毛布を一枚投げ与えられた。誰が寄越したのかは分からない。だがその一枚が、三日ぶりの温もりだった。

天幕の隙間から、夜空が細く見えた。雲が切れ、星が一つだけ覗いている。

帝国の空と同じ星だ。だが、もう帝国の星ではない。

眠りに落ちる直前、嵐華の声が耳に残っていた。帝国の人間は全員、敵だ——その言葉の奥にあった、十二年分の炎の熱を、燕赫は確かに感じていた。

明日が来る。試しが始まる。

燕赫は目を閉じた。凍えた体の奥で、軍師の頭脳が静かに動き始めていた。

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