第1話
第1話「央嶺の雪の正門」
雪が、音もなく降っていた。
王都・央嶺の正門から続く街道に、ひとつの影が放り出された。衛兵二人に両腕を掴まれ、石畳の上に膝から崩れ落ちたその男——燕赫は、背後で閉じられる鉄門の軋みを、妙に遠い音として聞いていた。
七年だ。
七年のあいだ、帝国宮廷軍師として戦図を描き、兵の命を数え、勝ち筋を紡いできた。献策は四十七。採用されたものは、そのうち三十一。棄却された十六のうち、十一は後に燕赫の読み通りの戦況が訪れ、帝国は兵を失った。だが数字は宮廷では意味を持たない。武断派の将軍たちが握る軍議の卓では、声の大きさだけが正義だった。
燕赫は膝の泥を払おうともせず、空を仰いだ。灰色の雲の底から、白い粒が際限なく落ちてくる。頬に触れた雪片が溶け、冷たい筋となって顎を伝った。
——無能。
皇帝・央明が玉座から投げ下ろした、たった二文字の烙印。その声は怒りですらなく、虫を払うような無関心だった。それが何より堪えた。憎まれるならまだ存在を認められている。だが無関心は、七年の全てを無に帰す。
懐から官印が消えていることに気づいたのは、門が完全に閉まった後だった。剥奪ではなく、いつの間にか抜き取られていた。丁寧な侮辱だ、と燕赫は唇の端を歪めた。官印を握り続けた右手の掌に、四角い圧痕だけが赤く残っている。七年分の重みが刻んだ痕だった。もう二度と、あの冷たい銅の感触が掌に戻ることはない。
立ち上がる。足元の石畳は薄く凍りつき、粗末な官靴では踏ん張りが利かない。防寒の外套すら与えられなかった。追放とはそういうものだ——生かすが、生きることは保証しない。
街道を北へ歩き始めた。王都の城壁が背後に遠ざかるにつれ、建物の影が途切れ、風が容赦なく吹きつけてくる。指先の感覚が薄れていく。だが足は止めなかった。止まれば凍える。凍えれば死ぬ。死ねば、あの将軍たちの哄笑が正しかったことになる。
それだけは、許せなかった。
三日前の軍議が、歩くたびに脳裏で再生される。
「北方防衛線の構築を進言いたします」
燕赫が広げた地図には、帝国の北辺を覆う山岳地帯の地形が精緻に描かれていた。三月をかけて自ら踏査した稜線の起伏、水源の位置、冬季に通行可能な隘路の幅——それらを一寸の狂いもなく写し取った自負がある。辺境民族の動きが活発化している。翠嶺衆と呼ばれる山岳の民が、帝国の徴税官を三度にわたって追い返した。小事に見えるが、燕赫の目にはそうではなかった。
「翠嶺衆は烏合の衆ではありません。統率された軍事行動の兆候があります。このまま放置すれば、北西回廊の補給線が脅かされる。回廊が断たれれば、前線の三個軍団は——」
「黙れ」
武断派の筆頭、征北将軍・厳虎が卓を叩いた。熊のような体躯に、戦場で得た無数の傷痕を誇るように晒す男。その声は軍議の間を震わせるに十分だった。
「山の蛮族ごときに防衛線だと? 臆病者の妄想を聞かされる身にもなれ、燕赫。お前の策はいつもそうだ。戦わずに済む方法ばかり考えおって」
周囲の将軍たちから、同調する笑いが漏れた。文官上がりの軍師を快く思わない者は多い。厳虎の言葉は、彼らの本音を代弁していた。
燕赫は歯を食いしばり、卓上の地図を指で叩いた。
「数字をご覧ください。北西回廊の輸送量は月あたり穀物三千石。これが途絶えれば、前線は四十日で兵糧が尽きます。四十日です、将軍。蛮族を侮るかどうかの問題ではなく、兵站の構造的な——」
「兵站、兵站と」厳虎は鼻で笑った。その太い指が、燕赫の地図の上に無造作に置かれた。まるで地図そのものを踏みにじるように。「戦は帳簿ではない。お前のような書斎の虫に何が分かる。俺はあの山を自分の足で越えたことがある。蛮族どもは冬になれば穴に潜る。春まで待てば勝手に静かになるわ」
反論の言葉が喉まで出かかった。冬に潜るのは旧来の翠嶺衆の習性であり、今季の動向はそれと明らかに異なる——だが、燕赫は将軍たちの目を見回して、口を閉じた。誰一人として地図を見ていなかった。彼らが見ているのは厳虎の顔色だけだった。
皇帝の視線が、すでに燕赫から逸れていた。央明帝は厳虎に頷き、「北方は現行の守備で足りる」と裁可を下した。
その瞬間、燕赫は悟った。これは軍略の問題ではない。宮廷における力学の問題だ。武断派が軍権を握り、文治派の軍師は飾りに過ぎない。七年かけて築いた信頼など、最初から存在しなかったのだ。
そして三日後、北方防衛線の献策を「帝国の軍事機密を外敵に漏洩する意図があった」と曲解する弾劾書が提出され、燕赫は即日追放された。弾劾の首謀者が厳虎であることは明白だったが、皇帝は調査すら命じなかった。
——無能。
あの二文字は、厳虎の台本通りだったのだろう。
雪の街道を歩きながら、燕赫は自嘲した。七年間、策を練り、勝ち筋を示し、兵を死なせぬ道を探し続けた。だがその全てを守る策——己の身を守る策だけは、持ち合わせていなかった。
師ならば笑うだろうか。
白淵。帝国でただ一人、「軍師」の名に値した老人。十五の燕赫を拾い、兵法と天文と地理と人心を叩き込んだ。もう一人の弟子——兄弟子の玄冥とともに、山中の庵で竹簡を読み、砂盤の上で仮想の戦を幾百と繰り返した日々。
師が燕赫に言った言葉がある。
「玄冥は天才だ。だがお前には、玄冥にないものがある」
何ですか、と問うた燕赫に、白淵は答えなかった。ただ笑って、「いずれ分かる」とだけ言った。師は翌年の冬に没し、その答えは永遠に失われた。
今なら分かるだろうか。
分からない。分かるのは、足の感覚がなくなりつつあることと、このまま街道を歩き続ければ明日の朝には凍死体になるということだけだ。
風が一段と強まった。雪が横殴りに叩きつけ、視界が白く塗り潰される。薄い官服の隙間から冷気が肌を刺し、骨の芯まで震えが伝わってくる。唇の感覚はとうに失われ、吐く息だけが白く短く途切れていた。街道沿いの枯れ木が風に軋む音が、まるで嘲笑のように聞こえた。
だが、燕赫の頭は止まらなかった。
追放の混乱の中でも、軍師の脳は勝手に動いていた。七年間で目にした全ての軍事情報——帝国全軍十二万の配置、兵站経路の詳細、各将軍の用兵の癖、武器庫の備蓄量、烽火の伝達経路。それらが燕赫の記憶の中に、一枚の巨大な地図として刻まれている。
官印は奪われた。地位は剥がされた。だが、この頭の中身だけは、誰にも奪えない。
北西回廊。
歩きながら、燕赫はその一点を反芻していた。帝国の補給線は、北西回廊の一本に過度に依存している。燕赫が防衛線の構築を進言したのは、まさにその脆弱性を補うためだった。厳虎はそれを「臆病者の妄想」と切り捨てた。
ならば。
もしその脆弱性を、帝国の外側から突く者が現れたら。
燕赫は足を止めた。街道の先に、山岳地帯の稜線が雪雲の下にうっすらと見えていた。あの山の向こうに、翠嶺衆がいる。帝国に故郷を焼かれ、復讐を誓う辺境の民が。
祖国への叛逆。その言葉が脳裏をよぎり、燕赫は一瞬だけ目を閉じた。
瞼の裏に、軍議の間の光景が蘇る。地図を見ようともしない将軍たち。虫を払うように目を逸らした皇帝。そして厳虎の、あの勝ち誇った薄笑い。胸の奥で、凍えかけた怒りが静かに熱を取り戻していくのを感じた。
七年間、燕赫は帝国のために考え続けた。眠れぬ夜に蝋燭の灯りで地図を睨み、一兵でも多く生きて帰す道を探した。名も知らぬ兵士たちの命を、数字の向こうに透かし見ようとした。その全てを「無能」の二文字で踏み潰した国に、もはや忠義を捧げる理由があるだろうか。
ない。
ならば、この頭は——もう帝国のためには使わない。
目を開いたとき、その目に宿っていたのは、王都の門前で膝をついていた男のものではなかった。
追放された軍師ほど危険な存在はない。帝国の全てを知り、帝国に何も失うものがない人間。厳虎も、皇帝も、その意味をまだ理解していない。
燕赫は外套のない肩に積もった雪を払い、山岳地帯へ向かって歩き始めた。足裏の感覚はもうほとんどなかったが、胸の内に灯った熱が、凍えた体を内側から支えていた。雪は止む気配がなかった。だが足取りは、もう震えてはいなかった。