第3話
第3話
灰樹の迷宮は、街から北西に二日——のはずだった。
カイは丸一日、行程を短縮した。街道を使わず、ヌルの魔素感知で獣道の安全な経路を割り出し、丘陵地帯を直線的に抜けたのだ。低層ダンジョン通いで磨いた連携が、移動の段階からすでに効いている。
迷宮の入口は、灰色の樹皮に覆われた崖壁の裂け目だった。周囲の植生が明らかにおかしい。通常の森林とは異なり、木々の幹も葉も一様に灰色がかっている。光合成を捨て、地中から滲み出る魔素を直接吸い上げて育つ変異種だ。幹に触れると、木肌が微かに脈動しているのが分かった。生きている。だが温かくはない。
裂け目の手前に、ギルド協会が設置した警告板があった。赤い文字で等級制限と未帰還者数が記されている。カイは読み終えると、ヌルを肩に乗せ直した。
「行くぞ」
正規の受注はしていない。Eランクのフリー探索者に受注資格はない。だがダンジョンそのものに入場制限はなく、自己責任で潜ること自体は協会規定で禁じられていない。報酬は出ないが、採取した素材は持ち帰れる。建前としては「自主訓練」だった。
第一層に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
苔石の穴蔵とは別次元の圧が肌を押す。魔素の濃度が段違いに高い。呼吸するだけで喉の奥がぴりぴりと痺れ、視界の端がわずかに歪む。灰色の樹木が通路の壁面から天井まで根を這わせ、時おり枝先が風もないのにゆらりと揺れた。
ヌルが即座に体内の発光パターンを変えた。通常の照明用の青白い光ではなく、短く明滅を繰り返す警戒モード。周囲の魔素濃度を体表面で感知し、異常があれば明滅の間隔を狭めてカイに伝える。二人の間に言葉はいらない。
第一層の構造は、灰色の樹根が天然の壁と通路を形成した迷路だった。地図は第三層までしか存在しない。カイはそれを記憶していたが、地図通りの道を辿らなかった。
「ヌル、床」
ヌルが肩から飛び降り、液状化して床面に広がった。数秒後、体を元に戻したヌルの明滅パターンが変化する。三回短く、一回長く。カイが三日前に決めた合図——前方に圧力式の罠がある。
カイは壁際の樹根に手をかけ、体を持ち上げた。床面を踏まずに樹根を伝って罠の上を通過する。テイマーの教本には載っていない動きだ。だが低層で繰り返した訓練が、樹根の太さと耐荷重を瞬時に見極める感覚を叩き込んでいた。
第一層で罠を四つ回避し、灰樹蟲——樹皮に擬態する甲虫型の魔物——を六体処理した。灰樹蟲は擬態中は見分けがつかないが、ヌルが樹根の中を浸透して移動し、背後から魔素の揺らぎを送ることで位置を特定できた。カイが石を投げて擬態を解かせ、露出した腹部の甲殻の隙間を短剣で突く。パーティ戦の常識なら「斥候が発見し、前衛が引きつけ、後衛が仕留める」ところを、ヌルの浸透偵察とカイの直接攻撃で二工程に圧縮していた。
第二層への階段は、巨大な灰色の幹がねじれて形成した螺旋構造だった。降りるにつれ魔素の濃度が肌で分かるほど上がる。第二層は第一層よりも天井が高く、灰色の枝が複雑に絡み合ってドーム状の空間を作っていた。遠くで水の滴る音が反響している。
ここでカイは地形を利用した戦術を本格的に試した。灰樹蟲の上位種——灰樹蟷螂が三体、ドームの中央に陣取っていた。鎌状の前脚は短剣では受けきれない。正面からやり合えば、Bランクの前衛でも苦戦する相手だ。
カイは戦わなかった。
ヌルをドームの天井付近まで樹根を伝わせて移動させ、上方から燐光を一瞬だけ強く発光させた。三体の灰樹蟷螂が一斉に天井を見上げる。その隙にカイはドームの壁際を走り抜け、反対側の通路に滑り込んだ。ヌルは天井の樹根の隙間に浸透し、壁の中を通って通路の先でカイと合流する。
戦わずに抜ける。倒す必要のない敵は倒さない。消耗を最小限に抑え、奥へ進む。ソロの人間とスライム一匹では、持久戦になった瞬間に詰む。だから詰まない立ち回りを選ぶ。蒼穹の剣にいた頃なら「臆病者」と笑われただろう。だがここでは、それが生存と同義だった。
第三層を抜け、第四層に足を踏み入れたとき、空気の質がさらに変わった。
魔素の濃度だけではない。匂いだ。灰色の樹木の樹液に混じって、鉄錆の匂いが薄く漂っている。カイの足が止まった。苔石の穴蔵では嗅ぎ慣れた匂いだが、ここで嗅ぐそれは意味が違う。
通路の先に、それはあった。
折れた長槍が壁に立てかけられている。刃は半ばから欠け、柄には乾いた血痕がこびりついていた。その傍らに革の背嚢が二つ、口を開けたまま放置されている。中身は散乱し、保存食の包みが踏み潰され、回復薬の瓶が割れて液体が床に染みを作っていた。液体はとうに乾き、黒ずんだ痕跡だけが残っている。
カイはしゃがみ込み、背嚢の一つを調べた。内側に所有者の名前が縫い込まれている。知らない名前だった。だが背嚢の底に、ギルド所属を示す布章が丸まっていた。広げると——鉄槌を模した紋章。Bランクギルド「鉄床」の章だ。
未帰還パーティの一つ。ここまでは来たということだ。そして、ここから先には進めなかった。
もう一つの背嚢の傍に、短い手記が落ちていた。革表紙の手帳で、最後のページだけが開いていた。
『第四層中央広間にて撤退を決定。蟷螂の群れに包囲され、ライナが重傷。帰路を——』
文はそこで途切れている。インクが乱れ、最後の文字は判読できない。帰路を確保できなかったのか、書いている途中で何かが起きたのか。
カイは手帳を元の位置に戻した。持ち去るべきではない。だがこの場所の位置と状況は記憶した。生還したら協会に報告する。それが探索者としての最低限の礼儀だった。
立ち上がり、ヌルを見る。スライムの明滅は安定している。第四層の魔素濃度はヌルの感知範囲内に収まっているらしい。だが発見した痕跡は、このダンジョンの危険度を改めて突きつけていた。Bランクパーティが壊滅する場所に、Eランクのテイマーが一匹のスライムと立っている。
それでも引き返す気にはならなかった。ここまで来て分かったことがある。灰樹の迷宮は、力押しでは攻略できない。力で来た者たちは、力で砕かれた。だがカイの戦い方は力ではない。情報と位置取りと、ヌルという他の誰にもない手札。それが通用するかどうかを確かめるには、もう少し先に進む必要があった。
第五層への入口は、第四層の最奥にぽかりと口を開けた縦穴だった。灰色の樹根が螺旋状に絡み合い、天然の梯子のようになっている。下から吹き上げる風は冷たく、魔素の濃度が一段跳ね上がるのを肌が感じ取った。
カイが縦穴の縁に立ったとき、肩の上のヌルが突然動いた。
カイの肩から飛び降り、床を滑り、縦穴の脇の壁面に張りついたのだ。カイが呼びかけるより先に、ヌルの体が壁面に沿って薄く広がった。浸透の前段階——対象の表面に密着し、内部構造を感知する動き。だが今のヌルは、いつもと様子が違った。
体内の燐光が、今まで見たことのない色を帯びていた。青白い光に、かすかに銀の筋が混じっている。明滅のリズムも速い。警戒ではない。興奮でもない。カイがこれまでヌルと過ごしてきた二年間で、一度も見たことのない反応だった。
「ヌル、何が——」
壁面に密着したヌルの体が、ゆっくりと壁の内部に沈み始めた。灰色の樹皮の隙間に、半透明の体が染み込んでいく。浸透だ。だがこれまでの偵察とは違い、ヌル自身がそうしたがっているように見えた。カイの指示ではなく、ヌルの意思で壁の中に入っていこうとしている。
銀の燐光が壁面の奥に吸い込まれ、薄れていく。
「——ヌル!」
カイの声が縦穴に反響した。返事はない。壁面に手を押し当てる。冷たい樹皮の感触の奥に、かすかにヌルの魔力残滓が感じ取れた。まだ近くにいる。だが壁の向こう側だ。
カイは壁に額を押しつけ、耳を澄ませた。樹根が軋む音。水が滴る音。その奥に——微かに、本当に微かに、ヌルの燐光が壁の内側で脈打っているのが、指先に伝わる振動で分かった。
何かがある。この壁の向こうに、ヌルを引き寄せる何かが。