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無能の軍師は大陸を謀る

第1話 第1話

第1話

第1話

軍議の間に、死の匂いが漂っていた。

燕嶺の都城・翠央の軍府大広間。石壁に掛けられた大陸全図の前に、十二人の将官が居並ぶ。松脂の灯火が揺れるたび、地図の上に描かれた五カ国の領土が生き物のように蠢いた。石畳の床からは冬の底冷えが這い上がり、将官たちの吐く息が灯火の熱に巻かれて天井へ昇っていく。広間を満たすのは松脂の甘い煙と、甲冑の金属が擦れ合う微かな軋み。そして、誰もが感じていながら口にしない——焦燥の気配だった。

「鉄嵐が新兵器を実戦配備した」

大将軍・魏昌の声が、広間の空気を凍らせた。五十を過ぎてなお巌のような体躯を持つ男は、手にした竹簡を卓上に叩きつけた。乾いた竹の音が石壁に跳ね返り、広間に二度響く。

「名を轟雷砲という。城壁を一撃で砕くと、国境の間者が伝えてきた」

諸将の間にどよめきが走る。燕嶺は大陸中央に位置する小国だ。東に鉄嵐、西に蒼覇、南に明渠——五つの大国に四方を囲まれた緩衝国家である。軍事力では五カ国の最末席。その均衡を保ってきたのは、どの大国も燕嶺を潰せば他の四国が動くという恐怖の天秤に過ぎなかった。

新兵器は、その天秤を壊す。

広間の末席で、陸文淵は息を詰めていた。

末席軍師。それが、この男に与えられた肩書のすべてだった。三十二歳。痩躯に地味な灰色の官服をまとい、髪は無造作に束ねている。将官たちの華美な甲冑の列に紛れれば、書記官と間違われる風貌だ。実際、この場にいることすら忘れられているのだろう。文淵の席には茶すら運ばれていなかった。

「虎牙関の守備を倍にすべきです」と副将の一人が進言した。

「いや、先手を打って鉄嵐の砲兵工廠を叩くべきだ」と別の将が声を上げる。

議論は沸騰した。だが文淵の耳には、その言葉の一つ一つが空を切る矢のように聞こえていた。的を射ていない。誰も、轟雷砲という兵器そのものを見ていない。

文淵は間者の報告書を三度読み返していた。砲身の長さ、車輪の数、斉射の間隔——断片的な情報の中に、一つの綻びが浮かび上がっている。装填だ。従来の投石機とは比較にならない破壊力を持つ代わりに、装填に致命的な時間を要する。その間、砲を守るために護衛兵力が砲の周囲に集中する構造になっているはずだった。

文淵の指先が、竹簡の縁をなぞる。間者の走り書きには「砲身の周囲に常時二十名の護衛兵」とあった。二十名。砲一門につき二十名を張りつけなければならないということは、鉄嵐の側もこの兵器が装填中に無防備になることを認識しているという証左だ。弱点を知っているから守りを固めている。だが守りを固めるほど、その弱点の存在を際立たせていることに、諸将の誰も気づいていない。

「——大将軍」

文淵は立ち上がった。椅子の脚が石畳を擦り、甲高い音が広間に響く。広間の視線が、一拍遅れて末席に集まる。

魏昌の眉が不快げに歪んだ。

「陸文淵か。何だ」

「轟雷砲には構造的な弱点があります。装填の間隙——」

「黙れ」

魏昌の一喝が、文淵の言葉を断ち切った。広間にくぐもった笑いが漏れる。

「また始まったか、口だけの軍師殿が」

「先の北辺防衛でも大言壮語して、結果はどうだった」

嘲りの声が四方から降る。文淵は唇を引き結んだ。北辺防衛。あの時、文淵は伏兵を用いた迎撃策を献じた。魏昌はそれを退け、正面からの力押しを選んだ。結果、燕嶺軍は三千の兵を失い、辛うじて防衛線を維持した。だが記録には「陸文淵の策を採用したが効果なく、大将軍・魏昌の英断により危機を脱した」と記されている。

改竄だった。

文淵の策が正しかった記録は、すべて書き換えられていた。二年前の間道封鎖策も、一年前の兵站改革案も、文淵が献じて魏昌が握り潰し、失敗すれば文淵の責任にされ、成功の芽があれば魏昌の手柄として記録が残る。その繰り返しを、文淵は六年間耐えてきた。

声を上げるたびに嘲笑され、黙れば存在を忘れられる。それでも文淵が軍師の席を離れなかったのは、燕嶺という国が——五大国の狭間で息をするように生きるこの小国が、正しい策なしには明日をも知れぬと骨身に染みていたからだ。

「大将軍」文淵はもう一度、声を発した。嘲笑の中に、低く、しかし折れない声を。「轟雷砲の情報が正しければ、虎牙関の守備を倍にしても意味がありません。城壁ごと砕かれます。砲兵工廠への先制攻撃は、鉄嵐に開戦の口実を与えるだけです。いずれも——」

「末席風情が、諸将の策を否定するか」

魏昌が卓を拳で打った。灯火が大きく揺れ、壁の地図に影が走る。

「お前の『正しい策』とやらが一度でも実を結んだことがあるか。記録を見ろ。お前が関わった作戦は、ことごとく失敗している」

その言葉が広間の空気を決定づけた。将官たちの顔に浮かぶのは、もはや嘲笑ですらなく、厄介者を見る倦んだ目だった。右隣に座る参軍は露骨に身を引き、文淵との間に半歩分の距離を作った。左隣の席は最初から空席だった。誰も文淵の隣には座りたがらない。大将軍に睨まれた男の隣は、毒を塗った椅子と同じだ。

文淵の拳が、袖の中で白くなるほど握り締められた。記録を見ろ。その記録を書き換えたのは誰だ。だが、それを言えば軍への反逆と見なされる。証拠はない。原本は魏昌の手の者が管理している。

喉の奥に言葉が溜まる。六年分の反論が、飲み込んだ怒りが、胃の底で酸っぱく焼けていた。爪が掌に食い込み、鈍い痛みが怒りの代わりに意識を占める。その痛みだけが、この場で声を荒げることを辛うじて止めていた。

「……失礼しました」

文淵は頭を下げ、末席に座り直した。視界の端で、若い文官が気まずそうに目を逸らすのが見えた。憐れみの視線。それが何よりも文淵の胸を灼いた。

軍議は文淵の発言がなかったかのように進んだ。虎牙関の増援が決まり、国境警備の強化が命じられ、諸将は満足げに頷き合う。城壁を砕く砲に対して、城壁の守りを固めるという愚策に。

文淵は末席で、手元の竹簡に目を落としていた。轟雷砲の構造推定図。装填間隙の計算。護衛配置の予測。誰にも求められていない策が、そこに緻密に書き連ねられている。

六年間、文淵が積み上げてきたものは、この竹簡の中にしかなかった。

——いつか。

いつか、この声が届く日が来るのか。それとも、燕嶺が灰になるのが先か。

文淵がその問いを噛み殺した、まさにその時だった。

大広間の窓硝子が、びりびりと震えた。

遠雷——ではない。大地そのものが唸るような重低音が、南の方角から押し寄せてくる。一度。二度。三度。等間隔の轟音が、翠央の城壁を越えて軍府の石壁を揺らした。卓上の茶碗が震え、灯火の油が波紋を刻んだ。石壁に掛けられた大陸全図が留め具ごと傾き、五カ国の領土線が歪む。まるで大陸そのものが軋んでいるかのようだった。

諸将が立ち上がる。椅子が倒れ、茶碗が砕ける音。魏昌の顔から血の気が引いた。つい先ほどまで威厳に満ちていた巌のような顔が、灯火の下で土色に変わっていく。

「虎牙関の方角だ——」

誰かが叫んだ。

文淵は立ち上がらなかった。手元の竹簡を静かに巻き、懐に収めた。轟音の間隔を数えていた。一射ごとに約二百息。装填時間の推定と一致する。

轟雷砲だ。

実戦投入は想定より早かった。だが、弱点も想定通りだ。

広間が恐慌に呑まれる中、末席の軍師だけが、凍りついた目で南の空を見据えていた。虎牙関の方角。夜空の低い位置が、かすかに赤い。城壁が砕かれ、火の手が上がっている。百里の彼方の炎が、ここから見えるほどの業火。焦げた石と硝煙の幻が鼻腔をかすめた気がした。百里の距離が嘘のように、戦場の匂いが文淵の感覚を侵していた。

周囲では将官たちが怒号を飛ばし、伝令を呼び、甲冑の音を鳴らして出口に殺到していた。その喧騒が、文淵の耳には遠い。四度目の轟音が来た。五度目。六度目。等間隔は崩れない。砲手の練度は高い——だが、装填に要する時間そのものは短縮できていない。物理法則は練度では越えられない。やはり、そこが急所だ。

——聞かなかったな。

誰も、最後まで聞かなかった。

文淵は懐の竹簡に手を当てた。その重みだけが、自分の六年間が無駄ではなかったという唯一の証だった。

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