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零の解析眼

第2話 第2話「打ちっぱなしの天井」

第2話

第2話「打ちっぱなしの天井」

意識が戻ったとき、最初に感じたのは痛みだった。

全身が軋んでいる。右脚は鈍く疼き、背中のどこかが裂けたように熱い。呼吸をするたびに肋骨の奥が押されるような圧迫感がある。瞼を開けると、見慣れない天井が目に入った。コンクリートの打ちっぱなし。蛍光灯が一本だけ点いていて、青白い光が狭い部屋を照らしている。空気は冷たく、かすかに埃と消毒液の匂いが混じっていた。

——ここは、どこだ。

身体を起こそうとして、腹筋に激痛が走った。うめき声が漏れる。視界が白く明滅し、こめかみに汗が浮く。見下ろすと、制服の上から腹部に包帯が巻かれていた。応急処置にしてはしっかりしている。誰かがやったのか。

記憶を辿る。廃倉庫。暴走者。黒い靄。逃げて、転倒して——それから、壁を吹き飛ばした男。

「起きたか」

声は部屋の隅から聞こえた。

振り向くと、パイプ椅子に腰を下ろした男がいた。黒いコート。切れ長の目。廃倉庫で見た、あの男だ。片手で暴走者を制圧した——ランク【極】の異能者。

缶コーヒーを傾けながら、男は俺を見ていた。観察するような、品定めするような視線。獣の前に置かれた肉の気分だ。喉が渇いていることに気づいたが、水をくれとは言えなかった。

「……助けてもらったんですか」

「制圧班が来るまで放っておいてもよかったが、あのままだと腐食に巻き込まれていた。面倒だから回収した」

面倒だから。その一言で済ませる声色に、感謝を求める気配は微塵もない。

「あの暴走者は」

「番匠会の回収班が引き取った。命に別状はない」

番匠会。裏社会の異能者を統括する上位機関の名前だ。【零】の俺が直接関わることはない遠い存在。この男がその名前をさらりと出すこと自体が、格の違いを物語っている。

男が缶コーヒーを潰し、立ち上がった。アルミが歪む乾いた音が、静かな部屋に響く。長身が蛍光灯の光を遮り、影が俺の上に落ちる。

「もう一度訊く。あの暴走者の攻撃——お前には見えていたな」

同じ言葉。廃倉庫で意識を失う直前に聞いた問いかけ。心臓が嫌な速さで脈打ち始める。

「見えていた、というのが何を指しているのか——」

「誤魔化すな」

声の温度が一段下がった。圧、というほどではない。だが有無を言わさない重さがある。

「お前は逃げ回っている間、あの靄の動きを感応で捉えていた。方向も、密度の変化も。だからあの状況で三分以上生き延びた。【零】の感応能力だけなら、三十秒で死んでいる」

息が詰まった。この男は——見ていたのか。最初から。助けに来たのではなく、観察していた。俺が逃げ、転び、這いずり回る様を、あの暗い倉庫の中からずっと。その事実が背筋を凍らせた。

「それだけじゃない。お前は最後の瞬間、あの靄の中に走る構造線を視た。異能の気配じゃなく、能力そのものの骨格を。違うか」

違わない。あの一瞬だけ見えた、靄の中を貫く細い光の線。感応能力とは明らかに異質な、もっと深い層の知覚。自分でも何が起きたのかわからなかったが、この男はそれを正確に言い当てている。

「……見えました」

認めた。嘘をつく意味がなかった。この男の前では、取り繕いが通用しない。それは能力以前の、人間としての格の差だ。

「一瞬だけです。靄の中に——線みたいなものが走っているのが見えた。それが何なのかはわからないです」

男が俺の目を覗き込んだ。至近距離で見るその瞳は、暗い灰色をしていた。底の見えない色だ。その視線に射抜かれて、まばたきすらできなかった。

「解析眼」

聞いたことのない言葉だった。だが、その音の響きが胸の奥の何かに触れた。名前がつく前から、ずっとそこにあったものに。

「異能の構造を視覚情報として捉える知覚型の能力だ。感応能力の上位互換——いや、正確には別系統だな。感応は気配を拾うだけだが、解析眼は能力の設計図そのものを読む」

「設計図を……読む」

自分の声がかすれていた。理解が追いつかない。【零】の俺に、そんな能力があるはずがない。査定は何度も受けた。結果はいつも同じ——感応微弱、戦闘不適、配置推奨なし。

「お前のそれは原型だ。まだ完全には開いていない。だが素体としての精度は高い。あの暴走者の腐食能力の構造線を、初見で一瞬でも捉えたなら——鍛えれば使い物になる」

男が一歩退いた。そしてコートのポケットに手を突っ込んだまま、感情の読めない目で俺を見下ろした。

「鳳城ソウマ。番匠会直属の特務異能者だ。ランクは【極】——お前が感じた通りのものだと思え」

鳳城ソウマ。【極】。その名前が俺の中で像を結ぶ前に、鳳城は続けた。

「お前を引き取る」

一瞬、言葉の意味が処理できなかった。

「……引き取る?」

「お前の管理元は堂島の下の末端組織だろう。話はつける。今日からお前は俺の管理下に入る」

「待ってください。なんで——俺は【零】ですよ。戦力にならない。組織の囮要員で、それ以上の価値は——」

「価値があるかどうかは俺が決める」

遮られた。静かだが、絶対的な断定だった。

「お前が自分を無価値だと思っているのは勝手だ。だが俺の目は、お前の目と同じで——見えたものを無視できない性分でな」

鳳城がドアに手をかけた。この部屋を出ていくつもりらしい。

「鳳城さん——」

「ソウマでいい。敬称も要らない」

「……ソウマ。一つだけ訊かせてください」

鳳城が振り返る。

「なんであの倉庫にいたんですか。制圧班でもないのに」

沈黙が落ちた。蛍光灯が微かに明滅する。鳳城は数秒だけ黙ってから、口を開いた。

「番匠会から依頼があった。あの暴走者の異能が通常の制圧では手に負えない可能性があるとな。結果的にはその通りだった」

それだけ答えて、鳳城はドアを開けた。廊下の向こうから、複数の人間の気配が感じられる。俺の感応能力が、無意識にそれを拾う。三人。いや、四人か。全員が異能者だ。その中に——堂島の気配がある。あの脂っぽい、圧し殺したような敵意を纏った気配。間違えようがない。

「あ、ああ、鳳城さん。わざわざお越しいただいて——」

廊下に出た鳳城に、堂島が擦り寄るような声を出しているのが聞こえた。あの横柄な堂島が、完全にへりくだっている。【極】の威光。裏社会の力関係が、声色一つで透けて見える。

「あのガキ——灰谷を引き取る。異論は」

「い、いえ。とんでもない。【零】一匹で鳳城さんのお役に立てるなら、こちらとしても——」

「不要になったら返すとは言わない。俺が引き取ると言ったら、それは完全な移管だ。わかるな」

「は、はい。もちろんです」

堂島の返事は即答だった。【零】一人の所有権など、【極】に逆らってまで守るものではない。俺はそういう存在だ。誰も執着しない。誰にも惜しまれない。

だが——今、この瞬間だけは、その「誰にも惜しまれない」ことが、俺を別の場所に連れていこうとしている。

鳳城が部屋に戻ってきた。

「済んだ。お前は今日から俺の預かりだ。立てるか」

「……多分」

右脚を庇いながら、壁に手をついて立ち上がる。全身が悲鳴を上げているが、立てないほどではない。指先が震えていた。痛みのせいか、それとも別の何かのせいか、自分でもわからなかった。

鳳城が背を向けて歩き出す。俺はその後を追った。一歩ごとに右脚が軋む。痛い。だが、足を止める気にはならなかった。

廊下を抜け、階段を降り、雑居ビルの裏口から夜の街に出る。冷たい風が傷に沁みる。空気の中に排気ガスと、どこか遠くの屋台の油の匂いが混じっている。見上げると、ビルの隙間から細い月が覗いていた。

鳳城が前を歩いている。その背中の向こうに、俺が知らない世界が広がっている。

「ソウマ」

「なんだ」

「俺に——何をさせるつもりですか」

鳳城は振り返らなかった。ただ、夜風に乗せるように、低い声で答えた。

「お前の目を、開かせる」

その言葉が意味するものの重さを、俺はまだ知らない。知らないまま、【零】の少年は【極】の背中を追って、夜の街を歩き始めた。

——ポケットの中のスマートフォンが、もう振動しなくなっていることに気づいたのは、それからしばらく後のことだった。

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