第1話
第1話「二連続の振動」
放課後のチャイムが鳴った瞬間、俺の腹の底が冷えた。
ポケットの中で、使い古したスマートフォンが二回だけ振動する。短い間隔の二連続——「今夜、出ろ」の合図だ。画面は見ない。見る必要がない。このパターンはもう身体に染みついている。
「レンも来るだろ? 駅前のカラオケ、今日フリータイム安いらしいぜ」
隣の席の宮野が、鞄を肩にかけながら気軽に声をかけてくる。俺は椅子から立ち上がりながら、いつもの薄い笑みを貼りつけた。
「悪い、今日バイトなんだ」
「またかよ。お前いつもバイトだな。何やってんの、そんな毎日入って」
「コンビニ。人手不足でさ」
嘘をつく筋肉はとっくに鍛え上がっている。宮野は「ブラックじゃん」と笑って、他の連中と教室を出ていった。俺はその背中を見送りながら、笑みを剥がした。
窓の外に夕焼けが広がっている。茜色の空は綺麗だと思う。思うけれど、それを味わう余裕はない。日が落ちれば、俺の時間が始まる。
灰谷レン。十六歳。都立高校の二年生——というのが、表の顔だ。
裏の顔は、異能者の世界で最底辺に位置する使い捨ての駒。ランク【零】。異能者たちの非公式ランク制度において、【極】から【零】まで七段階。【零】とは「能力が発現したが戦力にならない者」を指す。組織の囮、雑務、清掃。人間として数えられていない。
俺が持っている能力は、他者の異能の「気配」をわずかに感じ取れるだけの微弱な感応能力だった。攻撃もできない。防御もできない。自分では何ひとつ発動できない。異能者としては欠陥品で、だが完全な一般人でもない——その中途半端さこそが、【零】という烙印の意味だ。
制服のまま学校を出て、三つ先の駅で降りる。駅から歩いて十五分、雑居ビルが並ぶ裏通りの奥にある、看板のない事務所。そこが俺の「バイト先」だった。
事務所に入ると、パイプ椅子に座った男——管理役の堂島が、煙草の煙越しに俺を見た。
「遅い」
「学校があるんで」
「知るか。今夜の案件だ」
堂島がテーブルに封筒を投げる。中身は現場の住所と、対象者の異能タイプが走り書きされた紙一枚。いつもの囮任務の書式だ。
「C地区の廃倉庫。暴走しかけてる異能者が一人いる。お前が先に入って気を引け。制圧班が後から入る」
「制圧班の到着まで何分ですか」
「五分だ」
五分。異能の暴走者から五分間逃げ回れ、と。能力も武器も持たない【零】に。
「——了解です」
断る選択肢はない。断れば組織の「処分」対象になる。幼少期に裏社会へ売られた俺には、戻れる場所も、庇ってくれる人間もいない。
事務所を出て、夜の街を歩く。四月の風がまだ冷たい。コンビニの明かりが眩しくて、ガラス越しに雑誌を立ち読みする学生の姿が見える。あっち側の世界。俺がいるのはこっち側で、二つの世界を繋ぐ橋はどこにもない。
廃倉庫に着いたのは午後十時を回った頃だった。
錆びたシャッターの隙間から中を覗く。暗い。だが俺の感応能力が、内部に「何か」がいることを告げていた。空気の質が違う。肌がぴりぴりと粟立つような——異能の気配。
深呼吸を一つ。鞄を物陰に置き、シャッターの横の通用口から中に入った。
倉庫の内部は広かった。天井が高く、壊れたフォークリフトや積み上げられたパレットが影を作っている。足元のコンクリートが湿っていて、水と、それから別の何か——鉄錆に似た匂いが鼻についた。血だ。
「……いるのは、わかってる」
声を出す。囮の仕事は単純だ。対象の注意を引き、この場に留めておく。それだけ。俺にできるのはそれだけだ。
気配が動いた。
倉庫の奥、鉄骨の柱の陰から、人影が滑り出てくる。男だった。年齢は三十代半ばくらい。だが目が尋常ではない。瞳孔が極端に開き、焦点が合っていない。唇の端が痙攣するように引きつっている。
暴走の兆候——いや、すでに半分以上踏み越えている。事前情報では「暴走しかけ」だったはずだ。
「だれ、だ……おまえ……」
声が歪んでいる。男の両腕から、黒い靄のようなものが立ち昇り始めた。異能の発現。俺の感応能力が、その気配の「形」をぼんやりと捉える。重い。粘りつくような圧。これは——触れたものを腐食させる類の能力だ。
まずい。
事前情報のランクは【肆】だった。だが今、俺の感応が拾っている気配の密度は、【肆】のそれじゃない。暴走による出力増幅。制御を失った分だけ、異能が膨れ上がっている。
「来る、な……近づくな……ッ!」
男が叫んだ瞬間、黒い靄が爆発的に膨張した。床のコンクリートが男を中心に円形に腐食し、鉄骨が飴のように溶け始める。
俺は反射的に後方へ跳んだ。パレットの陰に身を隠すが、木製のパレットでは数秒ともたない。靄が触れた端から、木材が朽ちていく。
五分。制圧班が来るまであと五分。
走った。倉庫の中を柱から柱へ、遮蔽物から遮蔽物へ。俺にできるのは逃げることだけだ。能力で戦うことも、結界を張ることも、何もできない。ただ、異能の気配だけは感じ取れる。靄がどちらに伸びているか、男がどこに意識を向けているか——その微かな感覚だけを頼りに、死角を縫って走る。
心臓がうるさい。息が切れる。足が縺れそうになる。
それでも止まらない。止まったら死ぬ。
——この底から、抜け出すんだ。
死ぬわけにはいかない。こんな場所で、こんな使い捨ての任務で。俺はまだ何も成し遂げていない。何者にもなれていない。こんな終わり方は、認めない。
靄が背後に迫る。振り返らずに跳ぶ。着地した瞬間、さっきまでいた場所のコンクリートが粉のように崩れ落ちた。
三分経過。あと二分。
だが男の暴走は加速していた。靄の範囲が倉庫全体に広がり始めている。遮蔽物が次々と腐食し、逃げ場が消えていく。
「あ、が……ァアアアッ!」
男の絶叫と同時に、天井の鉄骨が溶断されて落下した。俺は避ける——避けきれない。崩れた鉄骨の破片が右脚を打ち、バランスを崩して転倒した。
地面に叩きつけられた瞬間、全身に衝撃が走る。起き上がろうとするが、右脚が動かない。折れてはいない。だが打撲で力が入らない。
黒い靄が、ゆっくりと俺に向かって這い寄ってくる。
「——」
ああ、駄目か。
ここまでか。
視界が霞む。意識が薄れかける。だが——その霞む視界の端で、俺は「見た」。
男の両腕から噴き出す黒い靄。その流れの中に、一瞬だけ——本当に一瞬だけ——「筋」が見えた。靄の中を走る、細い光の線。能力の気配ではなく、もっと深い何か。構造。この異能がどう組み上がっているのか、その骨格のようなものが、一瞬だけ透けて見えた。
何だ、今のは——。
考える暇はなかった。靄が俺の足元に触れようとした、その刹那。
空気が、裂けた。
轟音。圧。光。
何が起きたのか理解するより先に、倉庫の壁が吹き飛んでいた。
黒い靄が——消えている。男が地面に倒れている。意識を失っている。あれだけの暴走が、一瞬で制圧された。
倉庫の破壊された壁の向こうに、人影が立っていた。
長身。黒いコートの裾が夜風に揺れている。右手を軽く前に出した姿勢——たった今、片手で異能を放った直後の体勢だ。
その男が、倒れた俺を見下ろした。
切れ長の目が、無感情に俺を捉える。だが、その瞳の奥に、かすかな——興味の光が灯った。
「お前——」
低い声が、静まり返った倉庫に響く。
「今の攻撃、見えていたな」
俺は答えられなかった。血の味が口の中に広がっている。身体が動かない。だが意識だけは、不思議と澄んでいた。この男の気配——感応能力が捉えたそれは、今まで感じたどんな異能者とも次元が違った。底が見えない。海の深さを測ろうとして、どこまでも沈んでいくような。
ランク【極】。裏社会の頂点。
その男が——俺のような【零】に、目を留めている。
「……何の、ことですか」
絞り出した声は掠れていた。男は答えず、ただ片方の口角をわずかに上げた。
「面白い目をしている」
その言葉の意味を、俺はまだ理解できなかった。理解できないまま、意識が暗転した。
最後に感じたのは、夜風の冷たさと——この男の気配が、嵐のように近づいてくる感覚だった。