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深淵読みのソロプレイヤー

第1話 第1話

第1話

第1話

テクスチャが剥がれた崖の向こうに、まだ誰も見ていない闇がある。

俺はその裂け目の縁に立って、足元のポリゴンが明滅するのを眺めていた。VRMMO『アビスクロニクル』、通称アビクロ。サービス開始から3年。プレイヤー人口80万を誇るこのゲームの中で、今この瞬間に俺と同じ場所に立っている人間はゼロだ。

破棄エリア。レベルデザインが放棄された探索区画。

テクスチャは崩壊し、コリジョンは歪み、足を踏み外せば奈落判定で即死する。攻略サイトには「行く価値なし」の四文字。攻略Wikiのページは3年前の初期情報のまま更新が止まっている。当然だ。経験値もドロップも渋い。効率を求めるプレイヤーがわざわざ来る理由がない。

だから、俺にとっては最高の場所だった。

HUDの端に表示されるプレイヤーネーム——カイト。レベル67。ギルド所属なし。フレンド登録3人。うち2人は半年以上ログインしていない。客観的に見れば、ぼっちの中堅プレイヤーだ。

「……ここ、前はなかったな」

崖の中腹、テクスチャが完全に消失した箇所。通常なら見えない壁に阻まれて進入できないはずの場所に、妙な空隙ができていた。先週のメンテナンスで地形データがズレたのか。破棄エリアではよくあることだ。修正パッチが来ることは、まずない。

足場を確認する。ポリゴンの断片が浮島のように点在している。幅は30センチ程度、間隔は2メートルから3メートル。通常の移動操作では渡れない。

だが、俺には3年分の蓄積がある。

ダッシュジャンプからの空中方向転換。着地の瞬間にしゃがみを挟んで慣性をリセット。次の浮島へ再加速。このゲームの移動システムには公式が想定していない挙動がいくつもある。壁際で特定のモーションを組み合わせると判定が抜ける。崩壊したテクスチャの裏側に回り込める。攻略サイトに載らない、俺だけの移動術。破棄エリアの歪んだ地形でしか使えない、実用性ゼロの技術。

それでいい。

最初の浮島に着地した瞬間、ポリゴンの断片がぐらりと揺れた。足裏に返ってくる触覚フィードバックが不安定で、まるで薄氷の上に立っているようだ。体重の載せ方を間違えれば、判定ごと崩壊する。息を詰めて重心を整える。視線は次の足場に固定したまま、脳内でルートを描く。二つ目——右斜め下、やや遠い。三つ目——左に折り返して、ほぼ真横。その先は崖の裂け目の内壁に張りついた極小のテクスチャ片。ミスは許されない。

5つ目の浮島を蹴って、崖の裂け目に飛び込んだ。着地。足元の判定が一瞬揺れて、ポリゴンが軋む音がする。ここから先は完全に未踏だ。マップの描画が追いついていない。ミニマップに表示される地形データが、俺の位置を中心にぽっかりと欠落している。

「お、これは——」

通路だ。幅は二人分。天井は高い。壁面のテクスチャは半分が消失し、残った部分もノイズ混じりの灰色に化けている。だが、通路としての構造は確かにある。コリジョンも安定している。歩ける。

歩き出す。足音がやけに響いた。BGMはとっくに途切れている。破棄エリアの深部ではサウンドデータもまともに読み込まれない。聞こえるのは自分の足音と、ときおり走る環境音のノイズだけだ。

誰もいない通路を一人で歩く。

ギルドに入らないのかと聞かれたことは何度かある。フレンドの一人——今はもうログインしていないが——が紹介してくれようとしたこともあった。断った。効率的な攻略がしたいわけじゃない。ランキングに名前を載せたいわけでもない。

俺がこのゲームに求めているものは単純だ。

まだ誰も見ていない場所を、この目で見ること。

アビスクロニクルはサービス3年目に入って、攻略情報が飽和した。全マップが踏破され、全クエストが解析され、全ボスの攻撃パターンがフレーム単位でまとめられている。このゲームに「未知」はもう残っていない——というのが、大多数のプレイヤーの認識だ。

でも、それは違う。

破棄エリアは生きている。メンテナンスのたびに地形が微妙に変わる。テクスチャの崩壊が進行する。新しい隙間が生まれ、古い通路が消える。誰も見ていないから、誰も気づかない。俺だけが、この変化を追い続けている。

通路は緩やかに下っている。

体感で500メートルほど進んだあたりで、壁面のテクスチャが完全に消えた。天井も消えた。床だけが、暗闇の中に細い道として続いている。

ミニマップを確認する。何も映っていない。座標表示は動いているから、ゲーム内空間としては存在している。だがマップデータが——ない。描画すべき地形情報そのものが、この空間には割り当てられていない。

「マップデータの完全消失、か」

見たことがない現象だった。テクスチャの崩壊は破棄エリアの日常だ。コリジョンの欠落も珍しくない。だが、マップデータそのものが存在しないのは初めてだ。この通路は、本来ここにあるべきものなのか。それとも、バグが偶然作り出した虚空なのか。

どちらにしても、行く。

足元の床だけを頼りに進む。一歩ごとに足裏からフィードバックが返ってくる。VRの触覚デバイスが拾う微細な振動。床は確かにここにある。ただし、幅は徐々に狭まっている。

暗闘の中に、光が見えた。

正確には光ではない。空間の質が変わった。それまでの「何もない暗闇」から、「何かがある暗闇」に。空気の密度が上がったような——いや、これはVRだ。空気の密度なんてパラメータは存在しない。だが、確かに何かが違う。肌が粟立つ。これもフィードバックのはずだが、こんな繊細な触覚演出がこのゲームにあっただろうか。

足が止まった。理由は分からない。危険を察知したわけでもなく、障害物があるわけでもない。ただ、身体が——正確にはアバターを操作する俺自身の身体が、本能的に立ち止まることを選んだ。VRグローブの中で指先が冷たくなっていることに気づく。現実の身体が、仮想空間の異変に反応している。

床が途切れた。

唐突に、足元が広がる。円形の空間。直径はざっと20メートルほど。床だけは描画されている。灰色の、のっぺりとした平面。壁も天井もない。ただ闇が広がっているだけの、データの底。

HUDにシステムメッセージは出ない。クエスト発生もしない。BGMもない。

何もない。

——いや。

視界の端で何かが動いた。

円形の空間の中央、床から数センチ浮いた位置に、影がある。人型の、だが人ではないもの。輪郭が定まらない。テクスチャが読み込まれていないのか、それとも——そもそも、テクスチャが設定されていないのか。のっぺりとした黒い影が、ゆっくりとこちらを向いた。

向いた、と感じた根拠が分からない。顔に相当する部分に目も鼻もない。表情どころか造形すら存在しない。それなのに、「見られている」という確信だけが胸の奥に落ちてきた。背筋を冷たいものが伝う。VRの触覚フィードバックには、こんな機能はない。これは——俺自身の、現実の身体の反応だ。

瞬間、HUDにターゲット情報が表示される。

名前:̷̢̛̖̣̙̬̍ — 文字化け。

レベル:表示なし。

HP:ゲージなし。

所属:なし。

モンスター図鑑の該当データ:なし。

「……は?」

3年間、このゲームのあらゆる場所を歩いてきた。破棄エリアの隅々まで知っている。バグも仕様もひっくるめて、この世界の理を理解しているつもりだった。

こんなものは、見たことがない。

影がこちらに手を伸ばした。黒い指先から、何かが放たれる。

視認してから回避入力までの猶予は、体感で0.2秒。

反射的にスティックを倒した。回避モーションが発動する——はずだった。アバターの足が床に縫い止められたように動かない。スキルのクールタイムでもなく、状態異常のアイコンも表示されていない。ただ、動けない。まるでこの空間そのものが俺の操作を拒絶しているかのように。

足りなかった。

画面が赤く染まる。HP全損。即死。視界が暗転し、リスポーン画面が浮かび上がった。

——死因:不明。攻撃名:不明。ダメージ量:99999(オーバーキル)。

戦闘ログを呼び出す。たった一撃の記録だけが、そこにあった。

俺は暗転した画面を見つめたまま、口元が緩むのを止められなかった。

心臓がまだ速く打っている。VRヘッドセットの中で、自分の荒い呼吸が反響していた。恐怖じゃない。この感覚には覚えがある。初めてこのゲームにログインした日、チュートリアルの洞窟を抜けて広大なフィールドを見渡した瞬間と同じだ。まだ何も知らなかった頃の、あの胸の高鳴り。3年かけて失われたはずのそれが、今、胸の底から湧き上がっている。

「——見つけた」

まだ誰も知らない。攻略サイトにもWikiにも載っていない。モンスター図鑑にすら存在しない。

この世界の「端っこ」の、さらにその先にいた何か。

リスポーンボタンに手を伸ばす。破棄エリアの座標を確認する。通路の入口はまだ残っているはずだ。もう一度行ける。

あの闇の底で待っている「何か」の正体を——俺は、知らなければならない。

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