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裏鏡の軍師と霜の盾

第2話 第2話

第2話

第2話

炭の爆ぜる音で、意識が浮上した。

暗い。天井の梁が目の前にある。木造だ。石造りの盟約城とは違う。鼻腔に薬草の匂いが沁み、胸元に重い何かが載っている。毛皮だ。獣の——熊か。厚い冬毛が顎の下まで引き上げられ、全身を包んでいた。

燕昭白は目だけを動かした。

右手の壁際に火鉢がひとつ。炭が赤く熾っている。左手には木の衝立があり、その向こうに人の気配がある。衣擦れの音。一人。武装はしていない。だが筋肉の弛緩した気配でもない。寝ずに座っている者特有の、張り詰めた静けさだった。

指先を動かそうとした。五指のうち三本が応じた。残りは痺れて感覚がない。凍傷だ。足の指も似たような状態だろう。軍師にとって指は筆を執る道具であり、地図を指す道具であり、命そのものに等しい。だが今は、生きていること自体が計算外だった。

——ここはどこだ。

記憶を手繰る。雪山の峠。凍えた身体。月光の下に立った甲冑の影。女の声。「死なせはしない」。それ以降が途切れている。

衝立の向こうの気配が動いた。布を払う音がして、ひとりの女が姿を現した。

昭白は息を詰めた。

長い黒髪を無造作に束ね、簡素な袍を纏っている。だが袍の下の身体は、文官のそれではない。首筋から鎖骨にかけての筋の張り方、肩幅、手首の太さ——すべてが、剣を振るうために鍛え上げられた武人のものだった。顔立ちは端正だが、右の頬に古い刀傷が一筋走っている。その傷が、美醜を超えた凄みを顔に刻んでいた。

「起きたか」

峠で聞いた声と同じだった。低く、澄んでいる。

昭白は即座に思考を回した。捕虜か、客か。どちらにせよ、情報を引き出すのが先だ。

「——ここは」

「鉄嶺関だ」

鉄嶺関。北辺の要衝。七国のいずれにも属さず、独立を保つ辺境の砦。兵力は三千程度と聞く。統率するのは——。

「おまえが、霜凛華か」

女は答えず、土鍋から椀に粥をよそった。湯気が立ち、粟と干し肉の素朴な匂いが漂った。椀を昭白の枕元に置き、壁に背を預けて腕を組んだ。

「食え。三日寝ていた。身体が粥を欲しがっているはずだ」

三日。昭白は天井を見つめたまま、計算した。三日あれば、追手は雪山の峠を捜索し尽くしているだろう。足跡が雪に埋もれていなければ、北へ向かったことは読まれている。そして鉄嶺関は峠の北に位置する。つまり——。

「六国の追手は」

「三組来た。二組は追い返した。一組は山で凍え死んだらしい。雪解け水に混じって流れてくるだろう」

淡々とした口調だった。追手を退けたことを、朝餉の献立を語るように告げる。

昭白は粥には手を伸ばさず、女の目を見た。軍師の眼で。相手の意図を、瞳の奥の微細な動きから読み取る眼で。

「なぜ俺を助けた」

「峠で倒れていた。拾った」

「拾っただけでは済まんだろう。追手を退けたということは、俺を匿う意思があるということだ。鉄嶺関にとって何の得がある。——取引か」

凛華の目が、わずかに細まった。値踏みではない。昭白の言葉そのものを吟味するような、不思議な視線だった。

「取引はしない」

「では何だ。慈悲か。辺境の砦に、見ず知らずの男を匿う余裕があるとは思えんが」

凛華は腕を組んだまま、昭白を見下ろした。その目に、感情らしい感情は浮かんでいない。ただ、決めた者の目をしていた。何かを秤にかけ終えた後の、揺るがない静けさ。

「おまえを誰にも渡さない」

一言だった。理由も条件も説明もなく、ただそれだけを告げた。取引の文法ではない。宣言だった。自分自身に対する、あるいは天地に対する。

昭白は一瞬、言葉を失った。

七国の盟約は、利害の均衡と密約の束で成り立っていた。どの王も条件を示し、見返りを求め、保険を掛けた。それが政の言葉というものだ。だがこの女は、何の担保もなく「渡さない」と言い切った。そこに策略の匂いを嗅ごうとしたが、嗅げなかった。嗅げないこと自体が不気味だった。

「……俺が何者か、知っているのか」

「雪山で拾った、死にかけの男だ」

「それだけか」

「それだけだ。名乗りたければ名乗れ。名乗りたくなければ黙っていろ。どちらでも、ここにいることに変わりはない」

昭白は粥の椀に目を落とした。湯気が細く立ち昇り、木椀の縁に水滴が結んでいる。毒が入っている可能性を考えた。だが三日も意識のない人間を殺すなら、粥に毒を盛る必要はない。眠っている間に首を刎ねれば済む話だ。

震える指で椀を取り、口に運んだ。粟粥の素朴な甘みが、乾ききった喉を伝い落ちた。身体の芯に、微かな熱が灯った。

凛華はそれを確認すると、衝立の向こうへ戻った。足音が遠ざかり、扉が開閉する音がした。

昭白は粥を啜りながら、天井の梁を数えた。六本。木材は楡。北方の建築様式。壁の厚さから推して、防寒と防御を兼ねた構造。窓は小さく、明かり取りの最低限。質素だが堅牢な砦だ。ここの主は、贅を好まぬ将なのだろう。

——おまえを誰にも渡さない。

反芻した。あの言葉の真意が読めない。読めないものを放置することは、軍師にとって最も危険な怠慢だ。だが——。

粥の温もりが、臓腑に沁みていた。それだけは確かだった。

扉が再び開いた。だが入ってきたのは凛華ではなかった。

痩身の男が、苛立ちを隠さぬ足取りで部屋に踏み込んできた。四十がらみ。文官の袍を着ているが、腰に短剣を佩いている。武を修めた文官——副官の類だろう。鋭い目が昭白を捉え、一瞬で値踏みした。

「起きたか」

凛華と同じ言葉だが、声音がまるで違った。警戒と敵意が剥き出しになっている。

男は昭白の枕元に立ち、見下ろした。

「名は」

昭白は黙った。男の目が、さらに険しくなった。

「名乗らぬか。ならばこちらから言おう。——燕昭白。七国連合の盟約軍師。三日前の盟約会議で六国に裏切られ、追われて雪山に逃げた男」

知っている。昭白は表情を動かさなかった。この男は情報を持っている。辺境の砦にしては耳が早い。

「鄭克明。鉄嶺関の副官だ」

男は自ら名乗り、壁際の椅子に腰を下ろした。だが座ったのは休むためではない。昭白との間に一定の距離を取り、短剣の柄に手を置くためだった。

「将軍に進言したが、聞き入れられなかった。だから直接言う」

克明の声が低くなった。

「おまえがここにいることは、鉄嶺関にとって毒だ。六国はおまえの首を求めている。おまえを匿えば、鉄嶺関は六国すべてを敵に回す。兵三千の砦が、だ。——将軍の情には感謝しろ。だが長居は許さん」

筋の通った進言だった。昭白は軍師として、この副官の判断が正しいことを認めざるを得なかった。鉄嶺関にとって昭白は災厄でしかない。匿う利より、差し出す利の方が遥かに大きい。

「克明」

凛華の声が、扉の外から割って入った。いつから聞いていたのか。扉枠に肩を預け、腕を組んでいる。表情は変わらない。だが声に、氷の芯のような硬さがあった。

「おまえの進言は聞いた。道理も分かる。だが、俺が決めた」

「将軍。三千の兵と北辺の民を預かる身が、行きずりの男一人のために——」

「行きずりだろうが何だろうが関係ない。この男は俺が拾った。俺が匿う。文句があるなら鉄嶺関を出て行け。おまえの替えは利かんが、それでも止めはせん」

克明の顔が強張った。唇が白くなるほど噛み締め、拳を膝の上で握った。だが最後には、深く息を吐いて立ち上がった。

「……了解した。だが将軍、覚悟しておけ。東嶺国が動く。この男の首に懸賞がかかれば、鉄嶺関は嵐の目になる」

克明は昭白を一瞥し、部屋を出た。足音が廊下に消えるまで、凛華は微動だにしなかった。

昭白は毛皮の下で、痺れた指を握った。

この女は、合理的な判断ができないのではない。合理を承知の上で、別の何かを優先している。それが何なのかは、まだ分からない。だが克明の言葉は正鏡だった。昭白がここにいる限り、鉄嶺関は標的になる。

凛華が振り向いた。

「粥のお代わりはいるか」

「——いる」

凛華は頷いて、厨房の方へ歩いていった。

昭白は天井を見上げた。梁の向こうに空は見えない。だが北の風が壁を叩く音が聞こえる。その風の向こうに、六国の軍勢が動き始めている気配を、軍師の勘が捉えていた。

克明の言った通りだ。嵐が来る。それも、この砦の小さな城壁では受けきれないほどの。

——だが。

粥の温もりが、まだ腹の底に残っていた。七国の盟約よりも確かだと感じた、あの温もりが。それが錯覚でないとしたら。

昭白は初めて、自分の脚で立ち上がろうとした。膝が震え、壁に手をつかなければ立てなかった。だが、立った。

窓の外に、鉄嶺関の城壁が見えた。その向こうに、白い山嶺が連なっている。東の空が、微かに曇り始めていた。

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