第1話
第1話
七つの国旗が翻る広間で、燕昭白は死を宣告された。
もっとも、剣を突きつけられたわけではない。六人の王が同時に椅子から立ち上がり、それぞれの護衛が昭白の背後を塞いだ——それだけのことだった。言葉すら不要だった。昭白が練り上げた統一戦略の最後の一頁を読み終えた瞬間、広間の空気が変わった。味方の温度が、一斉に消えたのだ。
椅子の脚が石床を擦る音が六つ、寸分の狂いなく重なった。示し合わせていたのだ。おそらく昨夜のうちに——いや、もっと前から。昭白が策を披露する、まさにこの瞬間を待って、六国は水面下で手を結んでいた。広間に満ちていた沈香の薫りが、急に墓場の線香のように思えた。背後の甲冑が鳴る。逃げ道を確かめるまでもなく、四方が塞がれたことを肌が知っていた。
「ご苦労だった、燕昭白」
盟主の席に座る央燕の使者が、薄い笑みを浮かべた。その目には、労いの色も、憎悪の色もない。ただ帳簿を閉じる商人のような、事務的な冷たさだけがあった。
「七国の統一戦略。見事な出来だ。だが——策を知る者が二人いれば、それは策ではなくなる。おまえという変数を、我々は今日ここで消す」
狡兎死して走狗煮らる。兎が死ねば猟犬は煮られる。古来より繰り返されてきた、用済みの駒の末路。昭白はそれを知っていた。知っていながら、まさか七国すべてが——いや、六国が同時に牙を剥くとは読めなかった。
己の策の完成度が高すぎたのだ。この戦略があれば天下は統一できる。ならば、策を立てた人間さえ消せば、六国のいずれかがそれを独占できる。昭白は自らの頭脳で、自らの死刑執行書を書いたことになる。
「——馬鹿な」
呟いたのは、自分に対してだった。天才軍師と謳われた男が、最も初歩的な変数——己自身の存在価値を、計算に入れていなかった。策の完成に酔い、策そのものが己を殺す刃になることに気づかなかった。その愚かさが、何よりも喉元を灼いた。
護衛の四人は既に斬られていた。広間の石床に血が広がり、鉄錆の臭いが鼻腔を突く。最も近くに倒れた護衛長の目がまだ開いていた。驚愕のまま固まった瞳が、天井の梁を見つめている。昨夜、彼は昭白に茶を淹れながら言ったのだ。「明日で戦が終わるのですな」と。昭白の手には剣もなければ、鎧もない。軍師とは本来そういうものだ。知略という目に見えない武器だけを頼みに、戦場の外から戦を支配する。だがその知略ごと切り捨てられた今、燕昭白はただの痩身の男に過ぎなかった。
六国の兵が、じわりと距離を詰めてくる。靴底が血溜まりを踏む湿った音が、一歩ごとに近づいた。
昭白は広間の構造を脳裏に描いた。正面の大扉は塞がれている。左右の窓は高さ四丈、飛び降りれば足を砕く。残るは——。
視線が、壁の燭台に走った。
「殺せ」
央燕の使者が手を振り下ろした瞬間、昭白は燭台を蹴り倒した。油が石床に散り、炎が帳幕に燃え移る。火の粉が天井まで舞い上がり、七つの国旗を舐めた。絹が焦げる異臭が広間を満たし、兵たちが腕で顔を庇った。広間が一瞬、橙色の混乱に包まれた。
その隙に、昭白は走った。
炎を背にして、裏手の通路へ。七国連合の盟約城は昭白自身が選んだ場所だ。構造は誰よりも知っている。厨房を抜け、井戸の横を駆け、城壁の排水路に身を滑り込ませた。汚水の冷たさが全身を刺し、息を殺しながら暗渠を這った。指が石壁の苔を掴み、膝が水底の瓦礫にぶつかるたびに鈍い痛みが走ったが、立ち止まれば死ぬ。それだけが、凍えかけた思考の中で唯一明瞭な事実だった。
背後で怒号が響く。松明の灯りが排水口の格子を照らし、兵の足音が石畳を叩く。
「軍師が逃げたぞ。城を封鎖しろ!」
昭白は歯を食いしばり、暗闇の中を進んだ。汚泥が頬を擦り、手のひらが石の縁で裂けた。痛みよりも、胸の奥を灼くものがあった。
信じていたわけではない。七国の盟約など、利害の一致が生んだ仮初の絆に過ぎないことは分かっていた。だが、策を完成させれば——天下に秩序をもたらす道筋さえ示せば、利害を超えた何かが生まれると、どこかで信じていた。七国の民が戦に怯えず暮らせる世を。子が親を戦場で失わずに済む世を。その構想のために十年を費やし、千の夜を眠らず、万の書簡を読み、百の将と語った。その全てが、広間の一瞬で灰になった。
その甘さを、六国は同時に嗤ったのだ。
排水路の出口は城の北壁の外に通じていた。凍てつく夜風が全身を叩き、昭白は泥まみれのまま雪原に転がり出た。見上げれば、北の山嶺が月光の下に白く連なっている。
追手はすぐに来る。南は六国の領土だ。東も西も、今宵の裏切りに加担した者たちの勢力圏。残された道は——北。人の住まぬ雪山の峠を越えるか、凍え死ぬか。どちらにせよ、追手にとっては同じことだ。死体が見つかるか、見つからないかの違いでしかない。
昭白は北へ走った。
雪が深くなるにつれ、足が重くなった。排水路で全身を濡らした衣は凍りつき、関節のひとつひとつが軋んだ。呼吸のたびに肺が焼け、吐く息が白い霧となって闇に消えた。膝まで埋まる雪を掻き分けるたびに体温が奪われ、やがて寒さすら感じなくなった。それが最も危険な兆候だと、知識としては分かっていた。だが足を止める選択肢は、とうに凍土の下に埋もれていた。
峠に差し掛かる頃には、昭白の意識は断続的になっていた。足元の感覚はとうに失われ、ただ前に倒れ込むことだけで歩を進めていた。
脳裏に、広間の光景が繰り返し蘇る。六人の王が立ち上がった瞬間。護衛が斬られた音。央燕の使者の、あの薄い笑み。——そしてその奥に、もっと古い記憶が滲んだ。師の書斎。墨の匂い。竹簡の束に埋もれた机で、老いた師が言った。「策とは、人を生かすためにある。殺すために使えば、いずれ策が主を殺す」と。
——俺の策は、完璧だったはずだ。
だが師の言葉が正しかったのだ。策は完璧だった。だからこそ、策が主を殺した。
雪の上に膝をついた。立ち上がろうとして、身体が応じなかった。指先の感覚がない。視界が白く滲んでいく。
——これで終わりか。
天才軍師と呼ばれた男の最期が、雪山の峠で野垂れ死にとは。誰に看取られることもなく、誰の記憶にも残らず。六国は昭白の策を奪い合い、やがて天下を巡る戦が始まるだろう。その戦で何万の兵が死のうと、策を書いた男はもう凍った屍だ。
嗤うべきか。泣くべきか。どちらの感情も、凍えた身体からは絞り出せなかった。
頬が雪に触れた。仰向けに倒れたのだと、遅れて気づいた。夜空に星が散っている。七つの国の方角に、七つの星座がある。師がかつて教えてくれた。天の配置が地の勢力図を映すのだと。
師——。
意識が遠のく中で、ひとつだけ明瞭な感覚があった。後悔ではない。怒りでもない。
虚しさだ。
己の知略が、結局は誰のためにもならなかったという、底なしの虚しさ。
そこで——足音が聞こえた。
雪を踏む、重い足音。一人。だが甲冑を纏っている。金属が擦れる微かな音が、凍えた耳にも届いた。
追手か。ならばもう抗う力はない。
足音が止まった。昭白の傍らに、影が立った。
目を開けようとした。瞼が凍りついて、半分しか開かない。それでも、月光に照らされた輪郭だけは見えた。
長い髪が夜風に揺れている。甲冑の肩当てに雪が積もっている。手には——剣ではなく、毛皮の外套が握られていた。
「まだ息がある」
女の声だった。低く、しかし澄んでいた。戦場で鍛えられた声だと、軍師の本能が告げた。命令することに慣れた者の声。だが命令の奥に、微かな安堵が混じっていた。何かを——あるいは誰かを、探していたような。
外套が昭白の身体に被せられた。凍えた肌に、獣の毛皮の温もりがじわりと沁みた。強張った筋肉が、意思とは無関係に震え始めた。身体が生きることを諦めていないのだと、他人事のように思った。
「——誰だ」
掠れた声で問うた。答えは、短かった。
「黙って眠れ。死なせはしない」
意識が途切れる寸前、昭白は思った。この声の主が敵であれ味方であれ、もはやどちらでも構わないと。凍えた身体を包む温もりが、七国のどの盟約よりも確かなものに感じられたのは——きっと、死にかけた人間の錯覚に過ぎない。
北の山嶺を、風が吹き抜けていった。鉄嶺関の方角から、かすかに篝火の灯りが滲んでいた。