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灰燼の軍旗

第3話 第3話

第3話

第3話

城門の閂に手をかけた時、背後から声が飛んだ。

「お待ちください、若様」

コンラートだった。避難の準備のために領地へ戻ったはずの老村長が、息を切らせて広間の方から駆けてきた。その後ろに、他の村長が三人続いている。街道の砂埃を見て引き返してきたのだろう。

「あれを入れるおつもりか」

コンラートの声に非難の色はなかった。ただ、確かめていた。レクトは閂から手を離さずに振り返った。

「入れる」

「食い扶持が足りませぬ。避難の荷にも限りがある。ましてあの数——三百からの人間を抱えて山道を越えるのは」

「わかっている」

「わかっておいでなら、なおのこと」

コンラートの後ろで、別の村長が口を挟んだ。南の集落を束ねるハインツ、四十がらみの頑丈な男だ。

「敗残兵を入れれば帝国軍に目をつけられる。素通りしてくれるかもしれない土地を、わざわざ戦場にするつもりですか」

理屈としては正しかった。カルデアは主街道から外れている。帝国軍が急いでいるなら、この痩せた辺境に兵を割く理由はない。門を閉ざし、息を殺していれば、嵐は頭上を通り過ぎるかもしれない。周囲の領主たちはまさにその判断を下したのだ。

レクトは城門の隙間から外を見た。夕陽が街道を赤く染め、敗残兵たちの影が長く伸びている。膝をついた先頭の男の向こうで、兵士が一人、腕に子供を抱えて立ち尽くしていた。子供は泣き疲れたのか、ぐったりと首を垂れている。

「ハインツ、お前の言う通りだ。門を閉ざせば帝国軍は素通りするかもしれない」

レクトは振り返った。

「だが素通りしなかった場合、三百の兵がいるのといないのとでは、お前たちの逃げる時間がまるで違う」

広間に沈黙が落ちた。レクトは続けた。

「避難にはあと二日かかる。その間に帝国軍の分遣隊がここに来れば、村長たちが率いる女子供は街道の上で追いつかれる。あの敗残兵は確かに疲弊している。だが武器の扱いを知っている人間が三百いるということは、二日の時間を稼ぐ壁になるということだ」

計算だった。情ではなく、損得だった。少なくとも、レクトは自分にそう言い聞かせた。だが城門の向こうで子供を抱えた兵士の影が、父の部隊の残党と重なって離れなかった。

コンラートが長い息を吐いた。

「——若様は、父君より理屈がお上手だ」

それが賛辞か皮肉かはわからなかった。だが老村長はそれ以上反対しなかった。ハインツも口を結んだまま、一歩退いた。

レクトは閂を引いた。

錆びた鉄が軋み、重い樫の扉がゆっくりと開いていく。夕陽の赤い光が門の内側に差し込んだ。街道に膝をついていた男が顔を上げ、開いた門を見た。その顔にはまだ信じられないという色があった。

敗残兵たちがなだれ込むように城門をくぐった。足を引きずる者、仲間の肩に縋る者、担架ごと運び込まれる者。血と泥と汗の臭いが、夕暮れのカルデアを満たした。レクトは門の脇に立ち、流れ込む人間の列を数えた。負傷者の程度を目で見分け、重傷者を先に館へ運ぶよう声をかけた。ヨルグがどこからか毛布と水桶を調達し、領民の女たちがおそるおそる手伝い始めた。

最後に門をくぐったのは、一人の女だった。

正規軍の軍装を纏っているが、他の兵とは纏う空気が違った。外套は泥にまみれていたが、剣は腰に残し、背筋は伸びていた。短く切り揃えた黒髪の下、鋭い眼差しがレクトを捉えた。二十代半ばか。頬に乾いた血の筋があったが、それは自分の血ではなさそうだった。

「カルデア領主か」

声は低く、平坦だった。敬意も懇願もない。

「レクト・ヴェルナーだ」

「第四師団第三大隊副官、マーレン・シュヴァルツ」

副官。この敗残の群れの中で、唯一の士官だった。マーレンはレクトの全身を一瞥した。痩せた体躯、擦り切れた外套、貴族にしては粗末な身なり。その観察を隠しもしない目で見てから、僅かに顎を引いた。礼というには素っ気なく、だが軍人として最低限の形は保っていた。

「指揮官は」

「戦死した。大隊長も中隊長も。残ったのは私と、動ける兵が二百、負傷者が百余り。指揮系統はとうに崩壊している」

淡々とした報告だった。声に感情の揺れはない。だがその平坦さこそが、この女が見てきたものの凄惨さを物語っていた。感情を殺さなければ、報告すらできないのだ。

「食糧と水を出す。負傷者は館の広間に収容する。動ける者には——」

「施しを受けに来たわけではない」

マーレンが遮った。

「門を開けたのはあなたの判断だ。その意図を聞きたい。情けか、それとも計算か」

直截だった。レクトはその目を正面から受けた。

「両方だ」

マーレンの眉がわずかに動いた。

「避難に二日かかる。その間の盾が必要だった。兵を受け入れたのは、あなたたちを使うつもりがあるからだ」

嘘はなかった。だが全てでもなかった。門を開けた瞬間、レクトの頭にあったのは計算だけではない。あの子供を抱えた兵士の姿が、閂を引く手に力を与えたことは確かだった。しかしそれを口にする必要はない。

マーレンはしばらくレクトの顔を見つめていた。何かを測るような、冷ややかな目だった。それから小さく鼻を鳴らした。

「正直だな。——いい。使うと言うなら、使えばいい。ただし、私の兵を無駄死にさせたら、あなたを殺す」

脅しではなかった。事実の通達だった。レクトは頷いた。

夜が更けて、館の広間は野戦病院の様相を呈していた。石畳の上に敷かれた毛布の列、呻く負傷者の声、血に染まった包帯の山。ヨルグと領民の女たちが水と布を運び続けている。レクトは広間の隅で、マーレンから兵の状態を聞き取っていた。動ける兵二百のうち、すぐに戦えるのは百に満たない。残りは疲労と軽傷で、回復に最低でも二日はかかる。

その時、館の門を叩く音が響いた。今度は軍の叩き方ではない。早馬の蹄の音が続き、レクトが玄関へ出ると、王都の紋章を胸につけた使者が馬上から羊皮紙を差し出した。

封蝋を割り、燭台の明かりの下で文面を読んだレクトの指が止まった。

王都からの通達だった。簡潔で、冷酷な文面。

——西方辺境諸領への救援軍の派遣は、現時点において見送る。各領主は自領の防衛に専念されたし。

それだけだった。具体的な理由も、今後の見通しも、何一つ書かれていない。官僚的な定型文のなかに、たった一つの事実だけが刻まれている。お前たちは切り捨てられた、と。

レクトは羊皮紙を折り畳んだ。手は震えなかった。予測していた。むしろ書庫の戦史書を読み続けてきた者として、この展開は当然だった。王都は東方防衛線の再建に全力を注ぐ。辺境に割く兵はない。政治的に見れば、帝国軍がいくつかの辺境領を蹂躙してくれた方が、和平交渉の材料にすらなる。

マーレンが背後に立っていた。レクトの顔を見て、通達の内容を察したらしい。

「来ないのか」

「来ない」

短い沈黙があった。

「ならば」とマーレンが言った。「ここにいる人間だけで、どうにかするしかない」

その声には、不思議と絶望の色がなかった。もとより何も期待していなかった者の、乾いた覚悟だった。

レクトは書庫へ向かった。燭台を掲げて書架の前に立ち、一冊の地図帳を引き抜く。カルデア周辺の詳細な地形図。父が実地踏査をもとに書き込みを加えた、どの軍用地図よりも正確な一枚だ。

卓の上に地図を広げた。蝋燭の炎が揺れるたびに、等高線の影が波打つ。東からカルデアに至る経路は三つ。主街道、南の河沿い、そして北の——渓谷。

レクトの指が、地図上の細い線をなぞった。リーゲル渓谷。両岸を切り立った崖に挟まれた隘路。父の戦史書に記されていた、あの渓谷だ。

——地形は兵力に優る。ただし、指揮官が地形を読めればの話だ。

父の言葉が、また蘇った。

頭の中で、断片が組み上がり始めていた。三百の寄せ集め、渓谷の地形、帝国軍の進軍速度。まだ形になりきらない。だが二日前まで戦史書の中にしか存在しなかった思考が、今、地図の上で血を通わせ始めている。

翌朝、カルデアの東の街道に、帝国軍斥候の姿が初めて目撃された。

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