第1話
第1話
砂埃にまみれた外套の裾が、夕暮れの城門をくぐった。
商隊護衛の帰路は、いつも同じ匂いがする。馬の汗と、荷台に積まれた干し肉の脂と、そして自分自身の惨めさだ。レクト・ヴェルナーは馬から降り、痩せた栗毛の首筋を二度叩いてから手綱を門番に預けた。栗毛は疲れきった鼻息を一つ吐いて、レクトの肩口に額を押しつけてきた。この馬もまた、ヴェルナー家の凋落を共に歩んできた古い相棒だった。肋骨の浮いた胴体を見るたびに、まともな飼い葉すら与えてやれない自分が情けなくなる。
「お帰りなさいまし、若様」
門番の老兵が腰を折る。若様。二十二にもなって若様と呼ばれることに、もう苦笑する気力もない。ヴェルナー家の嫡男にして当主——かつてはそう名乗れた。軍略の名門、西方辺境の盾、王国五指に数えられた武門の家。だが今この城門の向こうにあるのは、石壁のひび割れた館と、収穫の乏しい痩せた領地と、年老いた従者がひとりだけだ。
カルデア領。大陸の西端、王都から馬で十二日。街道の終点であり、地図の端でもある。帝国との緩衝地帯として辛うじて存在を許されている土地に、ヴェルナーの名はもはや重荷でしかなかった。
館に入ると、廊下に燭台の灯りがひとつだけ揺れていた。石畳に落ちる影が長い。広すぎる屋敷に人の気配は薄く、かつて兵たちが行き交った大広間は今や物置同然だった。壁に掛けられた家紋入りの盾は埃を被り、槍架けには錆びた穂先が数本残るばかりだ。天井の梁を見上げると、煤けた軍旗の端切れが風にそよいでいる。父がまだ生きていた頃、この広間では毎夜のように兵たちの笑い声と剣を打ち合う音が響いていた。今は自分の足音だけが、やけに大きく反響する。
「遅くなった、ヨルグ」
食堂に入ると、白髪の老従者がすでに夕食を整えていた。黒麦の硬いパンと、薄い豆の汁。それに干し肉が一切れ。ヨルグは六十を超えた痩躯の老人で、父の代から仕える唯一の従者だった。曲がった背筋と節くれだった指には、長い年月の労苦が刻まれている。それでもこの老人は、毎晩欠かさずこの粗末な食卓を用意し、レクトの帰りを待っている。
「商隊の方は」
「無事に峠を越えた。山賊の気配もなかった」
「左様でございますか。して、報酬は」
レクトは腰の革袋から銀貨を数枚、卓に置いた。銀貨が石の卓に触れる乾いた音が、静まり返った食堂に小さく響いた。ヨルグの眉がわずかに動く。一月の護衛で銀貨七枚。領主の稼ぎとしては、笑い話にもならない。
「……領民への配分を先にしてくれ。麦の種子代が足りていないはずだ」
「若様の分が残りませぬ」
「構わない」
それだけ言って、レクトはパンをちぎった。硬い表皮が指に抵抗し、中身は乾いて粉を吹いている。豆の汁に浸して口に運ぶと、塩気の薄い温もりだけが舌に広がった。噛み締めるたびに顎が軋む。商隊の荷台では、絹に包まれた白麦のパンや蜂蜜漬けの果実が山と積まれていた。自分が命を張って守った荷だ。その一欠片すら口にすることなく、こうして黒麦の塊を噛んでいる。ヨルグは何も言わず、自分の椀に手をつけた。
食事の間、二人は黙っていた。話す内容がないわけではない。領地の税が来季も減免されなければ立ち行かないこと、東の街道で帝国軍の動きがあるという噂、隣領のベルクハイム伯が新たな徴兵を始めたという話。だがそのいずれも、銀貨七枚の没落貴族には手の届かない世界の出来事だった。
夕食を終え、レクトは館の東翼にある書庫へ向かった。
ここだけが、ヴェルナー家に残された唯一の財産と言えた。壁一面を埋める書架には、父エルヴィンが生涯をかけて蒐集した戦史書と地図が並ぶ。大陸戦史、山岳戦の記録、攻城戦の技術書、補給路の設計図。紙は黄ばみ、革の装丁はひび割れていたが、そこに記された戦の知恵は色褪せていない。
蝋燭に火を灯し、レクトは今夜も書架から一冊を抜き取った。『リーゲル渓谷の戦い——寡兵による遅滞戦術の研究』。父の書き込みが余白を埋めている。几帳面な筆跡で記された注釈のひとつひとつに、実戦を潜り抜けた者だけが持つ確信があった。
——地形は兵力に優る。ただし、指揮官が地形を読めればの話だ。
父の言葉が、頁の隅に小さく記されていた。レクトはその一行を指でなぞった。インクはすでに褪せかけていたが、紙に刻まれた筆圧の跡がかすかに残っている。この一行を書いたとき、父は何を見ていたのだろう。どんな渓谷の、どんな稜線を頭に描いていたのだろう。
エルヴィン・ヴェルナーは三年前、北方の国境紛争で戦死した。だが死んだのは戦場ではない。政敵ゲルハルト伯の讒言により援軍を断たれ、孤立した前線で壊滅した。戦死ではなく、見殺しだった。その後、ゲルハルト伯の手により爵位は剥奪され、ヴェルナー家は没落した。裁定を下した王宮は、辺境の武門がひとつ消えたことに関心すら示さなかった。
名ばかりの当主。レクトは自嘲した。領地を守る兵もなく、王宮に訴える後ろ盾もなく、ただ父の遺した書を読み、存在しない戦を頭の中で組み立て続けている。何のために。誰のために。答えは出ない。だが頁を繰る手は止まらなかった。
蝋燭が半分まで燃え落ちた頃、レクトはようやく書を閉じた。窓の外はとうに闇で、秋の虫の声だけが石壁の向こうから届いていた。明日もまた商隊の護衛依頼を探す。その繰り返しだ。父が守ろうとしたこの土地を、自分は銀貨を数えて守るしかない。
寝台に横になり、目を閉じる。眠りは浅かった。
それが来たのは、夜明けの一刻前だった。
館の扉を叩く音で目が覚めた。乱暴な、しかし規則正しい叩き方——軍の作法だった。三度、間を置いて二度、また三度。寝台から身を起こした瞬間、全身の疲労が膝に来た。だが叩く音は止まない。レクトは外套を羽織って階段を駆け下りた。ヨルグがすでに扉を開けており、その向こうに街道の埃にまみれた伝令兵が膝をついていた。
若い兵だった。王国正規軍の紋章が入った胸当てをつけているが、片方の肩紐は千切れ、頬には乾いた血がこびりついている。息は荒く、馬を乗り潰してきたのが一目でわかった。門の外に繋がれた馬が一頭、脚を震わせて泡を吹いている。あの状態ではもう一里も走れまい。この伝令兵は、文字通り命懸けでここまで来たのだ。
「……カルデア領主、ヴェルナー殿か」
「そうだ。何があった」
伝令兵は懐から封書を取り出そうとしたが、指が震えてうまくいかない。封蝋を割ろうとする爪の先が白くなっている。恐怖だ、とレクトは悟った。この若い兵は、報せの中身そのものに怯えている。伝令兵は諦めたように口を開いた。
「東方国境が、破られました」
声が裏返っていた。
「帝国軍——三個軍団。ウルム要塞が陥落。正規軍第四師団は壊走。現在、帝国軍先鋒は街道沿いに西進中。到達まで——」
伝令兵の言葉が途切れた。ただ、その目が全てを語っていた。もう止められない、と。
レクトの背筋に、冷たいものが走った。三個軍団。ウルム要塞は東方防衛の要だ。あれが落ちたということは、東方街道に遮るものは何もない。頭の中で地図が展開される。ウルムからカルデアまでの街道距離、途中の地形、渡河点の位置——書庫で幾度となく眺めた地図の線が、今この瞬間に血の色を帯びて浮かび上がった。
「第四師団の残余は」
「散り散りです。指揮系統は……もう」
伝令兵はそこで崩れるように倒れた。ヨルグが咄嗟に支え、水を運ぶ。レクトはその場に立ち尽くした。
夜明けの空が、東の稜線を薄紫に染め始めていた。冷たい風が館の扉から吹き込み、蝋燭の残り火を揺らす。風は土と草の匂いを運んできた。この風の先に、鉄と血の匂いがあるのだ。戦史書の中にしかなかった戦争が、現実としてこの辺境に迫っている。
レクトは東の空を見た。あの稜線の向こうに、帝国の軍旗が翻っている。父が命を落とし、自分が全てを失った、あの戦争の続きが来る。
書庫の戦史書が、頭の中で頁を繰り始めた。地形、補給路、兵站の限界点——まだ何も整理できていない。だが考えることを止められなかった。没落貴族の当主に何ができるのか、わからない。わからないが、蝋燭の下で千夜読み耽った戦の記憶が、静かに脈を打ち始めていた。
東から、馬蹄の音が聞こえた気がした。