第2話
第2話
依頼書を受付に出した瞬間の、あの女性の顔は忘れられない。驚きと、それからほんの少しの同情。測定不能の男が唯一受けられる依頼に飛びついた——そう見えたのだろう。実際、半分はその通りだ。
「記録係の依頼、受理しました。明日の朝、東門前に集合です。同行する護衛の冒険者と合流してください」
「護衛?」
「郊外とはいえ遺跡ですので。低級の魔獣が棲みついていることもあります。依頼主の学術ギルドが護衛を手配済みです」
羊皮紙に押された受理印を受け取る。指先にざらりとした繊維の感触が伝わり、インクの匂いが鼻をかすめた。これで依頼は確定した。だが——問題はそこじゃない。
「あの、この街で一番安い宿は」
「東区のハーゲン亭が銅貨三枚ですね」
銅貨三枚。手持ちは——ゼロだ。ボールペン一本で異世界に放り出された人間に、この街の通貨があるわけがない。ポケットの中で指が触れるのは、使い慣れたボールペンの金属クリップだけだ。
「……それ以外で、屋根のある場所は」
受付の女性——名札にはミーアとあった——が少し考えてから、声を落とした。周囲に聞こえないよう配慮したその仕草に、事務的なだけではない人間味を感じた。
「ギルドの裏手に薪小屋があります。正式にはお勧めできませんけど、行き場のない新人が時々……」
「助かります」
惨めか? まあ、惨めだろう。三十二歳、博士号持ちの考古学者が、異世界の薪小屋で夜を明かそうとしている。だが屋根があるだけマシだと考えるべきだ。発掘現場で野営した夜に比べれば、壁がある分むしろ快適かもしれない。
薪小屋は思ったより広かった。積まれた薪の隙間に体を収め、白衣を毛布代わりに丸まる。乾いた木の匂いが鼻腔を満たす。樹脂の甘さが混じったその香りは、不思議と不快ではなかった。板壁の隙間から夜風が忍び込むたび、積まれた薪がかすかに軋む音を立てる。疲労は限界に近いはずなのに、頭だけが妙に冴えていた。
右手の紋章を眺める。薄暗い小屋の中で、紋章はかすかに自発光している。青白い光が指の輪郭を浮かび上がらせ、木の壁にぼんやりとした影を落としていた。石柱に触れたときに脳裏に流れ込んだ古代文字の断片。そして掲示板で見た文字見本。同じ文字体系の変種だという確信は揺るがない。
問題は、なぜ俺がこの世界の古代文字を読めるのか、だ。
前世の研究対象とこの世界の文字が同一ルーツを持つ可能性。あるいは紋章が翻訳機能を持っている可能性。後者なら、この世界の住人も読めるはずだから矛盾する。前者なら——地球とこの世界は、かつて何らかの接触があったことになる。石板は、その接点だったのか。
考えても材料が足りない。今は寝る。明日の遺跡調査で、もう少しピースが集まるはずだ。
目を閉じて、三十秒で意識が落ちた。
——翌朝。
東門前に着いたのは、集合時刻の十五分前だった。朝露で湿った石畳を踏みながら門に近づくと、すでに一人の男が壁に背を預けて待っていた。
でかい。
身長百九十は超えている。日に焼けた肌、太い首、革鎧の上から分かる厚い筋肉。腰に下げた幅広の剣は、刃こぼれの跡が無数にある実戦使用の武器だ。柄に巻かれた革紐は汗と手脂で黒く変色し、握り込まれた年月の長さを無言で語っている。年齢は四十前後か。顔に走る古傷が、歴戦の冒険者であることを物語っている。
男がこちらを一瞥した。視線が俺の白衣で止まり、それから足元の革靴に移り、最後に腰の辺り——武器がないことを確認して、興味を失ったように目を逸らした。値踏みは一秒で終わり、結果は「戦力外」。冒険者としては当然の判断基準だろう。
「護衛の方ですか。桐生遼です。今日の記録係を——」
「ガルドだ」
それだけ。会話を続ける気はないらしい。低い声は感情を一切乗せず、朝の冷えた空気にぶつかって消えた。
「出るぞ。遺跡まで一時間かかる」
ガルドは壁から背を離し、門をくぐって歩き始めた。歩幅が広い。俺は小走りでついていく。
「あの、遺跡についていくつか聞きたいんですが——」
「記録係だろう。壁の文字を写して、持ち帰る。それだけだ。余計なことはするな、触るな、奥に行くな。魔獣が出たら俺の後ろに隠れろ」
要するに、荷物持ち以下の扱いだ。測定不能の新人に期待することなど何もないということか。まあ、合理的な判断だ。文句はない。
街を出ると、景色が一変した。乾いた荒野に低い灌木が点在する平原。遠くに岩山の連なりが見える。二つの太陽が地平線から昇り、紫がかった空を橙色に染めていく。昨日歩いた荒野とは方角が違うが、植生の乏しさは同じだ。踏みしめるたびに砂利が靴底の下で乾いた音を立て、時折風が運ぶ土埃が唇の端にざらついた。
四十分ほど無言で歩いた後、ガルドが初めて自分から口を開いた。
「なぜ受けた」
「は?」
「この依頼だ。三ヶ月間、誰も応募しなかった。報酬は銅貨十五枚。宿代にもならん。まともな冒険者なら見向きもしない」
「文字が読めたから」
ガルドの足が止まった。革靴が砂利を噛む音が途絶え、静寂が二人の間に落ちた。振り返った目に、初めて感情らしいものが浮かぶ。
「読めた? あの添付の文字見本がか」
「ええ。『入りし者、汝の目で真を読め』。南方変種の古代文字です。書き手の癖から推定すると、少なくとも千年以上前のものですね」
沈黙。風が灌木の枝を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。ガルドは俺の顔をしばらく見つめてから、鼻を鳴らした。
「学術ギルドの連中が三日かけて部分解読した一文を、お前は一目で読んだと言うのか」
「専門なので」
嘘ではない。ただし、この世界の学問として専門なのではなく、前の世界で十年研究した文字体系と同根だから読める——その説明は省いた。今は信用を得ることが先だ。
「……変わった奴だな」
それきり、ガルドは前を向いて歩き始めた。だが歩幅が少しだけ狭くなったのは、気のせいではないと思う。
やがて、岩壁の裂け目に遺跡の入口が見えた。人工的に切り出された石の門。苔むした表面に、文字がびっしりと刻まれている。門の上部は半ば崩落し、瓦礫が入口を狭めていたが、大人一人が身を屈めれば通れる程度の隙間は残っていた。
俺は足を止めた。門の両側の壁面に、見覚えのある文字配列が並んでいる。
「ガルドさん」
「何だ」
「この入口の碑文、学術ギルドはどこまで解読していますか」
「さあな。俺は字の方は専門外だ。お前が写してくれればいい」
写す——だけじゃない。この碑文は記録用の銘文じゃない。配列パターンが違う。俺の知る文字体系で言えば、これは機能文だ。刻まれた文字自体が何らかの仕組みを持つタイプの碑文。読める部分だけ拾うと——「記す者には壁を」「読む者には道を」。
門を選別装置にしている。文字を理解できる者とできない者で、内部の経路が変わる可能性がある。
右手の紋章が、じわりと熱を帯びた。昨日石柱に触れたときと同じ感覚。紋章の光が、かすかに強まっている。掌を開くと、青白い光の筋が紋章の溝に沿って脈動していた。まるで、遺跡の碑文と呼応するように。
遺跡が、俺を認識している。
「入りましょう」
ガルドが片眉を上げた。さっきまで後ろをついてくるだけだった記録係の目つきが変わったことに、この歴戦の冒険者は気づいたのだろう。腰の剣の柄に手を添え直す。警戒ではない。同行者の変化に対する、職業的な反応だ。
「……お前、本当にただの記録係か」
「記録係ですよ。ただし、読めるだけの」
暗い入口の奥から、乾いた風が吹き上げてくる。石と土に混じって、かすかに——金属とも、インクともつかない匂いがした。古い書物の匂いに似ている。千年の埃の向こうに、誰かが書き残した知識が眠っている。
背筋に走ったのは恐怖ではなかった。あの感覚だ。新しい遺跡の入口に立つたび、全身の細胞が研ぎ澄まされるような、あの感覚。前の世界でも、この瞬間だけは何物にも代えがたかった。
考古学者の血が、騒いでいた。