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万象解体の遺跡破り

第1話 第1話

第1話

第1話

石板が、光った。

論文の締め切りまであと三日。研究室のデスクに広げた拓本の上で、第三期遺跡群の石板レプリカが白い光を放っている。俺——桐生遼は、コーヒーカップを持ったまま固まった。

「は?」

光は石板の刻文に沿って走り、俺が三年かけて解読した古代文字の配列を正確になぞっていく。こんな現象は報告例がない。蛍光灯の下で見慣れたはずの石板が、まるで内部に回路でも埋め込まれていたかのように、文字から文字へと光の脈動を伝えている。カメラ。記録しなければ——と手を伸ばした瞬間、光が爆発的に膨張した。

視界が白に塗り潰される。足元の感覚が消え、体が浮き上がるような浮遊感。コーヒーカップが指をすり抜けていくのが妙にスローモーションで見えた。陶器が床に当たる鈍い音すら、遠い水底から聞こえるように歪んでいた。

次に意識が戻ったとき、俺は仰向けに倒れていた。

背中に当たるのはリノリウムの床じゃない。乾いた土と、硬い小石の感触。目を開けると、見たこともない色の空が広がっている。夕焼けに似ているが、太陽が二つある。薄い紫と深い橙が混ざり合った空は、どう見ても地球のものではなかった。空気は乾燥していて、鼻腔の奥がひりつく。研究室に漂っていたコーヒーとインクの匂いは完全に消え、代わりに焼けた砂と、かすかに硫黄に似た鉱物の匂いが鼻をついた。

「……何だ、これ」

起き上がって周囲を見渡す。荒涼とした大地が地平線まで続き、乾いた風が砂を巻き上げている。風に混じった細かな砂粒が頬を叩き、肌がざらつく。手元にあるのは、白衣のポケットに入っていたボールペン一本だけ。スマホも財布も、研究室に置いたままだ。

そして——視界の端に、見覚えのあるものが映った。

朽ちた石柱が五本、不規則に並んでいる。表面に刻まれた紋様。渦巻きと直線が組み合わさった独特の意匠。俺は息を呑んだ。

「第三期遺跡群の……円環配列紋?」

間違いない。博士論文で何十回も模写した紋様だ。ただし実物を見るのは初めてだった。発掘現場の写真でしか確認できなかったものが、目の前に——しかも風化の具合からして、数千年は経過している。石柱の表面を走る亀裂のパターン、刻文の摩耗の度合い。風雨による自然浸食だ。レプリカ特有の均一な劣化処理とは根本的に違う。

レプリカじゃない。本物だ。

状況を整理する。石板が光った。気づいたら知らない場所にいる。空に太陽が二つ。手元にはボールペン一本。そして目の前には、俺の研究対象だった古代紋様の実物。

「異世界、か」

口に出してみると、意外なほど冷静に受け止められた。考古学者としての十年間で、未知の状況に直面する訓練は積んでいる。パニックは後回しだ。まず情報を集める。

石柱に近づき、紋様を観察する。指先で表面をなぞった瞬間——右手の甲が、熱くなった。

「っ——」

見ると、手の甲に見慣れない紋章が浮かび上がっている。円の中に幾何学模様が組み合わさった複雑な意匠。石柱の紋様とは体系が違う。だが、どこか通底するものを感じる。皮膚の上で紋章の線が蠢くように定着していく感覚は、入れ墨を彫られるのとも火傷とも違う——内側から何かが浮き上がってくるような、奇妙な熱さだった。

紋章に引かれるように、もう一度石柱に触れた。

閃光。

脳裏に映像が走る。文字の羅列——いや、これは古代文字だ。俺が解読してきた文字体系に近いが、未知の変種が混じっている。読める部分だけ拾うと——「門」「資格」「北東」。

頭が痛い。情報量が多すぎる。手を離すと、閃光は収まった。

「……石碑に触れると情報が流れ込む?」

右手の紋章は薄く残ったまま、微かに脈打っている。これが何を意味するかは分からない。だが一つ確かなのは、この紋章と古代文字の間には何らかの関連があるということだ。

北東。石柱の紋様が示した方角を見る。地平線の向こうに、かすかに建造物の影が見えた。街か、あるいは遺跡か。

どちらにせよ、この荒野に立ち尽くしていても始まらない。俺は白衣の埃を払い、ボールペンをポケットにしまい直して歩き始めた。

二時間ほど歩くと、街が見えてきた。足の裏が熱い。革靴は乾いた荒野を歩くようにはできていない。薄い靴底を通して地面の熱がじかに伝わってくる。唇の皮が剥け、喉の奥はとうに干上がっていた。二つの太陽のうち大きい方が地平線に沈みかけ、小さい方だけが薄紫の空に残っている。光量が落ちたことで、遠くに見えていた影の正体がようやくはっきりした。石造りの城壁に囲まれた、中世ヨーロッパ風の——いや、どこかが違う。壁面に発光する紋様が走り、門の上部には浮遊する水晶のようなものが回転している。魔法、あるいはそれに類する技術体系が存在する文明。

門番の兵士に声をかけられた。言葉は——通じた。紋章の効果か、それとも転移の副産物か。理由は不明だが、意思疎通ができるなら問題ない。

「冒険者ギルドはどこですか」

ファンタジー世界なら冒険者ギルドだろう。安直な推測だが、兵士は当然のように道を教えてくれた。街の名はグラナートというらしい。

ギルドの建物は街の中心部にあった。木と石を組み合わせた頑丈な構造。扉を開けると、革鎧や金属鎧を身につけた男女がたむろしている。酒場を兼ねた受付ホール。壁一面に貼られた依頼書。既視感のある光景だが、匂いと熱気は本物だ。汗と酒と、微かに鉄の匂い。天井の梁に吊るされた魔石のランプが橙色の光を落とし、冒険者たちの影を壁に揺らしている。

受付の女性に登録を申し出ると、まず「魔力測定」を受けるよう指示された。ホールの隅に置かれた水晶球に手を置く。

水晶球が一瞬だけ明滅し——すぐに消えた。

受付の女性が首をかしげる。もう一度。同じ結果。三度目。変わらない。

「あの、これは——」

女性が困惑した顔で測定結果の羊皮紙を差し出した。

「魔力値、測定不能。低すぎて、反応閾値に達していません」

ギルドのホールが、一瞬静まり返った。そしてすぐに、くすくすと笑い声が広がる。

「おい聞いたか、測定不能だってよ」

「低すぎてって……子供以下じゃねえか」

「白衣なんか着て何しに来たんだ」

まあ、そうなるだろうな。冷静に予想できた反応だ。笑い声が背中に刺さらないと言えば嘘になる。だが、学会で自説を真っ向から否定された日々に比べれば、酔った冒険者の嘲笑など大したことはない。

受付の女性は申し訳なさそうに言った。「魔力値が基準を満たさない場合、戦闘系の依頼をお受けすることはできません。他の——」

「依頼全般を見せてもらえますか。戦闘以外で」

「え、ええ。こちらの掲示板に……」

最底辺の依頼が並ぶ掲示板。荷運び、清掃、採取——どれも日銭にしかならない。紙は湿気で波打ち、端がめくれ上がっている。大半の冒険者は目もくれない場所だ。その中に、一枚だけ異質な依頼書が貼られていた。

『郊外小遺跡の記録係募集。壁面碑文の転写作業。報酬:銅貨15枚。※添付の文字見本を読解できる者に限る』

依頼書の下部に、小さな羊皮紙が添付されている。古代文字の写しだ。周囲の冒険者たちは見向きもしない。読めないのだ。

だが俺には読める。

一目で分かった。第三期遺跡群の文字体系、その南方変種。書かれているのは——「入りし者、汝の目で真を読め」。心臓が跳ねた。指先が震えているのが自分でも分かる。研究室で拓本を前に仮説が繋がった瞬間と同じ高揚——いや、それ以上だ。この世界の古代文字は、俺の研究対象と同じルーツを持っている。偶然とは思えなかった。石板が俺を選んで飛ばしたのか、それとも俺が解読したから石板が起動したのか——どちらにせよ、繋がっている。

口元が自然と緩んだ。

魔力はゼロ。剣も振れない。だが俺の頭の中には、前世で十年かけて積み上げた古代文字の知識がある。この世界で、それがどれだけの価値を持つかはまだ分からない。

だが少なくとも——この依頼は、俺にしかできない。

依頼書を掲示板から剥がし、受付に持っていく。女性が目を丸くした。

「こちらの依頼、受けます」

「読めるんですか、これ? 三ヶ月間、誰も応募がなかった依頼ですけど……」

「読めます」

右手の紋章が、微かに熱を帯びた気がした。

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