第3話
第3話
一睡もできないまま、朝が来た。
窓の油紙が白み始める。構造視は一晩経っても消えない。天井の漆喰、壁の積み石、シーツの繊維——すべての「壊れる場所」が赤い点になって視界に浮かんでいる。慣れたわけじゃない。脳が疲弊して、恐怖を感じる余力がなくなっただけだ。
ベッドの鉄柵は右側だけが途中で途切れている。断面の周囲に散った灰色の粉は、夜のうちに自分で布に包んで枕元に置いた。証拠隠滅じゃない。誰かが触れて吸い込んだら面倒だと思っただけだ。
扉が開いた。ランドル教官と、見知らぬ教官が二人。
「起きているな。来い」
廊下を歩く。両脇を教官に挟まれて、まるで護送だ。すれ違う生徒たちが立ち止まり、俺を凝視している。「あれが昨日の」「火球の直撃を受けて生きてた奴」「無刻印のレイだろ、嘘だろ」——囁きが廊下に反響する。昨日までの「無関心」が消えて、別の種類の視線に変わっていた。好奇と、警戒。
訓練場に着いた。
学院の東棟に隣接する、石壁に囲まれた屋外演習場だ。広さはざっと五十メートル四方。中央に的——魔力耐性を持つ特殊石材で作られた円柱が立っている。構造視で見ると、通常の石より結晶が緻密に詰まっているのがわかる。B級の攻撃魔法にも耐える設計らしい。
だが同時に、その的の「壊れる場所」も視えていた。結晶粒界の交差点、応力が集中する三箇所。赤い点が静かに光っている。
「ここに立て」
ランドル教官が訓練場の中央を指した。的まで十五メートル。背後の石壁まではさらに三十メートル以上ある。
「昨日の測定で、お前のスキルは制御系が機能していないと判明した。今日は実際の出力を測る。あの的に向けて、スキルを発動しろ」
「……発動の仕方がわかりません」
「昨夜、ベッドの柵を壊しただろう」
知っていたのか。俺の顔に出たのだろう、ランドル教官が鼻を鳴らした。
「医務室には監視の術式がかかっている。粉塵化した鉄柵のデータは既に記録済みだ。お前が触れた瞬間に魔力が放出されたことも確認している」
「では聞きますが、あれと同じことを的に向けてやれと? 触れてもいない距離で?」
「できるかどうかを測るんだ。手を的に向けて、昨夜と同じ意識で魔力を送れ。制御は期待していない。だから距離を取っている」
十五メートルの距離。教官たちは訓練場の端、五十メートル先に退避している。慎重というより、恐れている。昨夜のデータがよほど異常だったのだろう。
深呼吸した。左手を的に向ける。
刻印が脈打った。
昨夜の感覚を思い出す。鉄柵を握った時、「壊そう」と思ったわけじゃなかった。ただ触れた。ただ力が流れた。あれは反射だ。無意識の放出。なら意識的に放出するには——。
構造視が的を捉えている。結晶粒界の網目。壊れる点。それに向かって、左手の刻印から「何か」を送るイメージ。
前世の知識が自動的に言語化する。エネルギーの指向性放射。点源から放射状に——いや、そんな精密な制御はまだできない。ただ、向けて、流す。それだけだ。
左手に意識を集中した瞬間、世界が軋んだ。
音はなかった。
的が消えた。
正確には——的だったものが、灰色の粉塵になって空中に広がった。直径一メートルの特殊石材の円柱が、一瞬で微粉末に分解された。粉塵が風に乗って薄い雲のように訓練場に広がる。
だがそれだけじゃなかった。
的の背後にあった石壁——訓練場の外壁が、的を起点にして扇状に崩壊していた。幅十メートル、奥行き三十メートル以上。石壁が、その向こうの通路が、さらにその奥の倉庫の壁が、すべて同じ灰色の粉になって崩れ落ちている。粉塵の雲が舞い上がり、朝の光を遮って訓練場を薄暗くした。
静寂。
そして、訓練場の端から悲鳴が上がった。教官たちの声じゃない。崩壊した壁の向こう——通路にいた生徒たちの叫び声だ。
「な——壁が!」「何が起きた!」「訓練場の方から——」
俺は自分の左手を見下ろした。刻印が激しく明滅している。掌が微かに震えていた。
向けただけだ。流しただけだ。それで——三十メートル先の石壁まで、すべてが塵に還った。
「…………」
ランドル教官が駆け寄ってきた。顔が青い。
「アストレイ。今のは——お前の出力の全部か」
「いえ……たぶん、一部です。止め方がわからなくて、意識した瞬間に出ました。どこまで出たのか、自分でも把握できていません」
教官の喉仏が上下した。
「A級上位——いや。的の魔力耐性値から逆算すると、S級相当の崩壊力だ。範囲も指向性もない、純粋な破壊力だけが……」
言葉が途切れた。教官は俺から一歩退き、他の教官たちと目配せを交わした。
三十分後。俺は訓練場ではなく、学院の最奥——隔離棟に連れてこられていた。
石壁の厚さが通常の三倍はある独房だ。窓はない。扉は内側から開かない。天井に設置された魔導灯が青白い光を落としているだけの、四畳半ほどの空間。構造視で見ると、壁には何重にも魔力抑制の術式が編み込まれている。術式の「構造」も視える——だが、それが俺の力を抑えられるかは別の問題だ。
「緊急会議を招集する。お前はここで待て。壁に触れるな。床にも触れるな。できるだけ何にも触れるな」
ランドル教官はそれだけ言って、鉄の扉を閉めた。施錠の音。遠ざかる足音。
一人になった。
何にも触れるな。昨夜と同じ言葉だ。だが今日の意味は昨夜より重い。実測データが出た。S級相当の崩壊力。制御不能。訓練場の壁を三十メートルにわたって粉塵に変えた力。
隔離は当然だ。俺だって同じ判断をする。
壁際に座り込み、膝を抱えた。床に触れるなと言われても、座らなければ立ちっぱなしだ。慎重に、最小限の接触面積で。シーツも毛布もない石の床が冷たい。
考えろ。前世の知識がある。物理学で分析できるはずだ。
まず現象の整理。俺のスキルは物質の「構造」を可視化し、その構造を崩壊させる。鉄柵は接触で崩壊した。的と石壁は非接触で崩壊した。つまり媒体は必要ない。エネルギーを指向的に放射できる。
崩壊のメカニズム。結晶粒界に沿った原子間結合の切断。これは前世の材料工学で説明がつく。粒界破壊——応力腐食割れに似たプロセスだ。ただし通常は時間と化学反応が必要なものを、一瞬で、魔力だけで実現している。
ここまでは前世の知識で記述できる。
だが——「なぜ構造が見えるのか」。ここが説明できない。
人間の眼球は可視光を受容する器官だ。物質の内部構造を直接視認する機能はない。X線でも電子顕微鏡でもない、ただの肉眼で結晶粒界が見えている。これは物理学の枠組みでは記述不可能だ。
つまりこの「構造視」は、物理現象じゃない。魔法だ。
前世の知識で「壊し方」は理解できる。だが「なぜ壊す場所が見えるのか」は、この世界の法則でしか説明できない。そして俺は——この世界の魔法理論を、何一つ知らない。三年間スキルがなかったから。授業は受けたが、実技の伴わない魔法理論は砂を噛むようなものだった。
地下書庫の古代語文献。あの刻印と同じ紋様が描かれていた頁。あそこに何か手がかりがあるかもしれない——だが今は隔離されている。本を読むことすらできない。
拳を握った。
構造視は止まらない。壁の術式が視える。床の石の粒界が視える。自分の手の皮膚の下、毛細血管を流れる赤血球の形すら——。
目を閉じた。残像が薄れるまで数秒かかる。
怖い。
正直に認めよう。怖い。
三年間何もなかった人間に、いきなりS級の破壊力が渡された。止め方がわからない。仕組みもわからない。前世の知識で「壊す」部分は理解できても、「視る」部分が完全にブラックボックスだ。理解できないものは制御できない。
鉄柵を粉にした時の感触が、まだ掌に残っている。さらさらという音。あまりにも簡単に壊れた。抵抗がなかった。
もし隔離棟の壁に無意識に触れたら。もし寝返りを打って床に手をついたら。もし——教官が扉を開けた瞬間、反射的に力が出たら。
膝を抱える腕に力がこもる。自分の体に触れている。これは大丈夫なのか。自分自身を崩壊させることは——。
考えるな。今それを考えたら、動けなくなる。
遠くで、複数の足音が聞こえた。教官たちが何人も集まっている気配。声は聞き取れないが、緊迫した空気が厚い壁越しにも伝わってくる。緊急会議。俺の処遇を決める会議だ。
退学か。幽閉か。あるいは——もっと悪い何かか。
三年間、無刻印で笑われた。それでもここにいられた。邪魔にはなっても、脅威ではなかったからだ。
今は違う。俺は脅威だ。制御できない破壊そのものだ。
魔導灯の青白い光が、石壁に俺の影を落としている。膝を抱えた影は小さく、頼りない。
構造視が、また壁の「壊れる場所」を映し出す。赤い点が静かに、等間隔に並んでいる。
その一つ一つが、俺の左手から逃げられない距離にあった。