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無刻印の万象崩壊

第2話 第2話

第2話

第2話

教官に肩を抱えられ、医務室に運ばれた。

 その間もずっと、視界がおかしかった。廊下の壁を構成する石灰——いや、この世界の言葉ならただの「積み石」だが、その内部に走る結晶粒界が白い網目のように透けて見える。教官の腕を包む布の繊維構造。革靴の鞣し工程で変性したコラーゲンの配列。情報が際限なく流れ込んでくる。脳が処理しきれず、視界の端がちかちかと明滅した。こめかみの奥がじくじくと痛む。二日酔いの朝を百倍にしたような、鈍く執拗な圧迫感だった。

「レイ・アストレイ。聞こえるか」

 教官の声がようやく意味を持った。ランドル教官。戦闘魔法学の担当で、普段は俺のような落ちこぼれに目もくれない男だ。

「……聞こえます」

「火球の直撃を受けた。本来なら即死だ。なぜ生きている」

 知りたいのはこっちだ。

 医務室のベッドに横たえられた。白い天井。その漆喰の中に含まれる�ite——砂粒ひとつひとつの結合角度まで見える。目を閉じた。まだ残像が焼き付いている。薄れはしたが、完全には消えなかった。瞼の裏に浮かぶ網目模様を振り払おうとして、余計に意識が引き寄せられる。

「左手を見せろ」

 ランドル教官の声が硬い。命令口調だが、微かに震えている。俺は左手を差し出した。

 漆黒の刻印。脈打つように明滅を繰り返すそれを見た瞬間、教官が息を呑んだ。

「——発現したのか。三年間、未発現だった貴様が」

「自分でも、わかりません」

「嘘をつくな。何をした」

「本当に何も。火球に当たって、気を失って、目が覚めたらこうなってました」

 嘘じゃない。ただ、すべてを話したわけでもない。前世の記憶——三十二年分の物理学の知識が頭の中に詰まっていることは、今は言うべきじゃないと直感が告げていた。

 ランドル教官は俺の左手をしばらく凝視し、「医療班を呼ぶ。動くな」と言い残して部屋を出た。

 一人になった。

 天井を見上げる。構造視はまだ続いている。意識を向けた対象の「成り立ち」が勝手に分解されて視える。天井から壁、壁から窓枠、窓枠からガラス——いや、この世界にガラス窓はない。油紙を張った木枠だ。その木材の年輪構造、セルロース繊維の配向、虫に食われて強度が落ちている箇所。

 すべてが見える。すべてに、壊せる場所がある。

 前世の知識が自動的に解釈を添える。結晶粒界——多結晶材料において、結晶の向きが変わる境界面。応力集中の起点。破壊は常にそこから始まる。材料工学の基礎中の基礎だ。

 なるほど。この視界は「構造を見る」だけじゃない。「壊れる場所を見る」眼だ。

 頭の中で、二つの人生が混ざり合っていた。レイ・アストレイとしての十六年。そして——名前のない物理学者としての三十二年。後者の記憶は映像というより知識の塊だった。講義室の匂いや研究仲間の顔は霞んでいるのに、数式と理論だけが刃物みたいに鮮明に残っている。

 量子力学。物質の根源を記述する理論体系。

 統計熱力学。無秩序への流れを数える学問。

 材料工学。構造の弱点を見つけ、あるいは補強する技術。

 これらが、今の「構造視」と重なっている。前世で理論として学んだことが、この眼を通すと直接「視える」のだ。理論と直感が接続されたような——そんな奇妙な感覚。

 しばらく考えをまとめていると、扉が開いた。医療班の女性魔導師が入ってきた。白衣に似た長い法衣を纏い、手には測定用の水晶器具を持っている。ランドル教官が後ろに立っていた。

「レイ・アストレイ君ね。魔力測定をします。左手を」

 水晶器具が左手の刻印に近づけられた瞬間——器具が悲鳴のような音を上げた。

「……は?」

 女性魔導師が目を見開いた。水晶の中に封じられた測定液が沸騰し、器具全体がびりびりと振動している。

「数値が振り切れています。いえ、これは……安定していない。出力が乱高下して——」

「どういう意味だ」ランドル教官が前に出た。

「平常時で既にB級上位相当の魔力残量があります。ですが出力の波形が滅茶苦茶です。制御系が一切機能していない状態……例えるなら、蛇口のない水道管です」

 蛇口のない水道管。つまり、出しっぱなしか、全閉か、どちらかしかない。制御ができないということだ。前世の知識で翻訳すれば、抵抗値ゼロの回路——ショートしている状態に近い。

「自覚症状は?」女性魔導師が俺に向き直った。

「目が、おかしいです。物の内部構造が透けて見えます。止め方がわかりません」

 二人の表情が変わった。ランドル教官が一歩退いたのが見えた。

「構造が……見える?」

「はい。今も。あなたの持ってる器具の内部、水晶の劈開面に沿って亀裂が入りかけてます。たぶん今の測定で負荷がかかりすぎた」

 女性魔導師が器具を裏返した。水晶の表面に、髪の毛ほどの細い亀裂。肉眼では見えないはずのそれが、確かにそこにあった。

「…………」

 沈黙が落ちた。

「報告書を作成します。学院長に上げる必要がある案件です」

 女性魔導師は早口でそう言い、足早に部屋を出た。ランドル教官が残り、腕を組んで俺を見下ろしている。

「いいか、アストレイ。お前のスキルが何なのか、まだ分類できていない。だが一つだけ確かなのは、制御不能な魔力は武器じゃなく爆弾だということだ。明日、訓練場で正式な測定を行う。それまで——」

「動くな、ですか」

「何にも触れるな」

 教官は釘を刺すようにそう言い、扉を閉めた。

 一人になった医務室。

 窓の外は夕暮れで、油紙越しに橙色の光が差し込んでいた。ベッドに横たわったまま、天井の漆喰の構造をぼんやりと視る。壊れる場所が、相変わらず赤い点になって浮かんでいる。

 何にも触れるな。

 その忠告の意味を、俺はまだ正確には理解していなかった。

 寝返りを打った。右手がベッドの鉄柵を掴んだ。無意識だった。ただ体勢を変えようとして、反射的に握っただけだ。

 指に力が入った瞬間、掌の下で鉄が砕けた。

 音はほとんどなかった。ぐしゃ、でもがしゃん、でもない。さらさら、という乾いた音。砂が流れるような——。

 手を開くと、掌の上に灰色の粉が乗っていた。細かい、均一な粉末。鉄柵があった場所には何もない。握っていた部分——およそ十五センチほどが、跡形もなく粉塵に変わっていた。

 断面を見た。構造視が勝手に解析する。鉄の結晶粒界に沿って、原子間結合が一斉に切断されている。熱で溶けたのでも、力で折れたのでもない。構造そのものが「解体」されたのだ。

 手が震えた。

 これは——俺がやったのか。握っただけで。ただ触れただけで。

 掌に残った灰色の粉を見つめる。さっきまで鉄柵だったものだ。患者が体を起こす時に掴む、何の変哲もない金属の棒。それが、触れた瞬間に粉になった。

 もし——これが人間だったら。

 思考が凍った。同時に、前世の知識が冷徹に補足する。人体もまた構造物だ。骨はハイドロキシアパタイトの結晶、筋繊維はアクチンとミオシンの重合体、細胞膜はリン脂質の二重層。すべてに粒界がある。すべてに、壊せる場所がある。

 この眼には、それが視えている。

 吐き気がした。ベッドの端に体を丸め、残った柵に触れないよう両手を胸の前で握りしめた。指が自分の掌に食い込む。爪が皮膚を押す感触だけが、かろうじて現実を繋ぎ止めていた。

 三年間、何も持たなかった。スキルがない。刻印がない。魔力がない。無刻印の落ちこぼれ。それでも、誰かを傷つける心配だけはなかった。

 今は違う。

 俺は触れるだけで壊せる。鉄を。石を。たぶん、人を。

 蛇口のない水道管。制御が一切効かない、B級上位の魔力。物質の構造を暴く眼。そして触れたものを粉塵に還す力。

 これはスキルなのか。それとも——呪いか。

 窓の外が暗くなっていく。油紙の向こうに、最後の夕陽が沈む。橙から紫へ、紫から藍へ。構造視を通すと、空気中の微粒子が光を散乱させる過程まで視えた。美しいと思う余裕はなかった。

 灰色の粉がシーツの上に散っている。指の間からこぼれたそれは、もう鉄だった痕跡すら残していない。風が吹けば消えてしまう、ただの塵だ。

 明日、訓練場で測定がある。この力の正体が、嫌でも明らかになる。

 俺は粉塵になった鉄柵の残骸を見つめたまま、一睡もできなかった。

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